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第129話 派閥

 私が提案した学術会議の開催は、静かな水面に投じられた石のように、アレスティード公爵領に大きな波紋を広げた。

 ブランドン執事長が迅速に発した布告は、まず屋敷の内部を、次いで領都の役人や貴族社会を、そして最後には領民たちの間をも揺さぶっていった。

 私の持つ力が「温導質」という学術的な名称で呼ばれること。そして、その力を公爵家が秘匿するのではなく、公の場で科学的に解明しようとしていること。その二つの事実は、人々の間に期待と不安、そして何よりも激しい論争を巻き起こした。

 布告から数日後、私はアレス様と共に、領内の主要な役人と貴族を集めた会議に出席していた。議題は、もちろん学術会議の開催について。その場で、領内の意見が綺麗に二つに割れていることが、誰の目にも明らかになった。



「公爵夫人の御力は、我らが北の地を守るための、天から与えられた奇跡です。それを、無粋な学者共に切り刻ませるなど、断じて容認できませぬ!」

 そう声を荒らげたのは、古くから公爵家に仕える、白髪の文官長だった。彼の意見は、伝統と秩序を重んじる保守派の考えを代弁していた。彼らにとって、私の力は神聖で、不可侵なもの。それを科学というメスで解体することは、神への冒涜に等しい行為だと感じているらしかった。

「奇跡を奇跡のままにしておいて、どうやって領地を守るというのか。文官長、あなたの考えは時代錯誤も甚だしい」

 それに冷ややかに反論したのは、鉱山開発や交易路の整備を担当する、若手の実務官僚だった。彼は、私の力を領地の発展に利用すべきだと考える、革新派の筆頭だ。

「公爵夫人の御力、その温導質とやらを科学的に解明し、その効果を数値化し、マニュアル化できれば、どれほどの利益が生まれるか。食料の長期保存、兵士の士気向上、ひいては寒冷地農業への応用も夢ではない。これは、我らが北の地が、他のどの領地をも凌駕する絶好の機会なのだ!」

 彼の言葉に、特に商業ギルドや技術職の者たちが、興奮したように頷く。

 議論は、そこから完全に平行線を辿った。

 神聖な奇跡か、利用価値のある資源か。

 保守派は、私の力を公にすれば、ヴァルモン公爵のような輩がその力を狙って、よからぬ策略を巡らせる危険性を訴えた。革新派は、そのような危険を恐れて好機を逃すことこそ、統治者として怠慢だと主張した。

 どちらの意見にも、一理ある。そして、どちらの意見も、私という人間そのものではなく、私の持つ「力」だけを論じている点では、同じだった。

 私は、玉座の少し下に置かれた椅子に座り、その激しい応酬を、ただ黙って聞いていた。全ての視線が、全ての言葉の矢が、私という的を目掛けて飛んでくる。だが、不思議と心は凪いでいた。この状況は、すでに予測していたことだからだ。



 議論が白熱し、互いを罵り合うような言葉まで飛び交い始めた、その時だった。

 それまで、玉座で腕を組み、沈黙を守っていたアレス様が、静かに、動いた。

 彼は、ゆっくりと立ち上がった。ただそれだけの動作で、あれほど騒がしかった議場が、水を打ったように静まり返る。全ての視線が、この北の地の絶対的な支配者に、畏怖と緊張と共に注がれた。

 アレス様は、その場にいる全員の顔を、一人一人、ゆっくりと見渡した。その氷のような瞳には、何の感情も浮かんでいない。だが、その視線に射抜かれた者は皆、まるで心の内を見透かされたかのように、居心地悪そうに身じろぎした。

 やがて、彼は、静かに、しかし、議場の隅々まで響き渡る、低い声で、ただ一言だけ、言った。

「私は、私のパートナーの判断を、全面的に支持する」

 その言葉は、何の装飾も、何の弁明もなかった。

 だが、その一言が持つ重みは、絶対的だった。

 それは、ここにいる誰一人として、逆らうことのできない、最終決定の宣告。

 保守派も、革新派も、誰もが息を飲み、反論の言葉を失った。彼らの長々とした議論が、この一言の前では、何の意味も持たないことを、悟ったからだ。

 アレス様は、再び玉座に腰を下ろすと、続けた。

「学術会議は、予定通り、一月後に開催する。これは決定事項だ。これ以上の議論は不要。お前たちの仕事は、この決定が、アレスティード領にとって最大の利益となるよう、己の職務を全うすることだ。以上だ」

 有無を言わさぬ、統治者の言葉。

 議場は、完全な沈黙に支配された。先ほどまでの熱狂が、まるで嘘のようだった。

 こうして、私の提案は、アレス様の鶴の一声によって、正式に、領地の総意となった。



 会議が終わった後、私はアレス様の書斎にいた。

 彼は、先ほどの議場での威圧的な姿が嘘のように、静かに執務机に向かい、招待客のリスト案に目を通している。その横顔には、統治者としての厳しい表情が戻っていた。

 私は、彼の内心が、決して、先ほどの言葉のように、単純なものではないことを、分かっていた。

 私の力を公にすれば、私を狙う人間が増えるだろう。彼が最も警戒しているヴァルモン公爵のような男が、さらに現れるかもしれない。統治者として、そして、一人の男として、彼は、私が危険に晒される可能性を、誰よりも、懸念しているはずだ。

 それでも、彼は、私の意志を尊重し、その判断を、全面的に支持してくれた。

 私が、黙って彼の横顔を見つめていると、彼は、リストから顔を上げずに、静かに口を開いた。

「ブランドンに、屋敷の警備体制を、倍に増強するよう命じた。会議の期間中は、王都から、腕利きの護衛も、数名、臨時に雇い入れる」

 それは、彼の懸念の、具体的な現れだった。

「招待客のリストも、私が、もう一度、全て再精査する。少しでも、こちらの意図を曲解しそうな人間は、招聘しない」

 彼は、私の安全を守るために、考えうる、全ての対策を、すでに、講じ始めていた。

 その、言葉少ない、しかし、確かな配慮が、私の胸を、温かくする。

「ありがとうございます、アレス様」

 私がそう言うと、彼は、初めて、リストから顔を上げ、私の目を、まっすぐに、見た。

「礼を言う必要はない。君を守ることは、私の義務だ」

 彼は、それを、当然のこととして、言い切った。

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