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第12話 真夜中の訪問者と甘くないお粥

 その夜、私は久しぶりに実家の夢を見ていた。冷たい廊下で、魔力がうまく循環せずに苦しむ異母妹。助けを求める彼女に手を伸ばそうとする私を、継母が「お前は我慢強いのだから」と引き留める。あの呪いの言葉が、氷の鎖のように私の体に絡みついてくる。

 息苦しさで目が覚めた、その時だった。

 控えめだが、切羽詰まったノックの音が、私の部屋の扉を叩いた。

「奥様!夜分に申し訳ございません!」

 若い侍女の、ひっくり返りそうな声。胸騒ぎを覚えながら扉を開けると、彼女は青ざめた顔で立っていた。

「閣下が、執務室で……!」

 その言葉を聞き終える前に、私は部屋を飛び出していた。夢の中の冷たい鎖が、現実の不安へと姿を変える。

 執務室の扉を開けると、暖炉の火が弱々しく揺れる薄闇の中に、ソファにぐったりと横たわるアレスティード公爵の姿があった。額には脂汗が浮かび、普段は血の気のないその顔は、苦痛に歪んで青白い。片手で、硬く胃のあたりを押さえている。

 駆け寄ってきた侍女長フィーが、心配そうに私を見つめた。

「医師をお呼びしますか?」

「いいえ、その必要はないわ」

 私は冷静に首を振った。彼のこの症状には見覚えがある。前世で、ストレスと不摂生な食事で胃を壊した私自身が、何度も経験したものだ。そして、彼の体内で魔力が澱み、冷え切っているのが、私の「温導質」を通して肌で感じられた。長年の冷えた食事が、彼の体を内側から蝕んでいたのだ。これは、薬より先に、まず温かいもので内側から巡りを良くしてあげるべきだ。

「大丈夫。すぐに温かいものを作ります」

 私はフィーに、湯たんぽと毛布を用意するように指示すると、迷わず厨房へと走った。

 今、私がすべきことは、ただ一つ。



 深夜の厨房は、しんと静まり返っていた。私は少しも慌てなかった。こういう緊急事態の対応は、前世で嫌というほど経験している。トラブル対応は、いつだって冷静さと段取りがすべてだ。

 私はまず、小さな鍋にミルクを注ぎ、火にかける。それから、戸棚から消化を助ける薬草と、柔らかく炊いてあった米を取り出した。

 温めたミルクに、米と、細かく刻んだ薬草を入れる。焦げ付かないように、木べらでゆっくりとかき混ぜる。ふつふつと、優しい音が立ち始めた。甘い香りは立てたくなかった。弱った胃に、甘味はかえって負担になることがある。必要なのは、ただひたすらに優しく、体を温めるもの。

 鍋に手をかざし、私は静かに意識を集中させた。私の持つ「温導質」の力を、粥の一粒一粒に染み込ませるように。彼の凍てついた魔力が、どうか穏やかに巡りますように、と。

 それは祈りに近かった。

 実家では、私のこの力は、ただ異母妹に魔力を供給するための「道具」だった。けれど、今は違う。私は、私の意志で、この人のために力を使っている。誰かに強いられた「いい子」だからじゃない。私が、そうしたいからだ。

 出来上がった粥を陶器の器によそい、盆に乗せる。湯気と共に、薬草の穏やかな香りが立ち上った。これなら、大丈夫。



 公爵は、フィーの手によって寝室のベッドへ移されていた。私が部屋に入ると、彼は弱々しく目を開け、私を認めて眉をひそめた。

「……何をしに来た」

 その声は、いつもの威圧的な響きを失い、ひどくかすれていた。

「お食事です、閣下」

 私がベッドサイドに盆を置くと、彼は顔を背けた。

「必要ない。下がれ」

 氷の公爵の、最後の意地。だが、その弱々しい抵抗は、今の私には通用しない。

 私は構わず、ベッドの縁に腰掛けた。そして、匙で粥をすくい、彼の口元へと運ぶ。

「弱っている時くらい、意地を張らないでください」

 私の静かだが、有無を言わせぬ声に、彼は驚いたようにこちらを見た。その氷の瞳が、一瞬だけ揺らぐ。

「さあ、一口だけでも。体の中から温めれば、楽になります」

 彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがて諦めたように、小さく口を開けた。

 温かい粥が、彼の体の中に、ゆっくりと染み渡っていく。

 一口、また一口と、私は無言で粥を運び続けた。彼は何も言わず、ただされるがままになっていた。部屋に響くのは、暖炉の薪がはぜる音と、陶器の匙が器に当たる、かすかな音だけ。

 粥が半分ほどなくなった頃だろうか。彼の体内で澱んでいた魔力が、ゆっくりと、しかし確実に巡り始めるのを感じた。苦痛に歪んでいた眉間のしわが和らぎ、険しい表情が少しずつ解けていく。

 器が空になる頃には、彼の呼吸は、穏やかな寝息に変わっていた。

 私がそっと器を置こうとした、その時だった。

 彼の体が、不意にこちら側へ傾いだ。そして、私の腕に、こてん、と頭を預けるような形で、彼は本格的な眠りに落ちてしまった。

 規則正しい寝息が、私の耳元で聞こえる。いつもきつく結ばれていた唇は、わずかに緩んでいる。無防備な、まるで子供のような寝顔。

 私の腕に感じる、彼の髪の柔らかさと、確かな重み。契約で定められた境界線を、あっさりと越えてしまった、予期せぬ接触。

 心臓が、とくん、と大きく跳ねた。

 この人は、ただ不器用なだけなのかもしれない。「人でなし」でも「血も涙もない」わけでもなく、ただ、自分の弱さを誰にも見せられずに、ずっと一人で戦ってきただけなのではないか。

 氷の仮面の下に隠されていた、彼の本当の姿に、ほんの少しだけ触れてしまった夜。

 私は彼を起こさないように、そっと息を殺しながら、しばらくの間、動くことができなかった。腕に伝わる彼の体温が、なぜだか私の心まで温めていくような、不思議な感覚に包まれていた。

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