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第128話 帰還と置き土産

 ヴァルモン公爵領での視察日程を全て終え、私たちはアレスティード領への帰路についていた。

 馬車の窓から見える景色は、南国の鮮やかな色彩から、徐々に私たちがよく知る北の落ち着いた色合いへと戻りつつある。車内には、来る時のようなぎこちない沈黙はもうなかった。

 アレス様は私の向かいの席で、視察中に交わした仮協定の書類に目を通している。私はその姿を、以前よりもずっと落ち着いた気持ちで見つめていた。

 今回の視察は、あまりにも多くのことを私にもたらした。華やかな異文化との接触、イザベラ様たちとの価値観の衝突、そして突然の嵐と共同作業。それらの経験は、私とアレス様がいかに異なる人間であるかではなく、いかに互いが唯一無二の補完関係にあるかを浮き彫りにした。

 私たちは、言葉を交わさなくても、互いの考えていることが以前より明確に分かるようになっていた。この沈黙は、断絶ではなく、強固な信頼の証だった。



 私の心境が変化した理由は、もう一つある。それはヴァルモン領を出発する直前に、ギヨーム公爵が私に残した言葉だった。

 公爵邸の玄関ホールでの別れの挨拶。イザベラ様は、あの炊き出しの一件以来、私に対して複雑な表情を向けていたが、最後は貴族らしい完璧な礼儀で送り出してくれた。

 問題はギヨーム公爵だった。彼はアレス様と短い言葉を交わした後、私の前へ進み出ると、別れの握手を求めてきた。

 私が手袋をはめた手を差し出すと、彼はそれを恭しく取った。そして、アレス様がすぐ隣に立っているにもかかわらず、身を乗り出して私の耳元に顔を寄せたのだ。

 周囲からは、親愛の情を示す別れの挨拶に見えただろう。だが、彼が私にだけ聞こえる声で囁いた内容は、全く違うものだった。

「いつでも、我が領地は貴女を歓迎する」

 その声には、あの食えない笑みが含まれていた。

「あの息の詰まる氷の城に飽き飽きしたら、いつでも太陽の元へ来るといい。貴女のその素晴らしい才能を、我々は正当に評価し、最大限に活用してみせよう」

 甘い誘惑を装った、明確な引き抜き工作。そして、アレス様に対するこれ以上ない侮辱と宣戦布告だった。彼は私の「温導質」という力を、喉から手が出るほど欲しているのだ。

 私が反応するより早く、アレス様が動いた。

 彼は無言で私の肩を引き寄せ、ギヨーム公爵から物理的に距離を取らせた。その表情は氷のように冷たく、ギヨーム公爵を射抜くような視線を向けている。

「行くぞ、レティシア。時間が惜しい」

 アレス様はそれだけを告げると、ギヨーム公爵の返事も待たずに私を馬車へと促した。ギヨーム公爵は、背後で愉快そうに小さく笑っていた。

 馬車に揺られながら、私はその時の彼の言葉を反芻していた。

 アルマンという研究者との出会いによって、私の力には「温導質」という名前が与えられた。そしてギヨーム公爵のような人間は、それを強力な「道具」として認識し、利用しようと動き出している。

 もう、知らなかった頃には戻れない。

 私が自分の力の正体から目を背け、曖昧なままにしておけば、周囲が勝手にそれを定義し、利用しようとするだろう。アルマンが言った「血筋」という定義も、ギヨーム公爵が考える「道具」という定義も、私は受け入れるつもりはない。

 ならば、私が自分で定義するしかない。この力が何であり、何のために使うのかを。



 屋敷に到着したのは、夜も更けた頃だった。

 慣れ親しんだ冷たく澄んだ空気と、使用人たちの出迎えに、張り詰めていた気が少しだけ緩む。だが、休んでいる暇はなかった。

 私は旅装を解くよりも先に、アレス様の書斎へと向かった。アレス様も、私が来ることを予期していたように、執務机の前で待っていた。傍らには、すでにブランドン執事長が控えている。

 私は二人の前に立つと、帰りの馬車の中で固めた決意を口にした。

「アレス様、ブランドン。早急に手配をお願いしたいことがあります」

 二人の視線が私に集まる。私は淀みなく続けた。

「王都のアカデミーへ、正式な招聘状を送ってください。魔力医学の研究者アルマン氏と、その分野の専門家たちをこのアレスティード領へ招きたいのです」

 ブランドンが、わずかに眉を上げた。

「奥様、それはつまり、奥様の御力を公にするということでしょうか。リスクが大きすぎます。ヴァルモン公爵のような輩が、さらに群がってくることになりかねません」

 彼の懸念はもっともだ。アレス様も、黙って私の目を見つめている。

「ええ、その通りです。ですが、隠し続けることのリスクの方が大きくなりました」

 私は、アルマンから聞いた「血筋説」の話と、ギヨーム公爵の囁きについて、二人に簡潔に伝えた。

「私が沈黙していれば、私の力は『ラトクリフ家の血筋による奇跡』として、あるいは『利用価値のある便利な道具』として、他者によって勝手に定義されてしまいます。それは、この領地にとっても、私自身にとっても、決して良い結果を生みません」

 私は机の上に両手をつき、アレス様をまっすぐに見つめた。

「私は、この力の正体を科学的に解明したいのです。それが『血筋』などではなく、私の意志と技術によって制御可能なものであると証明し、そして、このアレスティード領の統治のために、最も効率的に運用する方法を確立したい。そのためには、専門家の知識が必要です」

 これは、私が「いい子」の仮面を捨てて以来の、最大の賭けであり、自己主張だった。運命や生まれのせいにせず、自分の持っているものを全て使いこなして、この場所で生きていくという宣言。

 書斎に沈黙が落ちた。

 アレス様は、組んだ両手の上に顎を乗せ、深い思索の表情で私を見ていた。彼もまた、統治者として、その利点と危険性を天秤にかけているのだろう。

 やがて、彼は静かに口を開いた。

「ブランドン、手配しろ」

「閣下、よろしいのですか」

「私のパートナーが、統治のために必要だと判断したのだ。ならば、その環境を整えるのが私の役目だ」

 アレス様の言葉には、一点の迷いもなかった。彼は私を見ると、微かに口の端を持ち上げた。

「学術会議を開催する。王都だけでなく、各領地からも聴講者を募れ。アレスティード公爵家が、新しい技術を定義し、主導権を握る」

 それは、来るべき外圧に対する、彼なりの迎撃態勢の構築でもあった。

 ブランドンは恭しく一礼した。

「承知いたしました。直ちに準備に取り掛かります。招待客のリストアップと、警備体制の見直しも必要ですな」

 執事長が足早に退室していく。書斎には、私とアレス様の二人が残された。

 これから、騒がしくなるだろう。ギヨーム公爵も、間違いなくこの会議に乗り込んでくるはずだ。

 だが、不思議と不安はなかった。目の前にいる最強のパートナーと一緒なら、どんな嵐も乗り越えられる。そう確信していたからだ。

 私たちは、これから始まる戦いに向けて、視線を交わした。

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