第126話 招かれざる客
嵐は、来た時と同じように、唐突に過ぎ去っていった。
分厚い雲の切れ間から、穏やかな西日が差し込み始め、教会のステンドグラスを通して、床にいくつもの色鮮やかな光の模様を描き出す。あれほど激しく窓を叩いていた風雨の音は完全に止み、世界はまるで嘘のような静けさを取り戻していた。
炊き出しは、ほぼ全ての人に行き渡っていた。聖堂のあちこちで、人々は空になった器を手に、あるいは床に座り込み、あるいは壁に寄りかかり、深い安堵のため息をついている。スープの湯気と人々の体温で、石造りの聖堂の中は、嵐が来る前よりもずっと温かく、そして穏やかな空気に満たされていた。
私もようやく一息つき、壁際に立ってその光景を静かに眺めていた。隣ではイザベラ様が、汚れたドレスの裾も構わずに、まだ残っているスープの鍋を静かにかき混ぜている。彼女の横顔には、もうあの完璧な微笑みはなかった。ただ、目の前の光景を静かに受け止める、素顔の女性がいるだけだった。
少し離れた場所では、アレス様とギヨーム公爵が、今後の対応について低い声で話し合っている。ギヨーム公爵の表情から、あの食えない笑みは消え、統治者としての真剣な眼差しが戻っていた。彼は時折、スープをすする領民たちに目をやり、何かを深く考えているようだった。
*
その時、一人の男が、私の方へ、静かに歩み寄ってくるのに気づいた。
これまで、聖堂の柱の陰で、炊き出しの様子をただじっと観察していた人物だった。私は彼の存在には気づいていたが、他の避難者と同じように、嵐をやり過ごしているだけなのだろうと思っていた。
男は私の数歩手前で立ち止まると、丁寧な仕草で一礼した。
痩身で、年の頃は三十代半ばだろうか。高価な生地ではないが、清潔で仕立ての良い、学者のような服装をしている。色素の薄い髪と、眼鏡の奥にある理知的な灰色の瞳が、強い印象を残した。彼は、この場の誰とも違う、静かで、分析的な空気をまとっていた。
「突然、失礼いたします。公爵夫人」
その声は、見た目の印象と同じように、落ち着いていて、感情の起伏がほとんど感じられないものだった。
「あなたは?」
「私はアルマンと申します。王都のアカデミーで、魔力医学を研究している者です。この地方の特殊な薬草の植生を調査するために、数日前からこちらに滞在しておりました」
王都のアカデミー。その言葉に、私は少しだけ身構えた。
彼は、私の警戒を察したのか、あるいは全く意に介していないのか、その表情を変えずに続けた。
「先ほどからの貴女様の炊き出し、拝見しておりました。見事な手際と、的確な判断力。そして何より、あのスープ。もし、差し支えなければ、私にも一杯、分けてはいただけないでしょうか」
その申し出は、空腹を満たすためというよりは、純粋な知的好奇心から発せられているのが、はっきりと分かった。
私は無言で頷くと、まだ温かいスープを小さな器に注ぎ、彼に手渡した。
アルマンは「ありがとうございます」と短く礼を述べると、その器を両手で包み込むように持った。そして、飲む前に、まず、そのスープを、まるで貴重な研究対象を観察するかのように、じっと見つめた。彼は、湯気の立ち上り方、液体の色、そして、その香りを、一つ一つ確かめているようだった。
やがて、彼は、そのスープを、一口だけ、ゆっくりと、口に含んだ。
次の瞬間、彼の、それまで全く変わることのなかった理知的な表情が、初めて、崩れた。
その灰色の瞳が、驚愕に、大きく、見開かれる。
「これは……」
彼は、信じられないというように、もう一度、器の中のスープに視線を落とした。そして、再び、今度は確かめるように、もう一口、ゆっくりと味わった。
「……信じられない」
彼の口から漏れたのは、か細い、しかし、確信に満ちた呟きだった。
「ただ、温かいだけではない。塩とハーブの風味も確かにある。だが、それだけではない。この液体そのものに含まれる、微弱な魔力の循環が、異常なまでに、活性化している。まるで、このスープ自体が、意思を持って、飲む者の体内で、最も効率の良い経路を探しているかのようだ。まるで、命を吹き込まれたかのような液体だ」
私は、彼の言葉に、息を飲んだ。
彼が言っていることは、私が長年の経験則として、感覚だけで理解していた現象、そのものだったからだ。
アルマンは、その驚愕に満ちた瞳を、器から、私の手元へと、ゆっくりと移した。その視線は、まるで私の皮膚を透かし、その内側にある何かを、見通そうとしているかのようだった。
「夫人。失礼を承知でお尋ねする。貴女の、その手は、一体……? いいえ、貴女は、ご自身の体質について、どこまでご存知なのですか」
その問いの意味が、すぐには理解できなかった。
私の戸惑いを見て、彼は、確信を深めたように、静かに、しかし、はっきりと、その言葉を口にした。
「貴女は、極めて希少な『温導質』の持ち主だ。そうでしょう?」
おんどうしつ。
初めて聞く、その言葉の響きが、私の頭の中で、奇妙な反響を起こした。
私のこの力に、名前があった。
その事実は、私が思っていた以上に、私を、動揺させた。
私の反応が、肯定そのものであることを、彼は正確に読み取っていた。彼は、興奮を抑えるように、一度、短く息をつくと、さらに、私の世界を根底から揺さぶるような、言葉を続けた。
「貴女が、今、ここで、行ったことは、多くの人々にとって、奇跡のように見えるかもしれない。だが、それは、魔法などではない」
彼は、眼鏡の位置を、指先で、くいと押し上げた。その灰色の瞳が、純粋な、そして、少しだけ、狂気を帯びた、探究者の光を、宿している。
「それは、おそらくは、科学で、完全に、説明できる、物理的な現象のはずだ」