第125話 嵐の中のスープ
私が挑戦を受け入れたことで、広場の熱気は最高潮に達した。
人々はこれから始まる華やかな対決に胸を躍らせ、舞台の上の私たち二人を好奇と期待に満ちた目で見つめている。一方の舞台には、芸術品のように美しいイザベラ様のフルーツタルト。もう一方には、私がこれから調理する、土の匂いがする素朴な根菜と干し肉。その対比はあまりにも鮮やかで、勝敗は始まる前から決しているように誰もが思っただろう。
イザベラ様は優雅な仕草でナイフを手に取り、完璧なタルトに最初の切れ込みを入れようとした。私が大きな鍋に水を張り、火の準備を始めた、まさにその時だった。
それまで突き抜けるように青かった空に、突如として、不吉な灰色の雲が急速に広がった。陽気な音楽を奏でていた楽団の楽器の音が、一つ、また一つと止まっていく。広場を吹き抜ける風が、急に冷たく湿ったものに変わり、人々の楽しげなざわめきが、不安を含んだ囁きへと変わっていった。
「天気が……」
誰かがそう呟いた直後、空が裂けたかのような閃光とともに、轟音が広場を揺るがした。一瞬の静寂の後、大粒の雨が、まるで天の底が抜けたかのように、猛烈な勢いで叩きつけ始めた。
ほんの数分前までの祝祭の雰囲気は跡形もなく消え去り、広場は阿鼻叫喚の渦に叩き込まれた。人々は悲鳴を上げながら雨宿りの場所を求めて右往左往し、色とりどりの天幕は強風にあおられて無残に引き裂かれていく。
「皆さん、落ち着いて! 広場の向かいにある大教会へ避難してください!」
ギヨーム公爵が張り上げた声は、しかし、吹き荒れる風雨の音にかき消されそうだった。
アレス様は即座に状況を判断し、私たちの護衛たちに簡潔に、しかし厳格な命令を下していた。
「負傷者の救護を優先しろ。女子供、老人を先に教会へ誘導するんだ。動ける者は避難の手助けを!」
その声は混乱の中でもよく通り、彼の護衛たちは一糸乱れぬ動きで人々を誘導し始めた。私もアレス様の隣で、怯える子供の手を引き、その母親の背中を押して教会へと急いだ。
*
石造りの大教会の中は、避難してきた人々でごった返していた。
外の暴風雨の音は、厚い壁とステンドグラスに遮られて少しだけ和らいでいるが、それでも人々の不安をかき消すには至らない。むしろ、閉ざされた空間に大勢が密集していることで、その不安は互いに伝染し、重く淀んだ空気となって聖堂全体に満ちていた。
問題は、不安だけではなかった。突然の嵐でずぶ濡れになった人々が、石造りの教会の冷たい空気の中で、みるみるうちに体温を奪われていたのだ。あちこちで体の震えを抑えきれない者の姿が見え、特に抵抗力の弱い幼い子供や老人たちの顔色は、見る間に青ざめていく。唇を紫色にして、小さく咳き込む子供もいる。
このままでは、嵐が過ぎ去る前に、多くの者が体調を崩してしまうだろう。
私は聖堂の隅に目をやった。そこには、ずぶ濡れになることは免れたものの、なすすべもなく立ち尽くすイザベラ様の姿があった。彼女の隣のワゴンに載せられた、あの芸術品のように美しかったフルーツタルトは、今のこの状況では何の役にも立たない。冷たい果物と甘いクリームは、凍える人々の体を温めることはできない。それは、今の彼女が一番よく分かっているはずだった。
人々が必要としているのは、甘い菓子ではない。体を芯から温める、温かい食事だ。
私はアレス様のもとへ駆け寄った。彼は教会の入り口で、後から駆け込んでくる人々を差配している。
「アレス様、炊き出しをします。火と、大きな鍋が必要です。それと、食材を」
「分かっている」
彼は私の言葉を遮るように、短く答えた。
「すでに護衛の何人かを市場へ向かわせた。商人も避難しているだろうが、半ば強引にでも、食料を確保させている」
その的確な判断と行動力。私は彼に深く頷くと、すぐに教会の聖職者を探し、事情を説明して厨房の一角を借りる許可を得た。
ほどなくして、アレス様の護衛たちが、ずぶ濡れになりながらも、大きな麻袋をいくつも抱えて戻ってきた。中に入っていたのは、ありふれた根菜、干し肉の塊、そして少し硬くなった黒パン。決して贅沢な食材ではない。だが、今の私たちにとっては、何よりも貴重な宝物だった。
私は借り受けた厨房で、迷うことなく調理を始めた。侍女たちに指示して大きな鍋に水を汲ませ、火をおこさせる。私は袖をまくり、麻袋から泥のついたままのジャガイモや人参を取り出すと、驚くほどの速さでその皮を剥き、次々と鍋に入れられる大きさに切り分けていった。
その、私の無駄のない手際の良さを、少し離れた場所から、じっと見つめている視線があった。
イザベラ様だった。
彼女は、何も言わずに、ただ、私が一心不乱に野菜を切る様子を見ていた。その青い瞳には、悔しさ、戸惑い、そして、彼女自身にもまだ分からないであろう、複雑な感情が渦巻いていた。
私は、彼女に構うことなく、作業を続けた。干し肉を叩いて柔らかくし、風味を出すために鍋へ放り込む。塩と、幸いにも手に入った数種類のハーブで味を調える。やがて、厨房に、食欲をそそる温かい香りが立ち上り始めた。
その香りに誘われるように、何人かの人々が厨房の入り口に集まり始める。その希望に満ちた視線が、私の背中に突き刺さった。
その時だった。
イザベラ様が、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで、私の前に進み出た。彼女は、高価なドレスの裾が汚れるのも構わずに、私の前に立つと、一瞬だけ、悔しそうに唇を噛んだ。そして、全てのプライドをかなぐり捨てるかのように、はっきりとした声で、私に言った。
「私に、何をさせればいいのかしら」
私は、手を止めずに、ただ、目の前のまな板に置かれたカブを指さした。
「その皮を、剥いていただけますか」
彼女は、一瞬ためらった後、無言で小さなナイフを手に取ると、私の隣に並び、慣れない手つきで、しかし、必死に、カブの皮を剥き始めた。
私たちの間に、言葉はなかった。ただ、野菜を切る音と、鍋が煮える音だけが響く。料理勝負を仕掛けた相手と、こうして並んで調理をすることになるとは、ほんの一時間前には、想像もできなかった。
*
最初に温かいスープが注がれた器は、唇を紫色にして震えていた、一番幼い子供の手に渡された。母親に支えられながら、その子が、ふうふうと息を吹きかけて冷ましたスープを、こくりと一口、飲み込む。
その小さな体に、温かい液体が染み渡っていくのが、目に見えるようだった。強張っていた体が、ほんの少しだけ、緩む。そして、その青ざめていた頬に、かすかな赤みが、さした。
「……おいしい」
か細い、しかし、はっきりとしたその一言が、静まり返っていた聖堂に、小さく、響いた。
それを合図にしたかのように、人々は次々と列を作り始めた。私たちは、ありったけの器を使い、一人、また一人と、スープを配っていく。
ギヨーム公爵は、最初は腕を組んで、その様子をただ傍観していた。彼の瞳には、まだ、この状況を冷静に分析するような、統治者としての冷徹な光が宿っていた。
しかし、温かいスープを受け取った領民たちの顔に、深い安堵の表情が次々と広がっていくのを見て、彼の表情が、わずかに、変化した。それは、恐怖と寒さから解放された、人間の、最も素朴で、偽りのない表情だった。感謝の言葉を述べ、涙を浮かべる老人。スープを分け合って飲む若い夫婦。その光景を、彼は、ただ、じっと、見つめていた。
やがて、彼は、自ら、見台を持ち上げると、私たちの隣に立った。そして、熱い鍋から、慣れない手つきでスープを掬うと、列に並ぶ自分の領民に、無言で、手渡し始めた。
イザベラ様が、驚いて、自分の夫の顔を見た。
しかし、彼は、妻の視線に気づかないかのように、ただ、黙々と、スープを配り続けた。
両領地の威信をかけた料理勝負は、いつの間にか、人々の命を繋ぐ、ただの温かいスープを作る、共同作業へと、その姿を変えていた。
教会の外では、まだ、激しい嵐が吹き荒れている。しかし、この聖堂の中だけは、立ち上るスープの湯気と、人々の安堵のため息とで、確かな温かさを、取り戻し始めていた。