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第124話 甘い罠

 視察の最終日は、ヴァルモン領が主催する大規模な慈善バザーが開催されることになっていた。

 街の中心にある広場は、色とりどりの天幕と陽気な音楽、そして行き交う人々の華やかな衣装で埋め尽くされている。空気は暖かく、香辛料と焼菓子の甘い香りが混じり合って漂っていた。どこを見ても笑顔と活気に満ち溢れている。それは、厳格な規律と静寂に支配された私たちの北の都とは、あまりにも対照的な光景だった。

 アレス様と私は、主催者として中央に設けられた来賓席に案内された。彼の表情は相変わらず硬いままだが、その視線は広場の隅々までを冷静に観察している。統治者として、この南の地の豊かさの源泉を探っているのだろう。



 バザーが最高潮に達した昼過ぎ、楽団の演奏が止み、広場に設置された舞台にヴァルモン公爵ギヨームが姿を現した。その場にいた全ての視線が、彼のその人好きのする笑顔に引きつけられる。

「皆さん、本日はお集まりいただき感謝する! このバザーをさらに盛り上げるため、特別な催しを用意した!」

 彼の声はよく通り、聴衆の期待を巧みに煽った。

「本日、この場には、遠い北の地より、尊敬すべきアレスティード公爵とその麗しい夫人がお見えになっている! そこで、両公爵夫人に、それぞれの領地の誇る特産品を使ったお料理を、皆様に振る舞っていただこうと思う!」

 その突然の発表に、広場は大きな歓声と拍手に包まれた。

 すぐに舞台の袖から、大きなワゴンが二台運び込まれる。一台の上には、私たちの領地から持参した、素朴だが質の良い根菜や干し肉、そして黒パンなどが並べられている。

 そしてもう一台のワゴン。その上に置かれたものを見て、会場からひときわ大きな感嘆のため息が漏れた。

 それは、芸術品のように美しい、巨大なフルーツタルトだった。磨き上げられた銀の大皿の上で、この領地で採れたであろう色とりどりの果物が、宝石のようにきらめいている。イザベラ様が、自信に満ちた微笑みを浮かべてその隣に立っていた。彼女の準備は、あまりにも完璧だった。

 これは、仕組まれた舞台だ。

 私がそう直感した時、ギヨーム公爵が、さらに声を張り上げた。その瞳は、楽しげに、しかし挑戦的に、まっすぐ私たちを見据えている。

「だが、皆さん! これは単なる慈善事業ではない! 両領地の威信をかけた、真剣勝負といこうではないか!」

 会場が、興奮で、大きくどよめく。

 彼は、まるで最高の見せ場を心得た役者のように、ゆっくりと間を置いてから、その決定的な言葉を放った。

「この勝負に勝った方の領地には、次の交易協定において、我がヴァルモン領から、特別な便宜を図ることを、この場の皆さんの前で、固く約束しよう!」

 その言葉が持つ意味は、あまりにも大きい。それは、単なる料理の優劣を決める以上の、政治的な駆け引きだった。私たちを公衆の面前で試すための、そして、もし私たちが負けるか、あるいはこの勝負から逃げれば、アレスティード公爵のプライドを完膚なきまでに叩き潰すための、巧妙に仕組まれた甘い罠。

 会場の熱気は、もはや最高潮に達していた。誰もが、北の公爵夫妻がこの屈辱的とも言える挑戦にどう応えるのか、固唾を飲んで見守っている。

 私の隣で、アレス様が、静かに、しかし、明確な怒りの空気を放ちながら、腰を浮かせかけた。彼が、その申し出を、氷のような冷たさで、断ち切ろうとしているのが分かった。

 その瞬間、私は、テーブルの下で、彼の腕を、そっと、掴んで制した。

 彼は、驚いて、私を見た。その深い色の瞳に、なぜ止めるのだ、という問いの色が浮かんでいる。

 私は、彼にだけ聞こえるように、静かに囁いた。

「大丈夫です。私に、お任せください」

 そして、私は、ゆっくりと席を立った。

 広場の全ての視線が、私の一挙手一投足に注がれているのを感じる。

 私は、舞台上のギヨーム公爵を、まっすぐに見つめ返した。そして、この場にいる誰にでも聞こえるように、はっきりと、そして、穏やかな微笑みを浮かべて、言った。

「お受けいたしますわ、ヴァルモン公爵閣下」

 私のその返答に、会場は一瞬だけ静まり返り、次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

 隣のアレス様が、息を飲む気配がした。

 私は、この勝負を、単なる勝ち負けを決める場だとは考えていない。これは、私が、そして、私たちが暮らす北の地が、本当に大切にしているものは何かを、この、華やかで、少しだけ、心が冷えた土地の人々に、伝えるための、絶好の機会なのだ。

 私は、舞台の上のイザベラ様と視線を交わした。彼女は、勝利を確信した、完璧な微笑みを浮かべていた。

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