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第122話 二つの食卓

 アレスティード領を発って数日後、私たちが到着したヴァルモン公爵領は、何もかもが北の地とは対照的だった。

 重厚な灰色の石で築かれた私たちの都とは違い、ここでは白や黄土色の漆喰で塗られた明るい壁の建物が、青い空を背景に軽やかに立ち並んでいる。石畳の道は広く、道の両脇には陽光を求めるようにテラス席を設えた店が軒を連ね、そこから人々の陽気な笑い声が絶えず聞こえてきた。

 空気に含まれる湿度が違う。光の色が違う。そして何より、人々の纏う衣服の色が、驚くほどに鮮やかだった。

 市場を通り抜ける馬車の窓から見えたのは、干し肉や塩漬けの魚ではなく、瑞々しい葉をつけた野菜や、艶やかに光る色とりどりの果物、そして見たこともないような多種多様な香辛料の山だった。豊かさとは、こういう光景を言うのだろう。

 私の隣に座るアレス様は、窓の外の景色に目を向けながらも、その表情は普段と変わらず硬いままだった。むしろ、この開放的な明るさの中で、彼の纏う厳格な空気は、より一層その輪郭を際立たせているように見えた。



 ヴァルモン公爵家の屋敷は、街の中心にある小高い丘の上に建っていた。城というよりは、優美な宮殿といった方がふさわしい、白亜の壮麗な建物だ。

 馬車を降りた私たちを、屋敷の主であるヴァルモン公爵夫妻が、自ら玄関ホールで出迎えてくれた。

「ようこそ、アレスティード公爵、そして公爵夫人。長旅、お疲れだったでしょう」

 穏やかな笑みを浮かべてそう言ったのは、ヴァルモン公爵ギヨーム。アレス様が「抜け目のない豹」と評した男だ。その人好きのする笑顔の裏に隠されたものを、私はまだ見抜くことができない。

 そして、その隣に立つ女性に、私は息を飲んだ。

 ヴァルモン公爵夫人イザベラ。陽光を思わせる金色の髪を高く結い上げ、南の海の色を映したかのような青い瞳を持つ、快活な印象の美しい女性だった。彼女は、値踏みするような視線を隠そうともせず、私を頭のてっぺんから爪先まで一瞥すると、花が綻ぶような完璧な笑みを浮かべた。

「お待ちしておりましたわ、レティシア様。お手紙を差し上げたイザベラです」

「ご丁寧な歓迎、痛み入ります、イザベラ様。こちらこそ、お目にかかれて光栄ですわ」

 私たちが貴族女性としての儀礼的な挨拶を交わしている間も、彼女の青い瞳は、私の内側を探るように、じっと私を見つめていた。

「早速で恐縮ですが、レティシア様。もしお疲れでなければ、少し、屋敷の中をご案内させていただいてもよろしいかしら。特に、貴女様にぜひお見せしたい場所があるのです」

 その申し出は、少しも唐突には聞こえなかった。むしろ、最初からそれが目的だったのだと、はっきりと分かる口調だった。

 私はアレス様の方を見た。彼は、ギヨーム公爵と政治的な挨拶を交わしながらも、その意識の一部は、常に私の方に向けられているのが分かった。彼は、私に判断を委ねるように、小さく頷いた。

「ええ、ぜひ。喜んでお伴させていただきますわ」

 私がそう答えると、イザベラ様は満足そうに微笑んだ。



 彼女が私を案内したのは、客間でも、美しい庭園でもなかった。屋敷の裏手にある、厨房だった。

 その扉を開けた瞬間、私は再び驚かされた。

 アレスティード家の厨房が、実用性を第一に考えた、質実剛健な「仕事場」であるとするならば、ここの厨房は、まるで一つの舞台装置のようだった。

 壁には青と白の装飾タイルが美しく貼られ、天井からは磨き上げられた銅製の鍋や調理器具が、まるでシャンデリアのように吊り下げられている。中央に置かれた巨大な調理台は、一点の曇りもなく磨き上げられた大理石でできていた。そして何より、大きな窓から明るい南の光が燦々と降り注ぎ、厨房全体が輝いているように見える。

「まあ……素晴らしい厨房ですこと」

 私の口から、思わず、感嘆の声が漏れた。

「ありがとう。私の、自慢の場所ですの」

 イザベラ様は、誇らしげに胸を張った。

 厨房の中では、十数人もの料理人たちが、白い制服を身にまとい、無駄のない動きで夕食の準備を進めていた。彼らの動きは、どこか洗練されていて、まるで統率の取れた踊りを見ているかのようだ。

 調理台の上には、私たちの領地では決して見ることのできない、豊かな食材が溢れていた。銀色に輝く新鮮な魚。殻付きのまま氷の上に並べられた大きな海老。ルビーのように赤いトマトや、艶やかな緑色のハーブの束。

 一人の料理人が、薄切りにした白身魚を、皿の上に花びらのように美しく並べ、その上に、小さな紫色の花を、ピンセットで、慎重に散らしている。別の場所では、パティシエが、飴を巧みに操り、鳥の羽をかたどった、繊細な飴細工を作り上げていた。

 その技術の高さ、美しさ、そして、食材の豊かさ。その全てに、私は素直に感銘を受けた。前世の記憶にある、美食を追求したレストランの厨房が、目の前にあるかのようだ。

「私たちの領地では、食事は何よりも重要なエンターテイメントであり、芸術なのですわ」

 イザベラ様が、私の反応を確かめるように、そう言った。

「素晴らしいですわ。これほどまでに洗練されたお料理、見たことがありません」

 私の称賛は、心からのものだった。

 しかし、その華やかな光景を眺めているうちに、私の胸の奥に、小さな棘が刺さったような、かすかな違和感が芽生え始めていた。

 何かが違う。

 その正体は、すぐには、言葉にできなかった。

 私は、調理台の隅に置かれた、大きな桶に目をやった。そこには、野菜の皮や、魚の骨、そして、まだ食べられそうな野菜の切れ端などが、惜しげもなく、捨てられている。

 料理人たちの顔には、真剣な表情はあっても、食べる人への温かい眼差しのようなものは、感じられない。彼らは、完璧な「作品」を仕上げることに、全神経を集中させているように見えた。

 美しい料理。芸術的な料理。人々を驚かせ、楽しませるための料理。

 それは、確かに、素晴らしい文化だ。

 けれど。

「私は、食事は人の心と体を支える、命の根源だと考えております」

 私の口から、その言葉が、自然と、こぼれ落ちていた。

 イザベラ様の青い瞳が、その言葉の意味を測るように、すっと細められる。

「命の、根源、ですって?」

「はい。温かい食事は、人の体を内側から温め、その活力を養います。そして、誰かが自分のために作ってくれたという事実は、何よりも、その人の心を、温める力があると、私は信じておりますの」

 それは、私が、この世界で、自分の手で、証明してきた、揺るぎない信念だった。

 私のその言葉を聞いて、イザベラ様は、初めて、少しだけ、感情の読めない表情をした。彼女は、数秒間、何かを考えるように黙り込んだ後、やがて、再び、完璧な微笑みを、その唇に浮かべた。

「興味深い考え方ですわ、レティシア様。さすが、北の地で奇跡を起こしたと噂されるだけのことはありますわね」

 その声には、感心しているような響きと、同時に、私の考えを「北の地の特殊な価値観」として、やんわりと分類するような、冷たい響きが、混じり合っていた。

 私たちは、互いの食文化を、そして、その根底にある価値観を、尊重している。しかし、その間には、決して交わることのない、深く、静かな川が流れていることを、この短い会話だけで、はっきりと、理解した。

 彼女は、私を、厨房の出口へと、優雅に、促した。

「さあ、今夜の晩餐会、楽しみにしていてくださいまし。我が領が誇る最高の芸術品を、存分に、お目にかけますわ」

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