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第121話 南からの招待状

「南のヴァルモン公爵領より、公式の招待状でございます」

 執務室で朝の打ち合わせをしていた私たちの前に、執事長のブランドンが、銀の盆に載せた一通の手紙を恭しく差し出した。蝋で固く封をされたその封筒には、太陽と葡萄の蔓をかたどった、見慣れない紋章が刻印されている。

 アレス様は無言でそれを受け取ると、ペーパーナイフで素早く封を切った。滑らかな羊皮紙を広げ、そこに綴られた流麗な文字に目を通す彼の眉間が、みるみるうちに険しくなっていく。

 私は、彼の表情の変化を、息を飲んで見守った。

 数分の沈黙の後、彼は、重いため息とともに、その手紙をテーブルの上に置いた。

「どういったご用件なのでしょうか」

 私が尋ねると、彼は忌々しげに、短く答えた。

「視察への招待だ。両領地の経済連携と文化交流を促進したい、と書いてある」

「まあ、それは素晴らしいお話ではありませんか」

 私の純粋な感想に、彼は、まるで冷水を浴びせるかのような、低い声で言った。

「相手が、あのギヨーム・ド・ヴァルモンでなければな」

 その名前に含まれた、明確な警戒心。私は、首を傾げた。

「ヴァルモン公爵が、何か?」

「奴は、私とは正反対の人間だ」

 アレス様は、指先でこめかみを揉みながら、言葉を続けた。

「社交的で、弁が立ち、常に笑みを絶やさない。だが、その裏で、利益のためならどんな手段も厭わない男だ。貴族社会では『抜け目のない豹』と呼ばれている。油断のならない相手だ」

 その評価は、私が今までアレス様の口から聞いた、誰に対するものよりも辛辣だった。

 ブランドンが、静かに口を挟む。

「しかし閣下、これは公式の招待状です。隣接する領地からの友好の申し出を、正当な理由なく断ることは、政治的に得策ではございません」

「分かっている」

 アレス様は、再び、その招待状に目を落とした。その横顔には、統治者としての冷静な判断と、一個人の、隠しきれない苛立ちが、複雑に混じり合っていた。

 私は、初めて公爵夫人として他の領地を公式に訪問することに、緊張と、そしてほんの少しの好奇心を覚えていた。アレスティード領とは全く違うという、温暖な南の商業都市。そこには、どんな人々が暮らし、どんな料理を食べているのだろうか。

 そんな私の視線が、アレス様の手元にある、もう一つの小さな封筒に気づいた。公式書簡に、まるで寄り添うように、添えられている。

「アレス様、そちらは?」

 彼も今気づいたというように、その小さな封筒を手に取った。宛名を見ると、彼の眉が、さらに、わずかに動く。

「……君宛だ。差出人は、ヴァルモン公爵夫人イザベラ、とある」

 私は、驚いて、その封筒を受け取った。上質な紙を使った、優美な封筒。封蝋を丁寧に剥がし、中から便箋を取り出すと、ふわりと、甘い花の香りがした。

 そこに綴られていたのは、アレス様の無骨な文字とは対照的な、流れるように美しい筆跡だった。


 ――拝啓 レティシア・アレスティード公爵夫人様


 突然のお手紙、お許しくださいませ。

 夫が、貴女様と、そして尊敬すべきアレスティード公爵閣下を、私たちの領地へお招きする準備を進めていると聞き、いてもたってもいられず、筆を取りました。

 レティシア様。貴女様の『温かいおもてなし』の噂は、この遠い南の地まで、風の便りに、届いておりますわ。

 凍てついた北の城の食卓を、その手一つで、温かい奇跡の場所へと変えたという、素晴らしい物語。

 お会いできる日を、そして、その奇跡の片鱗に、触れられる日を、心より、お待ち申し上げております。


 敬具

 イザベラ・ド・ヴァルモン


 その、どこまでも丁寧で、完璧に礼儀正しい文章。しかし、その行間からは、私の全てを見透かしているかのような、鋭い知性と、探るような好奇心が、確かに、滲み出ていた。

 私は、その手紙から、顔を上げた。

 アレス様が、心配そうな、そして、どこか、探るような目で、私を、じっと、見つめていた。

 私は、彼に、安心させるように、小さく、微笑んでみせた。

「素敵な奥様のようですわ。お会いするのが、楽しみです」

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