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第119話 行動の肯定

 私たちは夫婦ではない。私たちはパートナーだ。

 リネン室でそう宣言して以来、私は自分自身にその言葉を何度も言い聞かせていた。それは自分を守るための境界線であり、私たちが築き上げたこの完璧な関係を維持するための、冷静なルールのはずだった。

 日中の公務において、そのルールはうまく機能した。私たちは以前にも増して効率的に連携し、互いの専門領域を尊重し、共同統治者として領地の課題を次々と解決していった。言葉で引いた境界線は、私たちの間に心地よい緊張感とプロフェッショナルな信頼関係をもたらしてくれた。

 しかし、夜になると、その境界線は、まるでインクが水に滲むように、その輪郭を曖昧にした。

 開け放たれた内扉が繋ぐ二つの部屋。ランプの光が作り出す共有の空間。そこでは、公爵と公爵夫人という公的な役割は影を潜め、ただアレスとレティシアという二人の個人がいるだけだった。



 その夜も、時計の針が真夜中を大きく過ぎても、彼の執務室のランプは消える気配がなかった。

 水利権協定の締結後、休む間もなく次の課題が山積している。今日は北の砦から届いた、冬の備えに関する緊急報告書を、彼は一人で読み解いていた。

 私の仕事はとうに終わっていた。自室の机で新しいハーブの効能に関する本を読んでいたが、その内容は全く頭に入ってこない。私の意識は、扉の向こう、彼の机へと絶えず引き寄せられていた。

 時折聞こえる、彼が重いため息をつく音。羊皮紙をめくる、乾いた指先の音。その一つ一つが、私の心を小さくさざ波立たせる。

 私は静かに本を閉じた。

 パートナーの健康状態を管理し、最高のパフォーマンスを維持させることも、共同統治者としての私の重要な務めだ。そうだ、これは義務であり、合理的な判断だ。

 私は自分にそう言い聞かせながら、椅子から立ち上がった。

 向かった先は、部屋の隅に設えた小さな給湯設備。そこで手早くミルクを温め、安眠効果のある蜂蜜を、スプーンに一杯、静かに溶かす。

 湯気の立つ白いマグカップを手に、私は彼の執務室へと足を踏み入れた。

 彼は私の気配に気づいていたが、顔を上げることはない。その目は、机に広げられた地図と報告書に、深く沈み込んでいた。ランプの光が、その彫りの深い横顔に、濃い疲労の影を落としている。

「閣下」

 私が声をかけると、彼はようやく、ゆっくりと顔を上げた。その深い色の瞳が、一瞬だけ、どこか遠くを見ているような、虚ろな色をしていた。

「お疲れ様です。温かいミルクをどうぞ」

 私は彼の机の端に、そっとカップを置いた。

 以前の私なら、ここで役目は終わりだった。「あまりご無理なさらないでください」と一言だけ添えて、すぐに自室へと引き返していたはずだ。それが、私たちの間の、暗黙のルールだった。

 しかし、その夜、私の足は、その場に縫い付けられたように動かなかった。

 引き返したくない。

 まだ、この空間に、彼のそばに、いたい。

 その、あまりにも素直な欲求が、私の胸の奥から、突き上げてくる。

 アレス様は、私のその逡巡を見透かしたかのように、静かに私を見つめていた。

 私は、咄嗟に、完璧な口実を探した。

「……私も、まだ目を通しておきたい資料がありますので。ここで少し、読んでもよろしいでしょうか」

 それは、半分本当で、半分嘘だった。

 彼の返事を待たずに、私は自分の部屋から一冊の分厚い資料ファイルを持ち出すと、彼の執務机の向かいに置かれた、客用の大きな革張りの椅子へと、向かった。

 アレス様は、何も言わなかった。

 ただ、その瞳が、ほんのわずかに、和らいだように見えた。それは、拒絶ではない。静かな、肯定のしるしだった。

 私は、その椅子に、深く、腰を下ろした。

 執務室に、再び、静寂が戻る。

 聞こえるのは、暖炉の薪が、ぱちり、とはぜる音。彼が、時折、ミルクを飲む、かすかな音。そして、私が、資料のページをめくる、紙の音だけ。

 言葉は、ない。

 しかし、その沈黙は、少しも、気まずくなかった。

 むしろ、その静寂が、私たち二人を、一つの穏やかな空気で、優しく、包み込んでいるようだった。

 私は、資料に目を落としながらも、その内容の半分も、理解していなかったかもしれない。私の意識のほとんどは、机の向こう、ランプの光の下にいる、彼の存在に、注がれていた。

 彼が、ここにいる。

 私も、ここにいる。

 ただ、それだけの事実が、私の心を、今まで感じたことのない、深い安らぎで、満たしていく。

 言葉で引いた境界線は、確かに、そこにある。私たちは、それを越えてはいない。

 けれど、私の行動は、その境界線のすぐそばに、寄り添うように、座っていた。

 あなたのそばに、いたい。

 その、言葉にできないメッセージを、彼は、きっと、受け取ってくれている。そして、彼もまた、その行動を、何も言わずに、許してくれている。

 それだけで、十分だった。

 彼が、最後の報告書に目を通し、承認の署名を終えるまで、その静かで、温かい時間は、長く、続いた。

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