第11話 見えない敵と温かい器
昨夜の約束通り、朝食の食卓にはパンケーキが並んだ。
甘さを抑え、全粒粉を少し混ぜて香ばしさを出した生地。添えたのは、塩気の効いたバターと、ベリーを軽く煮詰めただけの、酸味の強いソース。そして、たっぷりの温かいミルク。子供っぽいと思われただろうか、という私の不安は、杞憂に終わった。
アレスティード公爵は、何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ時間をかけて、丁寧に、最後の一切れまで皿の上から綺麗になくした。それだけで、十分な答えだった。
しかし、私の中には、ささやかな、しかし無視できない不満が燻っていた。
厨房で焼き上げたばかりの、あの完璧な状態ではなかった。ダイニングに運ばれる、ほんの数分の間に、パンケーキの表面はわずかに冷め、最高の食感を失ってしまっていた。
公爵が席を立った後、私は自分のために残しておいたパンケーキを口に運びながら、長いダイニングテーブルの向こう端、彼が座っていた席を眺めた。
遠い。
厨房から、あの席までの距離は、絶望的なほどに遠い。
この屋敷には、見えない敵がいる。その敵の名は、「距離」と「時間」。そして、それらがもたらす「冷え」だ。どれだけ厨房で完璧な料理を作っても、食べる人の口に入るまでに温度が失われてしまっては、意味が半減してしまう。
特に、公爵の体は、私の「温導質」が感じ取る限り、長年の冷えた食事のせいで、人一倍冷えに敏感になっている。彼にこそ、最高の温度で食事を届ける必要があるのだ。
私は、まだ温かいミルクの入ったカップを両手で包み込みながら、決意を新たにした。
この見えない敵を、打ち負かさなければ。私の革命は、まだ始まったばかりなのだ。
*
「問題は、この配膳導線そのものね」
私は、侍女長のフィーから借り受けた屋敷の古い図面を広げ、厨房のテーブルで唸っていた。
厨房と、主たちが食事をするダイニングルームは、長い廊下と二つの扉で隔てられている。熱が逃げるには、十分すぎる条件だ。
「昔は、配膳用の昇降機があったと聞いておりますが……。先々代の頃に壊れてしまい、修理もされずに壁で塞がれてしまったとか」
フィーが、私の隣で溜息交じりに言った。
「昇降機……。ダムウェーターね」
前世の記憶が、不意に蘇る。私が勤めていた会社が、工場の生産ラインを改善した時のことだ。部品を運ぶための小さなリフトを導入しただけで、作業効率は劇的に向上した。原理は同じだ。
「それを復活させられれば、一番いいのだけれど……。壁を壊して、一から作り直すとなると、時間もお金もかかりすぎるわ」
予算会議で大見得を切った手前、すぐに大規模な工事を申請するわけにはいかない。まずは、今あるもので、できる限りの改善をするしかない。
「奥様、何か良いお考えが?」
フィーが、期待の眼差しで私を見つめる。
「ええ。ハード面が駄目なら、ソフト面で戦うまでよ」
私はペンを取り、図面の余白にいくつかの案を書き出した。
「まず、食器を変えるわ。今使っている薄手の磁器は、見た目は美しいけれど、すぐに冷めてしまう。もっと厚手で、保温性の高い陶器にしましょう。それから、お皿を運ぶ前に、温棚で軽く温めておくこと」
「まあ!お皿を温めるのですか?」
「ええ。冷たい器に温かい料理を盛れば、それだけで温度が奪われるわ。それから、料理には木製の蓋をする。見た目も温かみがあるし、陶器の蓋より軽くて扱いやすいはず」
私の提案に、フィーは「なるほど……!」と何度も頷いている。
「それから、配膳の手順も見直しましょう。今は、すべての料理を一度にワゴンに乗せて運んでいるけれど、これからはメインディッシュのような特に温度が重要なものは、時間差で、一番最後に、専門の者が一人で運ぶ。少し手間は増えるけれど、効果は大きいはずよ」
それは、前世で叩き込まれた「カイゼン」の思想そのものだった。一つ一つは地味で、ささやかな工夫。だが、それらを積み重ねることで、結果は大きく変わる。
実家の父や継母は、こういう地道な改善には、決して目を向けなかった。彼らが気にしていたのは、目先の体面と、見栄を張るための浪費だけ。その結果が、今の没落に繋がっている。
私は、もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
「すぐに、食器商に連絡を取って、見本を取り寄せましょう。フィー、手伝ってくれる?」
「はい、奥様!喜んで!」
フィーは、ぱっと顔を輝かせた。彼女のこういう素直な反応が、私の心をどれだけ軽くしてくれることか。
しかし、私たちの背後で、洗い物をしていた他の侍女たちが、ひそひそと囁き合っているのには、気づかないふりをした。
「また、奥様の思いつきが始まったわ」
「仕事が増えるだけじゃないの……」
聞こえてくるのは、変化を嫌う、消極的な抵抗の声。無理もない。彼女たちにとっては、長年慣れ親しんだやり方を変えるのは、ただ面倒なだけなのだ。
大丈夫。言葉で説得できなくても、結果が、彼女たちの心を動かしてくれるはずだから。
*
数日後、厨房には、私が選んだ新しい食器が運び込まれた。
ぽってりと厚みのある、クリーム色の陶器の皿。手に取ると、ずっしりと重いが、どこか土の温もりが感じられる。そして、料理に合わせた大きさの、軽い木製の蓋。
私は侍女たちを集め、新しい配膳の手順を説明した。
「……というわけで、今日からこのやり方でお願いします」
侍女たちの反応は、案の定、芳しくなかった。あからさまに不満そうな顔をする者、面倒くさそうに大きなため息をつく者。
「奥様。ですが、これではお皿も重くなりますし、運ぶ回数も増えて、かえって時間がかかってしまいます」
年配の侍女が、代表して不満を口にした。
「最初はそう感じるかもしれません。でも、慣れれば、こちらのほうが効率的になるはずです。何より、閣下に、一番美味しい状態で食事をお届けできる。それは、私たち使用人にとって、一番大切なことではないかしら?」
私の言葉に、侍女たちはぐっと押し黙る。正論で反論はできないが、納得もしていない。そんな頑なな空気が、厨房に満ちていた。
その日の夕食の準備は、ぎくしゃくと進んだ。侍女たちは、不慣れな手順に戸惑い、重い皿に顔をしかめている。あちこちで、小さなミスが起こった。
私は、何も言わずに、ただ黙ってその様子を見ていた。そして、メインディッシュである、鹿肉のローストが焼き上がった瞬間、自ら動いた。
「ここは、私が」
温めておいた厚手の皿に、手早く肉を盛り付け、ソースをかける。そして、木製の蓋をかぶせると、それを盆に乗せて、自らダイニングへと向かった。
私が運んだ皿が、公爵の前に置かれる。
公爵は、訝しげにその木製の蓋に目をやった。私がそっと蓋を取ると、ふわり、と湯気が立ち上った。焼きたての肉と、赤ワインソースの芳醇な香りが、ダイニングに広がる。
公爵の目が、ほんのわずかに、見開かれた。
彼は、その日、メインディッシュを一口も残さなかった。それどころか、いつもは手をつけない付け合わせの野菜まで、綺麗に平らげていた。
その事実は、どんな言葉よりも雄弁だった。
翌日から、侍女たちの動きが、目に見えて変わった。まだ戸惑いはあるものの、昨日までのあからさまな抵抗感は消えていた。温かい料理が、確実に主人の満足に繋がる。その単純な事実が、彼女たちの小さなプライドを刺激したのだ。
数日も経つ頃には、新しい配膳手順はすっかり定着し、以前よりもスムーズに、そして静かに、食事が運ばれるようになっていた。
*
その日の夕食後、私は一人、厨房で昇降機の古い図面を眺めていた。いつか、必ずこれを復活させてみせる。そんな決意を新たにしていると、背後から声をかけられた。
「奥方」
振り返ると、執事長のブランドン様が、静かにそこに立っていた。
「今宵の食事も、素晴らしかった。閣下も、ご満足の様子だった」
「ありがとうございます。皆が、頑張ってくれたおかげです」
「いや」と、ブランドン様は首を横に振った。「君の手腕だ。食器を変え、手順を見直す。たったそれだけのことで、あれほど変わるとはな」
彼は、感心したように、深く息を吐いた。
「私は、家の運営とは、大きな改革や、派手な功績のことばかりだと考えていた。だが、君を見ていると、そうではないのだと思い知らされる」
彼は、私が広げていた図面に目を落とした。
「家の運営とは、こういうことの積み重ねなのだな。日々の暮らしの中にある、小さな問題を一つ一つ見つけ出し、地道に、根気よく、改善していく。その先にしか、本当の安定はない」
ブランドン様は、私をまっすぐに見据えた。その瞳には、もはや私を試すような色はなかった。そこにあるのは、確かな信頼と、共に家を担うパートナーに対するような、敬意にも似た光だった。
「奥方。君がこの家に来てくれて、本当に良かった」
そう言って、彼は深々と一礼し、静かに去っていった。
一人残された厨房で、私はじわりと胸に広がる温かいものを感じていた。
私が勝ち取ったのは、厨房の主権だけではない。この家の未来を共に考える、心強い味方からの、何よりの承認だったのだ。