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第118話 境界線の言葉

 水利権に関する協定が無事に締結されてから、屋敷の空気は目に見えて明るくなった。

 廊下ですれ違う使用人たちの表情は晴れやかで、その足取りも心なしか軽い。厨房では侍女たちが鼻歌交じりに野菜を刻み、庭師はいつもより丁寧に冬薔薇の手入れをしている。

 長年の懸案事項が解決したという安堵感と、自分たちの主が成し遂げた大きな成果への誇りが、この屋敷全体を温かい毛布のように、ふわりと包み込んでいた。

 その中心に、私とアレス様がいる。

 誰もが私たちを一つの単位として捉え、その連携を称賛し、その未来に期待を寄せている。その視線は心地よく、そして少しだけ、くすぐったかった。

 私がこの屋敷に来たばかりの頃の、あの凍てつくような空気を思えば、今のこの温かさは奇跡のようだ。私はこの場所を、私の手で、温かい「家」にすることができた。その事実が、私の胸を静かな満足感で満たしていた。



 その日の午後、私は来客用のリネン類の状態を確認するため、侍女たちが作業をする大きなリネン室を訪れた。

 扉が少しだけ開いており、中から楽しげな話し声が漏れ聞こえてくる。聞き覚えのある声。侍女長のフィーと、若い侍女のアンナ、そしてもう二人ほどの声が混じっている。

 邪魔をしてはいけない。そう思って、静かにその場を立ち去ろうとした。

 しかし、彼女たちの会話の中に、聞き慣れた名前が飛び込んできて、私の足は、まるで床に縫い付けられたかのように、ぴたりと止まった。

「本当に、昨日の晩餐会での公爵閣下と奥様、ご覧になりました?」

 アンナの、少しだけ興奮した声だった。

「ええ、もちろんよ。ヴァインベルク伯爵が奥様の功績を称賛した時、閣下のお口元が、ほんの少しだけ、緩んだのを、私は見逃さなかったわ」

 フィーが、誇らしげにそう応じる。

「まあ! 本当ですか、フィー様!」

「ええ、本当よ。あんな閣下のお顔、私はこの屋敷に長年仕えているけれど、初めて拝見したわ。奥様が隣にいらっしゃる時の閣下は、まるで、別人のようだもの」

 彼女たちの会話は、全て好意的なものだ。主を敬い、その幸せを喜ぶ、忠実な使用人たちの、偽らざる気持ち。

 だからこそ、次に続いた言葉が、私の心の、一番柔らかい場所を、ちくりと刺した。

「本当に……まるで、長年連れ添った、本当のご夫婦のようですわ」

 アンナの、うっとりとした、ため息交じりの言葉。

 それに、フィーが、さらに言葉を重ねた。

「いいえ、アンナ。それ以上よ」

 その声には、確信に満ちた響きがあった。

「ただのご夫婦、というだけではないわ。お互いを、心から信頼し、尊敬し合っている。魂の半分を、ようやく見つけ出したかのような、あの、完璧な一体感。あれこそが、本物の『絆』というものなのよ」

 聞いてはいけないものを、聞いてしまった。

 私は、息を殺し、その場から、一歩、後ずさった。

 このまま、気づかれずに、立ち去るべきだ。それが、一番、賢明な選択。

 頭では、そう、分かっていた。

 しかし、私の体は、私の意思に、反した。

 私は、くるりと踵を返し、もう一度、リネン室の扉へと、向き直った。そして、指先で、扉を、こん、こん、と、軽く、二度、叩いた。

 中の、楽しげな会話が、ぴたりと止まる。

 数秒の沈黙の後、フィーの、少しだけ、慌てたような声がした。

「は、はい! どなた様でしょうか」

「私です。少し、よろしいかしら」

 私は、できる限り、穏やかな声を作って、そう言った。

 がちゃり、と音を立てて、扉が、勢いよく、開かれる。

 そこに立っていたのは、顔を真っ赤にしたフィーと、その背後で、まるで石のように固まっている、アンナたちの姿だった。

「お、奥様! い、いつから、そこに……!」

「今、来たところですよ」

 私は、嘘をついた。そして、彼女たちの動揺には、一切、気づかないふりをして、完璧な微笑みを、顔に、貼り付けた。

「皆さんの楽しそうな声が聞こえてきましたから。何か、良いことでもあったのかしら、と思って」

 私のその言葉に、フィーたちは、さらに、顔を青くする。

 私は、彼女たちを、これ以上、追い詰めるつもりはなかった。ただ、一つだけ、どうしても、訂正しておかなければならないことが、あった。

 私は、アンナの方へ、まっすぐに、視線を向けた。

「先ほどの言葉、聞こえてしまいました。ありがとう。皆さんが、そう思ってくださるのは、とても、光栄なことです」

 私の、その、予期せぬ言葉に、アンナは、びくりと、肩を震わせた。

 私は、続けた。その声が、冷たく響かないように、細心の注意を払いながら。穏やかに、しかし、一言一句、はっきりと。

「でも、一つだけ。私たちは、夫婦ではありません」

 リネン室の、温かい空気が、一瞬で、凍りついた。

 誰もが、息を飲んで、私の、次の言葉を、待っている。

 私は、その場の、全ての視線を、一身に、受け止めながら、静かに、そして、誇りを持って、宣言した。

「アレス様と私は、唯一無二の、パートナーなのです」



 自室に戻り、一人になった途端、私は、張り詰めていた糸が切れたように、椅子に、深く、身を沈めた。

 心臓が、どく、どくと、大きく、波打っている。

 なぜ、あんなことを、言ってしまったのだろう。

 彼女たちの、悪意のない、好意的な噂話。聞こえないふりをして、やり過ごせば、それで、済んだはずなのに。

 私は、自分の、冷たくなった指先を、ぎゅっと、握りしめた。

 違う。

 あの言葉は、フィーや、アンナたちに向けたものでは、ない。

 あれは、私自身に、言い聞かせるための、必死の、呪文だった。

 夫婦。

 その言葉が、私は、怖かった。

 それは、あまりにも、曖昧で、不確かで、感情という、移ろいやすいものに、依存した、脆い関係。

 「愛」という、目に見えず、定義もできず、保証もないものを、土台にした、危うい繋がり。

 もし、その「愛」が、なくなってしまったら?

 もし、私が、彼の期待する「妻」として、うまく、機能しなかったら?

 その時、私は、また、捨てられるのだろうか。

 かつてのように、「役に立たない道具」としてではなく。今度は、「愛されなかった女」として。

 その方が、ずっと、惨めだ。

 それに比べて、「パートナー」という言葉は、なんと、明快で、揺るぎなく、そして、安全なのだろう。

 それは、互いの能力への、絶対的な信頼と、尊敬。そして、領地を治めるという、共同の、明確な目標に基づいた、完璧な関係。

 そこには、感情の揺らぎが入り込む、隙間はない。

 この、完璧で、合理的な関係を、私は、壊したくなかった。

 あの、馬車の中での、三秒間の握手。

 あの時、私たちの間に流れた、理屈では、到底、説明できない、甘く、そして、痛みを伴うような、感情の揺らぎ。

 あの感情に、名前をつけたくない。

 だからこそ、私は、境界線を、引かなければならなかった。

 これ以上、踏み込んではいけない。

 この、安全な場所から、出てはいけない。

 私は、机の上に置かれた、裁縫箱に、目をやった。

 蓋を開けると、中から、銀の指貫が、静かな光を、放っている。

 彼の、不器用な優しさの、象徴。

 この、温かい関係を、守りたい。

 そのためには、曖昧なものにしては、いけないのだ。

 私たちは、夫婦ではない。

 私たちは、パートナー。

 私は、もう一度、心の中で、その言葉を、強く、繰り返した。

 それは、誰よりも、私自身を、納得させるための、冷たい、境界線の言葉だった。

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