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第117話 三秒間の沈黙

 隣領であるヴァインベルク伯爵領の城館、その一番大きな会議室の空気は張り詰めた糸のように緊張していた。

 中央の大きなテーブルを挟んでこちら側には私とアレス様、そして数名の法務官。向かい側にはヴァインベルク伯爵と彼の家臣たちが座っている。議題は長年両領の懸案事項であった国境付近を流れる大河の水利権について。

 この川は春の雪解け水でたびたび氾濫を起こす一方、夏には水量が減り、下流に位置する私たちアレスティード公爵領の農地はしばしば水不足に悩まされてきた。

 これまでの交渉は常に決裂の繰り返しだった。しかし今回は違った。

 私が事前に提出した詳細なデータに基づいた新しい提案。それは単に水を分け合うという発想ではなく、両領が共同で出資して川の上流に治水と貯水を兼ねたダムを建設し、年間を通じて安定した水量を確保するという未来を見据えた計画だった。

 もちろん莫大な費用がかかる。ヴァインベルク伯爵側が難色を示すのは当然だった。

 しかし、そこからがアレス様の真骨頂だった。

彼は私が用意したデータを完璧に使いこなし、冷静沈着な論理でこの計画がヴァインベルク領にとってもいかに大きな利益をもたらすかを説いていく。治水による農地の安定、冬場の余剰水力を利用した新たな産業の可能性、そして何より王国中央政府からの補助金を引き出すための具体的な道筋まで。

 彼の交渉は相手を打ち負かすためのものではない。相手に我々と同じ未来を見せるための緻密で揺るぎない説得だった。

 そして三日間にわたる長い長い交渉の末、今、私たちの目の前には両領主の署名と印が押された真新しい協定書が置かれていた。

「……アレスティード公爵。あなたの先見の明と奥方の素晴らしいご提案に心から敬意を表します。これは我々の領地の新たな百年の始まりとなるでしょう」

 ヴァインベルク伯爵が固い表情を崩し、初めて穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。その言葉を合図に部屋中の空気が一気に緩んだ。

 張り詰めていた糸がぷつりと切れる。

 私は隣に座るアレス様をそっと見上げた。彼はいつもと変わらない無表情のまま小さく頷きを返しただけだった。しかしその横顔に深い安堵の色が浮かんでいるのを私は見逃さなかった。

 私たちの勝利だった。

 私が描いた設計図を彼が完璧な城として築き上げてくれた。これほどまでにパートナーという言葉を心強く感じたことはなかった。



 公爵領へと戻る馬車の中は静かだった。

 豪華なクッションが敷き詰められた座席は体の疲れを優しく受け止めてくれる。ごとん、ごとんと車輪が石畳を転がる規則的なリズムが心地よい眠気を誘った。

 窓の外を夕暮れの景色がゆっくりと後ろへ流れていく。

 私は安堵のため息を小さく漏らした。心身ともに疲れ切っていた。しかしその疲労感は不快なものではなく、大きな仕事を成し遂げた後の充実感に満ちていた。

 向かいの席に座るアレス様は目を閉じ、深く座席に背を預けている。彼もまたこの三日間、ほとんど眠らずに交渉の戦略を練り続けていた。その表情にはさすがに疲労の色が濃く浮かんでいた。

 私は彼の眠りを妨げないよう息を潜め、ただ静かに馬車の揺れに身を任せていた。

 このまま屋敷まで言葉を交わすことはないだろう。

 そう思っていた。

 しかし不意に、彼が閉じていた瞼をゆっくりと開いた。

 その深い夜色の瞳がまっすぐに私を捉える。

 私は少しだけ身を固くした。

 彼はしばらく何も言わなかった。ただ静かに私を見つめている。その視線に、私はどうしてか心臓が少しだけ速く脈打つのを感じた。

 やがて彼が静かに口を開いた。

「レティシア」

 その低い声が馬車の中に響く。

「よくやった、パートナー」

 その短く飾り気のない言葉。

 しかしその一言に込められた深い信頼と労いの響きが私の胸の奥までじんわりと染み渡っていく。三日間の疲労がその一言で全て溶けて消えていくようだった。

 私が感謝の言葉を返そうとするよりも早く。

 彼が私の目の前に革手袋に包まれた大きな手をすっと差し出した。

 それは戦いを終えた戦友が互いの健闘を称え合うような力強い握手の求めだった。

 私は一瞬のためらいの後、笑顔でその手に自分の手を重ねた。

「閣下こそ、お見事でした」

 そう答える。

 彼の大きな手が私の手をしっかりと握り返す。

 硬い革の感触。その奥から伝わってくる彼の確かな体温。

 いつもならそれで終わりだった。

握手はすぐに解かれ、私たちはまた元の距離に戻るはずだった。

 しかしその日は違った。

 どちらからともなく手を離すことができなかった。

 握り合ったままの私たちの手が二つの座席の間の何もない空間に取り残される。

 一秒。

 馬車の規則的な揺れだけが続く。

 彼の指の力がほんの少しだけ強まったような気がした。

 二秒。

 私の心臓の音がやけに大きく耳に響く。まずい、と思った。このままでは私の温導質がまた暴走してしまうかもしれない。離さなければ。そう頭では分かっているのに。

 三秒。

 言葉のない時間が流れる。

 しかしそれは気まずい沈黙ではなかった。

 繋がれた手を通して、何か言葉にならないものが静かに、しかし確実に流れ込んでくる。

 安堵。信頼。そしてこの大きな勝利を分かち合う高揚感。

 それだけではない。

 もっとずっと個人的で、甘く、そして少しだけ痛みを伴うような感情。

 私は恐る恐る顔を上げた。

 彼の深い色の瞳が揺れていた。

 いつもは静かな湖面のように何も映さないあの瞳が。今はまるで石を投げ込まれたかのように、さざ波を立てて揺らいでいる。

 彼もまたこの予期せぬ状況に戸惑っているのだと分かった。

 その事実に気づいた瞬間。

 私の理性の糸がぷつりと切れた。

 私ははっとしたように彼の大きな手から自分の手を引き抜いた。

 そのあまりにも唐突な動きに彼が少しだけ目を見開く。

 馬車の中に再び沈黙が落ちた。

 しかし先ほどの沈黙とは全く質の違う、ひどく気まずい沈黙だった。

 私は自分の熱くなった手のひらをドレスの上でぎゅっと握りしめる。彼の手の感触がまだ生々しく残っていた。

 馬車の中の空気が急に熱を帯びたように感じられた。息が少しだけ苦しい。

 私は彼の顔をもう見ることができなかった。

 ただ窓の外に視線を逃がす。

 夕闇に染まり始めた空を鳥が一羽横切っていった。

 アレス様も何も言わなかった。

 彼もまた私とは反対側の窓の外へ視線を向けているのが気配で分かった。

 馬車は何も知らぬげに、ごとん、ごとんと音を立てながら、公爵邸へと続く道を走り続けていた。

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