第116話 温もりの返礼
アレス様から贈られた銀の指貫は、私の裁縫箱の中で静かな光を放っていた。
時々、箱を開けてはその冷たく滑らかな感触を指先で確かめる。彼の不器用な優しさがこの小さな銀製品に凝縮されているようで、見るたびに胸の奥が温かくなった。
同時に私の中に新しい感情が芽生え始めていた。
もらうだけでは駄目だ。
私も彼に何かを返したい。
パートナーとして彼から受けた配慮に対して、私も配慮で応えるのは当然のこと。そう、これは義務だ。私は自分にそう言い聞かせた。
しかし問題は、何を贈ればいいのかということだった。
アレスティード公爵である彼が物で満たされていないはずがない。高価な宝飾品や美術品を贈ったところで、彼の心には響かないだろう。そもそも私にそんなものを買う財力はない。
では、何ならいいのだろう。
彼が本当に必要としているもの。そして、他の誰でもない私だからこそ、贈ることができるもの。
私は執務の合間に、彼の様子をそれとなく観察するようになった。
彼は何を好み、何を不便に感じているのか。彼の日常の中に、私が入り込める隙間はどこにあるのだろうか。
数日間考え続けた末、私は一つの結論にたどり着いた。
「フィー。少し相談に乗ってもらえますか」
昼食後、私は侍女長のフィーを私の私室に招き入れた。彼女はこの屋敷で私が最も信頼を寄せる人物の一人だ。
「はい、奥様。なんでしょうか」
フィーはにこやかな笑顔で、私の向かいの椅子に腰を下ろした。
私は少しだけためらった。これからしようとしているのは極めて個人的な相談だ。公爵夫人としての業務とは何の関係もない。
「その……アレス様のことで」
私がそう切り出すと、フィーの瞳がきらりと好奇心に輝いた。
「まあ! 閣下のことでございますね。ええ、ええ、何なりと!」
そのあまりにも嬉しそうな反応に、私はかえって言葉に詰まってしまう。
「いえ、その、大したことではないのですが……。閣下の執務室は夜になるとかなり冷え込みますよね?」
「はい、左様でございますね。あの部屋は北向きで窓も大きいですから。歴代の公爵閣下も冬の寒さには皆様難儀なされておりました」
やはりそうか。
私は夜、彼が執務に没頭している姿を思い浮かべた。彼は寒さなど意にも介さないという顔で黙々とペンを走らせている。しかし時々、書類を置いた拍子に自分の指先をもう片方の手でさすっていることがあった。
それは無意識の、ほんの些細な仕草。けれど私の目にははっきりと焼き付いていた。
「何か暖房器具を追加するよう家令に指示しましょうか」
「いえ、閣下はお部屋が暖まりすぎるのをお好みになりませんから。思考が鈍る、と」
フィーはくすりと笑って付け加えた。
「本当に閣下はいつでもどこでも効率のお方でいらっしゃいます」
その言葉に私は思わず苦笑した。本当にその通りだ。
暖房が駄目なら、どうすればいい?
私は自分の両手をそっと見つめた。
そうだ。私にできることが一つだけある。
「フィー。領都で一番上質な毛糸を売っている店を教えていただけますか? それと……閣下の手の大きさをこっそり測る方法はないでしょうか」
私のその問いに、フィーは一瞬きょとんと目を丸くした。
しかしすぐに全てを察したというように、その顔をぱあっと輝かせた。
「まあ……まあ! 奥様! それはなんて、素敵な!」
彼女はまるで自分のことのように興奮して、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「お任せくださいませ! 毛糸の店は最高の店を。閣下のお手のサイズは、閣下がお脱ぎになった手袋がございます。あれをこっそりお借りしてきましょう!」
そのあまりにも全面的な協力体制に、私は少し気圧されながらも深く頭を下げた。
「ありがとうございます、フィー。助かります」
「とんでもないことでございます! このフィー、奥様のためでしたら火の中水の中でございます!」
彼女のその力強い言葉に、私の心も固まった。
決めた。
私は私の手で彼の手を温めるためのものを作ろう。
*
フィーが手配してくれた最高級のカシミヤの毛糸は、触れるだけでとろけるように柔らかかった。
色は、いくつか迷った末に、彼の瞳の色を思わせる深い夜色の青を選んだ。闇に溶けるような静かで、それでいてどこか温かみを感じる色。
その日から、私の夜の密かな仕事が始まった。
アレス様が執務に集中しているその隣で。私は彼に気づかれないよう膝の上で二本の編み針を静かに動かした。
しゃん、しゃんと、編み針がかすかな音を立てる。
私の指の間を滑らかな毛糸がするすると通り抜けていく。
一目、一目。
彼の大きな手を思い浮かべながら。
フィーがこっそり持ってきてくれた彼の手袋。それを型紙代わりにしてサイズを合わせた。想像していたよりもずっと大きくて、ごつごつとした男の人の手。
この手で彼は領地を守るための無数の決断を下している。
この手で彼は私の腕を掴み、私を導いてくれた。
そしてこの手は時々、夜の冷気の中で寒さに耐えている。
私の編むこの柔らかな毛糸が、その冷たさを少しでも和らげることができるだろうか。
私は祈るような気持ちで編み続けた。
それは、不思議な時間だった。
集中して手を動かしていると、余計な考えが頭から消えていく。ただ目の前の一目一目に心が注がれていく。
私のこの温導質という体質が、編んでいる毛糸に何か影響を与えているのかもしれない。そんな非科学的なことをふと思った。私の彼を想う気持ちがこの毛糸に編み込まれて、特別な温かさを与えることができたらいいのに。
*
数日後の夜。
最後の一目を編み終え糸の始末をした時。私の手の中に一組の夜色のミトンが完成した。
ふっくらとしていて、驚くほど軽い。
私はそっと自分の手をその中に入れてみた。
カシミヤの柔らかな繊維が肌を優しく包み込む。すぐにじんわりと自分の体温で温かくなっていくのが分かった。
これならきっと彼の手も温めてくれるはずだ。
問題は、これをどうやって彼に渡すかだった。
真正面から「あなたのために編みました」なんて、口が裂けても言えない。
私はしばらく悩んだ末、彼が私にしてくれたのと同じ方法を取ることにした。
小さなカードを用意する。
そしてそこに、彼らしい理屈っぽいメッセージを添えるのだ。
私はペンを取り、インク壺にそのペン先を浸した。
そしてカードの上に慎重に言葉を綴っていく。
――思考効率の低下を防ぐための防寒対策です。
書き終えた文字を眺めながら、私は自分の頬が熱くなるのを感じていた。
建前だ。
本当はそんな難しいことじゃない。
ただ、あなたの手を温めてあげたい。
そのたった一言がどうしても書けなかった。
その夜、アレス様が先に寝室へと引き上げた後。
私は完成したミトンとメッセージカードを、彼の広大な執務机の一番目立つ場所にそっと置いた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
私は一度だけそのミトンを振り返り、そして逃げるように自分の部屋へと戻った。
その夜、アレス様が誰もいない執務室でその夜色のミトンを自分の大きな手にゆっくりとはめてみたことを、私はまだ知らない。