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第115話 非効率の贈り物

いつもと同じ朝だった。

北の空が白みはじめ、屋敷はまだ静かに眠っている。私は誰よりも早く起きて厨房で侍女たちの準備を手伝い、そのあと自室へ戻る。アレス様との共同執務が始まってから、朝のこの静かな時間だけが、私一人の思考の時間になっていた。


熱いハーブティーをひと口。心を落ち着かせ、執務机へ。昨日やり残した家政の報告書を、アレス様が起きてくる前に片づけてしまおう――そう思って椅子に腰を下ろしたとき、机の上の“見慣れないもの”に気づいて動きが止まった。


手のひらに収まる、小さな黒い箱が一つ。

ビロードのような手触りの上質な小箱だ。装飾はなく、ただ深い黒色だけが、朝の薄明かりの中で静かな存在感を放っている。


昨日、執務を終えたときには、こんなものはなかった。

誰が、いつ、ここに?


侍女のフィーだろうか。いや、彼女なら必ず一言断る。執事長のブランドンも同じだ。となると、この部屋に私に断りなく物を置けるのは、もう一人しかいない。


――とくん。

心臓が小さく跳ねた。


私はゆっくりと小箱に手を伸ばす。指先に触れるビロードはひんやりとなめらか。蓋は軽く持ち上げただけで、音もなく開いた。


内側には白い絹が丁寧に敷き詰められている。

その中央に、銀製の品がそっと収まっていた。


――指貫。

裁縫のとき針から指を守る、あの小さな道具だ。けれど、私が普段使う革や真鍮の実用品とはまるで違う。


それは磨き上げられた純銀で、まるで小さな芸術品。表面にはアレスティード家の紋章、冬薔薇の意匠が驚くほど繊細な彫金で施されている。花びら一枚、葉脈一本まで、職人の確かな技がくっきりと表されていた。


――美しい。

素直にそう思った。同時に、深い困惑が胸に広がる。


なぜ、指貫?

そして、なぜ、アレス様が?


贈り物の意図が読めない。じっと見つめていると、箱の底――白い絹の下に四角い紙片が挟まっているのが目に入った。指貫を傷つけないよう慎重に取り上げる。上質な羊皮紙を小さく切った、二つ折りのカードだ。緊張しながら開く。


インクの黒も鮮やかな、たった一行。

文字は見慣れた彼の筆跡。無骨で飾り気はないが、一画一画に揺るぎない意志が宿る、彼そのものの文字。


――裁縫による指の怪我は、ペンを持つ際の非効率を招く。


一度読み、意味を確かめるようにもう一度ゆっくり読む。

裁縫、指の怪我、非効率――三つの言葉が頭の中でつながっていく。


私は時々、夜、執務の合間に兵士たちのための厚手の靴下を繕っていた。北の厳しい冬では足先の冷えは命に関わる。支給品だけでは足りないと聞き、古い毛布を再利用して、作れるだけ用意していた。誰に頼まれたわけでもない、私のささやかな個人的な仕事。


――彼は気づいていた。

そして、私の指に時折できる小さな針傷にも。


その事実を理解した瞬間、胸の奥からじわりと熱がこみ上げる。けれどすぐに、あまりにも“彼らしい”言い方が、別の感情に塗り替えた。


非効率。


全く、この方は。

普通なら「指の怪我が心配だ」とか「無理はしないように」と言うところだろうに、「ペンを持つ際の非効率を招く」とは――どこまでも合理的で理屈っぽくて、そして不器用。


思わず、ふっと笑みが漏れた。呆れたようで、どうしようもなく愛おしい。彼は“心配している”という素直な感情を言葉にするのが極端に苦手だ。だからいつものように「合理性」や「効率」という、最も得意な理性の鎧で本心を固く覆い隠してしまう。


けれど、その分厚い鎧の隙間から、不器用で確かな優しさが、ときどきこうして漏れ出してくる。


私はもう一度、箱の中の美しい指貫に目を落とし、そっとつまみ上げた。

ひんやりとした銀の感触。おそるおそる右の中指にはめる。


――ぴったり。

まるで私のために作られたかのように、寸分の狂いもなく収まった。私は再び息をのむ。彼はただ見ていただけではない。指の太さまで正確に把握していたのだ。


指先で輝く冬薔薇の紋章。

冷たい銀の感触。

だがその冷たさとは裏腹に、胸の奥では、今までにない熱い感情の奔流が渦巻いていた。


これは何だろう。

胸を締め付けるような甘い痛み――。


これは共同統治者であるパートナーへの、合理的な「配慮」なのだろうか。

それとも、もっとずっと個人的で、名前をつけてはいけない感情なのだろうか。


その問いに答えるのが怖い。

私たちが築いた、完璧で揺るぎない「パートナー」という安全な関係。その心地よい均衡が、この小さな銀の指貫一つで崩れてしまいそうな予感がしたからだ。


私は答えを出すことから逃れるように、ただ指先で静かに輝く銀の光を見つめ続けた。

その輝きは、あまりにも美しく、そして、少しだけ重かった。

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