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第114話 合理的な嫉妬

 公爵邸の大きな談話室は、今夜、珍しく温かい活気に満ちていた。

 私が提案した保存食の新製法が軌道に乗り、領内の商業ギルドに、ここ数年で最大の利益をもたらした。その成功を祝うため、アレス様が主催者となり、ささやかな夜会が開かれたのだ。

 参加者は、貴族ではなく、領内で実直に働く商人やギルドの長たち。彼らは、最初は公爵邸の壮麗さに気圧されていたようだったが、私が厨房から直接運ばせた温かい軽食と、フィーが選んだ香り高いエールが、場の空気を和ませてくれた。

「公爵夫人様。あなた様が考案された、あの塩漬け肉の脱塩法。あれはまさに革命です。おかげで、今年の冬は、兵舎だけでなく、我々町民の食卓も、ずっと豊かになります」

「夫人様のレシピのおかげで、これまで廃棄していた野菜の端まで、美味しいスープの素になりました。本当に、感謝しかありません」

 私を取り囲む人々が、次々に、率直な感謝の言葉を口にしてくれる。その一つ一つが、私の胸に、温かい光を灯していく。前世では、どれだけ働いても、これほど純粋な感謝を、誰かから受け取ったことなどなかった。

 私は、心からの笑顔で、彼らの言葉に応えた。

「いいえ、皆さんの努力の賜物です。私は、ほんの少し、きっかけを作ったに過ぎません」

 その時だった。人垣をかき分けるようにして、一人の若い男性が、私の前に進み出た。

 彼は、最近、新しく発足した保存食ギルドの長に、満場一致で選ばれた、エリオットという名の青年だった。燃えるような赤毛と、その瞳に宿る、まっすぐな情熱が印象的だ。

「公爵夫人様!」

 彼は、興奮を隠しきれない様子で、私の両手を、ぐっと掴んだ。その力強さに、私は、少しだけ、驚く。

「あなた様は、我々にとって、まさに女神です! あなた様の知恵が、この凍てついた北の土地に、新しい産業の芽を、もたらしてくださった!」

「エリオット会長。大げさですよ」

 私は、苦笑しながら、そっと手を離そうとした。しかし、彼の熱意は、それを許さない。彼は、私の手を、さらに強く握りしめると、その顔を、ぐっと、私に近づけた。

「いいえ、大げさなどではありません! 私は、この感動を、この感謝を、どうしても、直接、あなた様にお伝えしたかったのです!」

 彼の声は大きく、周囲の注目が、一斉に、私たちに集まる。その熱意は、純粋なものだと分かる。分かるのだが、少し、距離が近すぎる。そして、話が、少し、長くなりそうな予感がした。

 私が、どうやって、この状況を穏便に収めようかと考えあぐねていた、その時。

 ふと、視界の端に、壁際に立つ、アレス様の姿が入った。

 彼は、片手にグラスを持ち、誰と話すでもなく、ただ静かに、談話室全体の様子を、眺めている。その表情は、いつもと同じ、完璧な無表情だ。

 しかし、なぜだろう。

 彼の周りだけ、空気が、違うように感じられた。まるで、そこだけ、室温が、数度、下がったかのような、奇妙な感覚。

 彼の傍らに控える執事長のブランドンが、何か、心配そうに、彼に話しかけているのが見えた。だが、アレス様は、ブランドンの方を見ようともしない。その、深い色の瞳は、まっすぐに、ただ一点。

 私と、私の手を握りしめている、エリオット会長に、固定されていた。

 まずい、と思った。

 公爵閣下の前で、そのパートナーである私に対して、あまりにも馴れ馴れしい態度。これは、彼の機嫌を損ねかねない。

 私が、エリオット会長の手を、今度こそ、振りほどこうとした、その瞬間だった。

 すっと、私たちの間に、大きな影が、差した。

 アレス様が、いつの間にか、音もなく、私たちの、すぐ隣に、立っていた。

 その、圧倒的な存在感に、あれほど饒舌だったエリオット会長の言葉が、ぴたり、と止まる。談話室の喧騒が、嘘のように、遠のいた。

 アレス様は、凍りついたエリオット会長を一瞥もせず、私にだけ、視線を向けた。そして、低い、温度のない声で、はっきりと、告げた。

「レティシア。次の議題がある」

 私は、彼の言葉の意味が、すぐには、理解できなかった。

「え? 次の議題、ですの?」

 今夜は、あくまで、懇親の場だ。業務に関する議題など、何一つ、ないはずだった。

 しかし、アレス様は、私の、その問いに、答えるつもりはないようだった。

 彼は、私の返事を待つことなく、私の、空いていた方の腕を、軽く、しかし、抗うことのできない、確実な力で、掴んだ。

「行くぞ」

 その、有無を言わさぬ一言に、エリオット会長は、はっとしたように、私の手を、慌てて、離した。

 アレス様は、そのまま、唖然とするエリオット会長と、固唾をのんで成り行きを見守っていた周囲の人々を、その背後に残し、私を伴って、歩き始めた。

 向かう先は、談話室の隅にある、夜の庭園へと続く、テラスの扉だった。

 私は、彼の、その、あまりにも唐突で、強引な行動に、驚きながらも、黙って、その後に、従った。

 正直なところ、あの、熱心すぎるエリオット会長との長話から、解放されたことに、内心で、少しだけ、安堵していたのも、事実だった。

 きっと、アレス様は、私が、困っているのを、察してくれたのだろう。そして、彼らしい、最も、効率的な方法で、私を、助け出してくれたのだ。

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