表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

114/125

第113話 指先の自白

 私たちの部屋が隣同士になってから、夜の時間の過ごし方も変わった。

 以前は、夕食を終えると、それぞれが自室に戻り、互いの時間を干渉することなく過ごしていた。しかし、今は違う。開け放たれた内扉が、彼の執務室と私の私室を、一つの大きな空間として繋いでいる。

 彼は彼の机で領地の膨大な政務をこなし、私は私の机で家政の帳簿を整理したり、新しいレシピの構想を練ったりする。言葉を交わすことは少ない。ただ、静かな空気の中、インクが羊皮紙を擦る音や、ページをめくるかすかな音だけが響く。

 時折、顔を上げると、ランプの光に照らされた彼が、真剣な表情で書類に見入っている姿が目に入る。その光景は、不思議と私の心を落ち着かせた。一人ではないという、静かで確かな安心感。それは、私がこれまで経験したことのない、新しい種類の安らぎだった。

 その夜も、私たちは、いつものように、それぞれの執務に没頭していた。

 冬の夜は長く、窓の外は、しんとした闇に包まれている。壁にかけられた時計の針が、もうすぐ真夜中を指そうとしていた。

 私の目の前には、領内の各部署から上がってきた、来月分の予算申請書が、山のように積まれている。一つ一つの項目を精査し、無駄がないか、より効率的な配分はないかを確認し、承認の署名をしていく。地味だが、領地の血流を正常に保つための、重要な仕事だ。

「……よし」

 最後の書類に署名を終えた私は、小さく息をついた。これで、今日の私の仕事は終わりだ。あとは、この承認済みの書類を、最終決裁者であるアレス様に渡すだけ。

 私は、分厚くなった羊皮紙の束を両手で抱え、椅子から立ち上がった。そして、彼の大きな執務机へと、静かに歩み寄る。

 彼は、私が近づいたことに気づいているはずだが、顔を上げることはない。その集中力は、まるで、研ぎ澄まされた刃物のようだった。

「閣下、予算申請書の確認が終わりました。こちらに」

 私は、彼の邪魔にならないよう、声を潜めて言った。そして、彼が書類を受け取りやすいように、机の端、彼の左手のすぐそばに、その束を置こうとした。

 その、瞬間だった。

 彼が、ちょうど、読んでいた書類を裏返そうと、左手を動かした。

 私の、書類を置こうとする手と、彼の、書類をめくろうとする手が、空中で、不意に、交錯した。

 彼の、大きく、骨張った指が。私の、右手の指先に。

 こつん、と、触れた。

 ほんの、一瞬。本当に、ただ、かすめただけ。

 しかし、その一瞬が、私の全身の時間を、止めた。

 私の心臓が、喉の奥で、大きく跳ね上がる。全身の血が、一度に、沸騰するような感覚。

 まずい。

 そう思った時には、もう、遅かった。

 私の、この体質。「温導質」。

 普段は、私の意思で、ある程度、制御することができる。しかし、このように、不意の、強い感情の昂りには、正直に、反応してしまう。

 私の指先から、尋常ではない熱が、彼の指へと、直接、流れ込んでいくのが、自分でも、はっきりと、分かった。

 それは、温かい、というような、生易しいものではない。まるで、熱した鉄にでも触れたかのような、鮮烈な、物理的な「熱」。

 私の動揺が、私の混乱が、私の、彼に触れられたことへの、どうしようもない喜びが。その全てが、熱という、隠しようのない形で、彼に、伝わってしまった。

 アレス様の眉が、ほんの、わずかに、ぴくりと動いた。

 それだけだった。

 彼は、驚いた顔もせず、手を引っ込めることもしなかった。ただ、その深い色の瞳が、一瞬だけ、私と彼が触れ合っている、その一点に、静かに、注がれた。

 永遠のように長い、数秒の沈黙。

 先に、その沈黙を破ったのは、私だった。

 私は、まるで、何事もなかったかのように、平静を装い、すっと、自分の手を引いた。そして、完璧な業務用の微笑みを顔に貼り付けて、言った。

「失礼いたしました。こちらに、置いておきますね」

 声が、震えていなかっただろうか。顔が、赤くなっていないだろうか。

 私は、彼の顔を、まともに、見ることができなかった。ただ、先ほどまで彼の手が触れていた、自分の指先が、まだ、じんじんと、熱を持っているのを感じていた。

 アレス様は、何も言わなかった。

 彼は、私が机の上に置いた書類の束を、静かに、手に取った。そして、まるで、先ほどの接触など、存在すらしなかったかのように、淡々と、その一枚目に、目を通し始めた。

 その、あまりにも、いつもと変わらない彼の態度に、私は、安堵と、そして、ほんの少しの、失望が入り混じった、複雑な気持ちを抱いた。

 気づかなかったのだろうか。

 いや、そんなはずはない。あの熱は、絶対に、気づかないはずがない。

 ならば、彼は、気づいた上で、気づかないふりを、しているのだろうか。

 私の、この、隠しきれない感情を、彼の、あの、鉄壁の理性で、見て見ぬふりを、してくれているのだろうか。

 そうだとしたら、それは、彼なりの、優しさ、なのだろうか。

 私は、自分の机に戻り、椅子に、深く、腰掛けた。もう、仕事は、何も、手につかなかった。

 彼の、微動だにしなかった、あの横顔。

 しかし、私は、見ていた。

 彼が、書類に目を通しながら、先ほど、私と触れた、その左手の指先を、もう片方の手で、一度だけ、そっと、握りしめたのを。

 それは、あまりにも、些細な、無意識の仕草だった。

 けれど、その光景が、私の胸に、深く、焼き付いて、離れなかった。

 彼の指先に残った、私の熱の残滓が、彼の、あの、完璧な理性の内側で、今、何を、引き起こしているのだろうか。

 その答えを、知るのが、少しだけ、怖かった。

 執務室の静寂が、先ほどまでとは、全く、違う意味を持って、重く、のしかかってくる。

 私は、自分の、まだ熱いままの指先を、冷たい机の上に、そっと、押し付けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ