第112話 無意識の献立
辺境の砦から公爵邸に戻ってからの日々は、まるで、緩やかに流れ出した川のように、穏やかだった。
凍てつく大地で張り詰めていた緊張の糸がほどけ、屋敷の隅々にまで、温かい空気が満ちていくのを感じる。私とアレス様が「終身パートナーシップ盟約」を結んだことは、使用人たちの間にも、静かな安堵と、そして、ある種の誇りとして受け止められているようだった。
私の日常の中心は、やはり厨房にあった。
辺境で得た知見を元に、新しい保存食のレシピ開発に取り組んだり、厨房内の作業動線をさらに効率化するための改善案を練ったりと、やるべきことは山積みだ。しかし、その忙しさは、前世で感じていたような、心身をすり減らす類のものではなかった。
むしろ、自分の知識と経験が、この家の、そして、この領地の未来に繋がっていくという確かな手応えが、私を満たしていた。
「奥様、こちらの干し肉の塩加減、いかがでしょうか」
「ゲルトさん、素晴らしいです。以前よりも、ずっと風味が豊かになりましたね。燻製の時間を少し変えましたか?」
「へへ、お見通しで。奥様に教わった、あのハーブを少しだけ加えてみたんでさ」
古参の料理人であるゲルトさんとの会話も、今ではすっかり打ち解けたものになった。かつて、私のやり方に懐疑的だった他の料理人たちも、今では積極的に私の意見を求め、自らのアイデアを提案してくれる。
この厨房は、私の、そして、私たちの、大切な城だ。
その城で、日々の業務の合間に、私が最も集中する時間があった。それは、アレスティード公爵家の、日々の食事の献立を考える時間だった。
領全体の食を考えるのとは、また違う。たった一つの家族の、健康と、そして、ささやかな喜びを支えるための、緻密で、温かい計画。
私は、羊皮紙にペンを走らせながら、夕食のメインディッシュについて、思考を巡らせていた。
今日は、北の森で仕留められたばかりの、新鮮な鹿肉が届いている。脂が少なく、引き締まった赤身は、丁寧な下処理をすれば、極上の味わいになるはずだ。
鹿肉のパイ。それがいいだろう。
前世の知識を活かし、数種類のスパイスと、森で採れる香りの良いハーブを組み合わせた、特製のフィリング。それを、バターをたっぷりと練り込んだパイ生地で包み、オーブンでじっくりと焼き上げる。熱いパイにナイフを入れれば、湯気と共に、豊かな香りが立ち上るはずだ。
うん、完璧だ。我ながら、素晴らしい献立だわ。
私が、満足感に浸りながら、献立表に「鹿肉のパイ、森の香草風味」と書き込んでいると、背後から、明るい声がした。
「奥様、熱心ですわね。次の冬祭りのための、新しいお菓子の試作ですか?」
振り返ると、侍女長のフィーが、にこやかな笑顔で立っていた。彼女の手には、洗い立てのリネンが、綺麗に畳まれて抱えられている。
「フィー。いいえ、これは、今夜の夕食の献立ですよ」
「まあ、夕食の。拝見してもよろしいですの?」
フィーは、興味深そうに、私の手元を覗き込んだ。そして、彼女の視線が、私が書き込んだ文字の上で、ぴたり、と止まった。
彼女は、ぱちぱちと、数回、瞬きをした。そして、その口元に、悪戯っぽい、しかし、どこまでも温かい笑みを浮かべると、こう言ったのだ。
「奥様、また鹿肉のパイですの? 公爵閣下がお好きだからとはいえ、今週でもう三度目ですよ」
*
フィーの言葉は、まるで、静かな水面に投げ込まれた、小さな石のようだった。
私の思考の中心に、ぽちゃん、と落ち、そして、その波紋は、瞬く間に、私の意識の隅々にまで、広がっていった。
今週で、三度目?
まさか。そんなはずは。
私は、自分の記憶を、必死に、手繰り寄せた。
月曜日の夜。そうだ、確かに、辺境の兵士たちにも好評だった、鹿肉の煮込みを作った。
そして、水曜日の昼食。執務で疲れているだろうからと、薄切りにした鹿肉のローストを、サンドイッチにした。
そして、今日、金曜日の夜に、鹿肉のパイ。
本当に、三度目だ。
私は、その事実に、自分でも気づいていなかった。全くの、無意識だったのだ。
私の、わずかな動揺を、フィーが見逃すはずもなかった。彼女は、楽しそうに、目を細めている。
このままでは、いけない。パートナーとして、私の行動には、常に、合理的な理由がなければならない。
私は、内心の動揺を、完璧なポーカーフェイスの下に隠し、冷静を装って、フィーに、にこやかに、微笑み返した。
「ええ、その通りよ、フィー。何か、問題でも?」
「いえ、そういうわけでは。ただ、少し、多いのではないかと思いまして」
「それには、理由があるのです」
私は、すらすらと、まるで、ずっと前から、その説明を用意していたかのように、言葉を紡ぎ出した。
「鹿肉は、高タンパクで、鉄分も豊富です。特に、北の厳しい環境で育った鹿の肉は、生命力が凝縮されている。それに、私が考案した、このパイに使うスパイスの配合は、薬草学の知識に基づいたもので、肉体の疲労回復と、精神の集中力を高める効果が、期待できるのです」
そこまで一気に言うと、私は、一度、言葉を切り、そして、最も重要な結論を、付け加えた。
「アレス様の、最高のパフォーマンスを引き出すこと。それこそが、共同統治者である、パートナーとしての、私の、最も重要な務めですから」
完璧な理屈だった。
反論の余地など、どこにもない。私の行動は、全て、領地の統治という、大いなる目的のために、最適化されているのだ。
しかし、その、完璧な建前を口にしながら、私は、自分の耳が、じわり、と、熱を帯びていくのを、はっきりと、感じていた。
嘘は、言っていない。鹿肉の栄養価も、スパイスの効果も、全て、事実だ。
けれど、私の心を占めている本当の理由は、そんな、小難しい理屈ではないことを、私自身が、一番、よく、知っていた。
ただ、彼が、美味しそうに、食事を頬張る顔が、見たい。
ただ、「おかわり」と、ぶっきらぼうに、しかし、その瞳の奥に、満足の色を浮かべて、言ってくれる、その声が、聞きたい。
ただ、それだけなのだ。
私の、そんな内心を見透かしたかのように、フィーは、ふふ、と、小さく、笑った。
「まあ、さすがは奥様ですわ! そこまで、お考えになっていたのですね。公爵閣下は、本当に、お幸せな方ですこと」
彼女は、心から、そう納得したように、深く、頷いてみせた。
しかし、その、優しい眼差しは、私に、こう、語りかけているようだった。
大丈夫ですよ、奥様。その、可愛らしい本音は、私だけの、胸の中に、しまっておきますから。
フィーは、「では、私は、これで」と、優雅に一礼すると、軽やかな足取りで、厨房から、出て行った。
一人、残された私は、しばらくの間、その場に、立ち尽くしていた。
そして、おもむろに、自分の執務机に置かれた、過去一週間分の、献立表の控えを、手に取った。
一枚、一枚、めくっていく。
その、インクの染み込んだ羊皮紙は、私自身も気づいていなかった、私の無意識の、克明な記録だった。
朝食のオートミール。それは、彼が好む、少しだけ、芯の残った、硬めの食感に、毎日、調整されていた。
昼食のスープ。それは、彼が、執務の合間に、片手で、素早く、栄養を補給できるように、具材を細かく刻み、絶妙なとろみが、つけられていた。
そして、彼が、深夜まで、書斎で仕事をしている夜に、私が、そっと、差し入れるハーブティー。それは、彼の、安眠を助けると言われる、カモミールとリンデンの、特別なブレンドだった。
鹿肉だけでは、なかった。
私の作る、全ての料理が。私の、食に関する、全ての思考が。
領民のためでもなく、使用人たちのためでもなく、ただ、一人。
アレスティード公爵という、一個人のためだけに、完璧に、最適化されていたのだ。
料理は、私にとって、自分を表現するための、最も、素直な手段だった。
前世では、疲れた同僚のために、栄養ドリンクを差し入れたり、後輩の成功を、ささやかなお菓子で祝ったりした。
この世界に来てからは、冷え切った屋敷の人々のために、温かいスープを作り、兵士たちの士気を上げるために、煮込み料理を振る舞った。
それは、いつだって、「誰かのため」の、貢献だった。
しかし、今、私が、この厨房で作っている料理は、その、どれとも、違っていた。
これは、貢献ではない。義務でもない。
もっと、ずっと、個人的で、わがままで、そして、どうしようもなく、甘い感情。
この感情に、名前をつけてしまったら、きっと、何かが、変わってしまう。
私たちが、必死に、築き上げてきた、あの、完璧で、揺るぎないはずの、「パートナー」という、美しい城が、その、土台から、崩れ落ちてしまうかもしれない。
その恐怖と、しかし、彼のことを想いながら、献立を考える、この、胸を満たす、温かい喜び。
その、矛盾した感情の渦の中で、私は、深い、戸惑いを、覚えていた。
私は、一度、書きかけた、「鹿肉のパイ」という文字を、自分の指先で、そっと、撫でた。
そして、小さなため息を一つ、つくと、ペンを取り直し、その隣に、別のメニューを、書き加えた。
「カレイのムニエル、焦がしバターソース」
それは、厨房の、魚料理を得意とする、若い料理人の、十八番のメニューだった。
私は、自分の、暴走しそうになる感情に、ささやかな、抵抗を、試みたのだ。
しかし、その、カレイのムニエルに添える、付け合わせの野菜を、考え始めた、その時。
私の頭の中に、真っ先に、浮かんだのは、こんな、考えだった。
ああ、このソースなら、きっと、彼も、喜んでくれるだろうな、と。
私は、その、どうしようもない自分の思考から、目を逸らすように、調理台の上に置かれた、真っ白な小麦粉の袋へと、視線を、移した。