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第111話 義務

 王家からの承認書簡が届いたあの日を境に、私たちの日常は、確実に、その形を変えていった。

 最も大きな変化は、物理的な距離だ。

 私の私室は、西の棟、彼の主寝室の隣へと移された。そして、私たちの部屋を繋ぐ内扉は、日中、常に開け放たれている。それは、彼が言った通り「緊急時の意思決定の遅延を防ぐため」という、極めて合理的な理由によるものだった。

 その結果、私たちの公務における連携は、驚くほど円滑になった。

 以前は、執事のブランドンや侍女のフィーを介して行っていた情報の共有は、今や、執務室と隣室の間を数歩移動するだけで済む。私がまとめた報告書を、彼がその場で確認し、指示を出す。彼が受け取った王都からの密書を、私がすぐに読み込み、食料備蓄の観点から意見を述べる。

 思考の速度が、そのまま、領地の統治の速度になっていく。その実感は、私に、これまでにないほどの充実感と、そして、彼と対等な立場でこの領地を支えているのだという、静かな誇りを与えてくれた。

 私たちは、夫婦ではない。恋人でもない。

 私たちは、パートナーだ。

 その言葉が、私たちの関係を定義する、最も正確で、そして、心地よい響きだと、私は、この一月で、確信するようになっていた。

 感情という、曖昧で、不確かなものに頼らない。互いの能力への絶対的な信頼と、領地への共同責任。それこそが、私たちの揺るぎない土台なのだ、と。

 そう、信じていた。

 あの、凍てつく石の階段の上で、彼が、その手を差し伸べてくる、その瞬間までは。



 その日、私たちは、領地の北西部に位置する、古い鉱山町、グレイロックの視察に訪れていた。

 かつては鉄鉱石の産出で栄えたこの町も、鉱脈が枯渇してからは、すっかり活気を失っている。古い石造りの建物が立ち並ぶ町並みは、冬の鉛色の空の下で、ひどく寒々しく見えた。

 私たちの目的は、町の古い庁舎を、食料の備蓄倉庫として改修できるかどうかを、この目で確かめることだった。

「公爵閣下、公爵夫人様。ようこそお越しくださいました。何分、古いだけの建物でございますが」

 町の老いた参事会長が、申し訳なさそうに、私たちを庁舎の中へと案内する。

 建物の中は、外と同じくらい、空気が冷え切っていた。暖房設備はほとんど機能しておらず、私たちが吐く息が、白い靄となって、目の前で揺らめく。高い天井、分厚い石の壁、そして、陽の光がほとんど届かない、薄暗い廊下。

 私は、持参した調査用の羊皮紙に、建物の構造や、改修が必要な箇所を、手早く書き込んでいく。

「湿気が多いですね。このままでは、穀物の長期保存には向きません。壁に断熱材を入れ、床を底上げし、そして、換気のための仕組みを、新たに作る必要があります」

「私の考えも同じだ」

 隣を歩くアレス様が、私のメモを覗き込みながら、低い声で同意する。

「壁の厚みは十分だ。防衛拠点としての転用も視野に入れられる。問題は、改修にかかる予算と、期間だな」

 私たちは、言葉少なに、しかし、完璧な呼吸で、調査を進めていく。彼が建物の強度を、私が内部の機能性を。それぞれの専門分野で、必要な情報を、瞬時に交換し、分析する。

 これだ。これこそが、私たちの関係性だ。無駄がなく、効率的で、そして、何よりも、機能的。私は、自分の役割を果たせていることに、満足感を覚えていた。

 一通り、建物内部の調査を終え、私たちは、正面玄関へと戻ってきた。

 庁舎の入り口は、広大な吹き抜けのホールになっており、そこから、外へと続く、幅の広い、大きな石の階段が、十数段、続いていた。

 その階段を見た瞬間、私は、わずかに、眉をひそめた。

 吹きさらしになっている階段は、夜の間に降り積もった雪が、人の往来で踏み固められ、その表面が、氷のように、つるつると、光っている。ところどころ、凍結していない部分もあるが、一歩足を踏み外せば、滑り落ちて、大怪我をしかねない。

 私が、慎重に降りる場所を見定めようと、階段に視線を落とした、その時だった。

 私に付き従っていた侍従の一人が、さっと前に進み出て、白い手袋に包まれた手を、私に差し出そうとした。

「奥様、お足元が危険です。私の手を」

 それは、ごく当たり前の、貴族の夫人に対する、礼儀に則った行動だった。私も、ありがとう、と言って、その手を取ろうとした。

 だが、その侍従の手が、私に届く、ほんの数センチ手前で、ぴたり、と止まった。

 侍従の視線の先、私の隣に立つ、アレス様が、彼に向けて、静かに、しかし、有無を言わさぬ力で、視線を送っていたからだ。

 その、絶対零度の視線に射抜かれ、若い侍従は、びくりと肩を震わせると、慌てて、その手を引っ込めた。

 何が、起きたのだろう。

 私が、戸惑いの表情で、アレス様を見上げた、その瞬間。

 彼は、私の方へと、向き直った。そして、彼自身の、黒い革手袋に包まれた、大きな手を、私の目の前に、すっと、差し出した。

 私は、息を呑んだ。

 彼の、深い色の瞳が、まっすぐに、私を見つめている。その表情は、いつもと変わらない。感情の色など、どこにも浮かんでいない。

 彼は、私がためらっているのを見て、静かな、低い声で、言った。

「転倒による負傷は、共同統治者の機能停止を意味する。リスク管理の一環だ」

 その言葉は、どこまでも、合理的だった。

 感情の入り込む余地など、一ミリもない。これは、気遣いではない。感傷でもない。ただの、業務だ。私たちの盟約に基づいた、当然の、義務の遂行。

 そうだ。その通りだ。

 私は、自分に、そう言い聞かせた。そして、差し出された彼の手の上に、自分の、少しだけ震える手を、そっと、重ねた。

 彼の、大きな手が、私の手を、力強く、しかし、決して痛くない力で、握りしめる。

 その瞬間、私の心臓が、大きく、音を立てた。

 冷たい革手袋の感触。しかし、その、ごわごわとした革の向こう側から、彼の、確かな体温が、じんわりと、伝わってくる。

 熱い。

 それは、私の「温導質」がもたらす熱ではない。彼自身の、生命の熱だ。

 私は、その熱から、逃れるように、慌てて、視線を足元へと落とした。

 リスク管理。機能停止の回避。義務。

 頭の中で、必死に、その言葉を繰り返す。そうしなければ、この、胸の奥から、じわじわと広がっていく、温かい感情の正体に、気づいてしまいそうだったから。

 私たちは、ゆっくりと、一歩ずつ、凍てついた階段を、降り始めた。

 彼の歩幅は、いつもより、ずっと、小さい。私の、おぼつかない足取りに、完璧に、合わせてくれている。

 私は、彼に、半ば、体を預けるようにして、その一歩に、続いた。

 繋がれた手から伝わってくる、確かな温かさと、力強さ。それは、私が、これまでの人生で、一度も、誰かから、与えられたことのない種類の、絶対的な、安心感だった。

 実家では、常に、私が、魔力の不安定な妹を支える側だった。誰かに、このように、無条件に、守られるという経験は、私には、なかった。

 ふと、彼の表情が気になり、私は、そっと、顔を上げた。

 彼は、いつもと変わらない、無表情のまま、まっすぐに、前を向いていた。その横顔は、まるで、精巧な氷の彫刻のように、美しく、そして、冷たい。

 けれど、私は、見逃さなかった。

 彼が、ほんの一瞬だけ、その視線を、下に落とし、私と、繋がれた、その手に、向けたのを。

 その視線は、あまりにも、短く、そして、あまりにも、静かだった。

 けれど、その一瞬に、私は、彼の、鉄壁の仮面の、ほんのわずかな、隙間を、見てしまったような気がした。

 十数段の階段を、降りきるまでの、数十秒。

 その時間が、私には、ひどく、長く、そして、同時に、ひどく、短く感じられた。

 ようやく、階段の下の、平らな地面に、両足が、ついた。

 もう、危険はない。

 彼の手が、ゆっくりと、私から、離れていく。

 指先に、彼の温もりの、残滓が、残っている。そして、その熱が、外の冷たい空気に、急速に、奪われていく。

 私は、その、わずかな喪失感に、気づかないふりをした。

 彼は、何事もなかったかのように、私に背を向け、待たせていた馬車の方へと、歩き始めた。

 その、広い背中を見つめながら、私は、まだ、かすかに熱を持つ自分の右手を、そっと、握りしめた。

 その日の帰り道、馬車が、大きく揺れた時。

 別の視察先で、人混みの中を、歩いた時。

 彼は、あの日と同じように、ごく自然に、そして、一度も、あの「リスク管理」という言葉を、口にすることなく、私の手を、取った。

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