第110話 朝
王家からの公式書簡が届いた夜、私たちは、それ以上、何も話さなかった。
新しい部屋は、まだ自分のものという実感が湧かず、どこか落ち着かない。歴代の公爵夫人が使ってきたという荘厳な調度品は、まるで私という闖入者を値踏みしているかのようだ。私は、侍女のフィーが用意してくれた夜着に着替えると、一人、広い部屋の中央に立ち尽くしていた。
物理的な距離は、壁一枚になった。けれど、心の距離は、まだ測りかねている。私たちは、互いの最も深い恐怖を共有し、そして、全く新しい関係を結んだ。けれど、その新しい関係を、これからどう生きていけばいいのか、その答えを、まだ持っていなかった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
浅い眠りと覚醒を繰り返すうち、窓の外が、ゆっくりと白んでいくのが分かった。
*
翌朝、私は、見慣れない豪奢な天蓋付きのベッドで、目を覚ました。
厚いカーテンの隙間から、冬の、柔らかく白い光が差し込んでいる。部屋の空気は、ひんやりと澄んでいた。暖炉の火は、夜のうちに消えている。
昨日の出来事が、夢ではなかったことを、その静けさが物語っていた。
盟約の調印。王家からの承認。そして、この部屋への移動。全てが、あまりにも目まぐるしく、現実感が追いつかない。私は、ゆっくりと身を起こすと、ベッドの縁に腰掛けた。足先に触れる、冷たい床の感触だけが、やけに鮮明だった。
これから、どうすればいいのだろう。
朝の支度は、どうすれば? いつもなら、東棟の部屋で、フィーが来るのを待つ。けれど、この西の棟の、公爵の私室エリアに、彼女が自由に出入りできるとは思えない。私が、彼女を呼びに行くべきなのだろうか。それとも、この部屋にある呼び鈴を鳴らすべきなのか。
そんな、あまりにも些細なことで、私の思考は、完全に停止してしまった。共同統治者としての盟約を結んだというのに、その初日の朝、私は、侍女の呼び方一つで、途方に暮れていた。
情けない、と自嘲しかけた、その時だった。
部屋の奥、アレスティード閣下の執務室へと繋がっている、内扉が、音もなく、静かに開いた。
心臓が、大きく、一度だけ跳ねた。
そこに立っていたのは、アレスティード閣下だった。
いつも見慣れた、隙のない執務服姿ではない。深い藍色の、上質なシルクのガウンを、ゆったりと羽織っている。きちんと整えられていたはずの黒髪が、少しだけ、乱れていた。それは、私が今まで一度も見たことのない、彼の、完全にプライベートな姿だった。
私は、自分がまだ夜着のままであることに気づき、慌てて、ベッドの上にあった掛け布団を、胸元まで引き上げた。その、あまりにも無防備な仕草に、自分で驚いてしまう。
彼は、私のそんな様子に気づいているのかいないのか、何も言わずに、部屋の中へと入ってきた。その手には、銀の盆が載せられており、その上には、湯気の立つティーカップが、二つ、並んでいた。
彼は、私のベッドのすぐそばまで来ると、その盆を、ベッドサイドのテーブルに、静かに置いた。カップが、ソーサーに触れる、小さな、硬い音が、静まり返った部屋に、やけに大きく響いた。
何を、言えばいいのだろう。
おはようございます、でいいのだろうか。それとも、昨夜は、と何か言うべきなのか。私の頭の中は、真っ白だった。
彼は、カップを一つ取ると、それを、私の方へ、無言で差し出した。
私は、恐る恐る、そのカップを受け取る。指先に、温かい陶器の感触が伝わった。立ち上る湯気からは、カモミールの、優しい香りがした。
彼も、もう一つのカップを手に取ると、私のベッドのそばにある、一人掛けのソファに、深く、腰を下ろした。そして、彼は、ただ、黙って、自分のカップに口をつけている。
沈黙が、気まずい。
何か、何か話さなければ。そう思うのに、言葉が、喉の奥で、つかえて出てこない。
私が、意を決して、何かを言おうと口を開きかけた、その時だった。
彼が、先に、口を開いた。
「おはよう、レティシア」
その声は、いつもより、少しだけ、低く、そして、柔らかく聞こえた。
私は、彼の、あまりにも自然な挨拶に、少しだけ、面食らった。
「お、おはようございます、閣下」
私の返事は、自分でも驚くほど、上ずってしまった。そして、彼を「閣下」と呼んだことに、内心で、しまった、と思う。私たちは、もう、主君と、その契約相手ではないはずだ。
彼は、私のその呼び方には、何も言わなかった。ただ、手に持ったカップの中の、琥珀色の液体を、静かに見つめている。
そして、彼は、一瞬だけ、言葉を切った。
その、ほんのわずかな間が、私には、永遠のように長く感じられた。
彼は、ゆっくりと、顔を上げた。その深い色の瞳が、まっすぐに、私を見つめる。
そして、彼は、続けた。
「私の、パートナー」
その言葉は、私の心臓を、直接、射抜いた。
パートナー。
恋人でも、妻でも、ましてや、部下でもない。
彼と私のために、彼が選び取ってくれた、世界でたった一つの、私たちの関係を定義する言葉。
昨日の盟約書の上で見た、インクの文字ではない。今、彼の口から、彼の声で、直接、私に届けられた、その響き。
熱いものが、胸の奥から、込み上げてくる。昨日、必死でこらえた涙が、今、この一言で、決壊してしまいそうだった。
私は、俯いて、ティーカップを両手で、強く握りしめた。その温かさだけが、今の私を、かろうじて、支えてくれていた。
「……はい」
ようやく、絞り出した声は、ひどく、か細く、震えていた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。そして、彼の目を、もう一度、まっすぐに見つめ返した。
「はい。あなたの、パートナーです」
そう言った時、彼の、いつもは硬く結ばれている唇の端が、ほんの、ほんのわずかだけ、緩んだように見えた。それは、笑顔と呼ぶには、あまりにもささやかな変化だったけれど、私には、それで、十分だった。
彼は、カップをソーサーに戻すと、ソファから立ち上がった。
「支度をしろ。朝食にしよう」
その声は、いつもの、統治者としての、短い命令口調に戻っていた。けれど、その響きは、もう、以前のようには、私の耳には聞こえなかった。
彼は、執務室へと戻るために、私に背を向けた。
その、広い背中に向かって、私は、ほとんど無意識に、呼びかけていた。
「アレスティード様」
彼は、扉の前で、足を止めた。そして、ゆっくりと、私の方へ、振り返る。その瞳には、かすかな、問いかけるような色が浮かんでいた。
私は、続けた。
「いいえ。……アレス、様」
その響きが、ひどく、気恥ずかしく、そして、同時に、誇らしかった。
彼は、何も言わなかった。ただ、私の言葉を、その深い瞳で、静かに、受け止めている。
そして、彼は、もう一度、小さく、しかしはっきりと、頷いた。
それから、彼は、今度こそ、何も言わずに、執務室の扉の向こうへと、消えていった。
部屋には、私一人と、まだ湯気の立つ、二つのティーカップだけが残された。
私は、自分のカップに残っていた、温かいカモミールティーを、ゆっくりと、一口、飲んだ。その、優しい甘さが、私の、冷え切っていた体の芯まで、じんわりと、染み渡っていく。
ダイニングルームへ向かうと、彼は、もう席についていた。
テーブルの上には、温かいパンと、野菜のスープ、そして、焼きたてのソーセージが並んでいる。
私たちが、向かい合って座る。
以前のような、気まずい沈黙は、もう、そこにはなかった。
まだ、会話は、ほとんどない。けれど、私たちは、時折、視線を交わし、そして、ごく自然に、同じテーブルで、同じ食事を、分かち合っていた。
その朝の食事は、私がこの屋敷に来てから、一番、おいしく感じられた。
窓から差し込む、冬の朝の光が、テーブルの上を、そして、私たちの間にある、穏やかな空気を、明るく、照らし出していた。