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第109話 監査官の報告書

 グライフェン伯爵を乗せた馬車が、アレスティード公爵領の雪道を王都へ向かって進んでいた。

 車内は、上質な毛皮と携帯用の魔導保温器で十分に暖められている。しかし、伯爵は窓の外に広がる、どこまでも続く白と灰色の世界から目を離さなかった。彼の脳裏には、この数日間で目撃した光景が、繰り返し再生されていた。

 今回の視察の真の目的は、報告書の内容の確認などではなかった。それは、北の若き支配者、アレスティード公爵が、出自不明の伯爵令嬢を妻にしてから一年、その統治に何か変化、あるいは脆弱性が生じていないかを見極めることにあった。巷では、氷の公爵が若い妻に骨抜きにされている、という甘ったるい噂もあれば、逆に、公爵夫人が冷遇され、実家との関係が悪化しているという不穏な噂もあった。いずれにせよ、国王陛下が懸念されていたのは、公爵の判断に「情」という不確定要素が入り込むことだった。

 だが、自分が見たものは、そのどちらでもなかった。

 玄関ホールで、あの若い公爵が、古い契約書を暖炉の炎に投げ込んだ瞬間。グライフェン伯爵は、全身に鳥肌が立つのを感じた。あれは、衝動的な行為ではない。計算され尽くした、完璧な政治的パフォーマンスだった。

 あの場にいた全ての者、自分という王の目、そして屋敷の使用人たち全員の前で、過去の関係を清算し、新しい関係を定義する。しかも、その新しい関係というのが、「婚姻」という曖昧なものではなく、「統治における終身パートナーシップ盟約」という、極めて冷徹で、合理的な、政治的結合だった。

 そして、あの公爵夫人。レティシア・アレスティード。彼女もまた、常人ではなかった。夫の常軌を逸した行動に、少しも動揺を見せず、涙も見せず、ただ、凛として、その盟約を受け入れた。彼女が口にした誓いの言葉は、恋する乙女のものではなく、王に忠誠を誓う騎士のそれだった。

 極めつけは、寝室の移動命令だ。「緊急時の意思決定の遅延を防ぐため」。恋愛感情の欠片もない、あまりにも統治者的な理由。あれを聞いた時、グライフェン伯爵は、完全に理解した。

 アレスティード公爵は、若い妻に誑かされたのではない。彼は、自分と対等な能力と覚悟を持つ、もう一人の統治者を見つけ出し、自らのパートナーとして、正式に玉座の隣に据えたのだ。

 馬車に備え付けられた折り畳み式の机を開き、伯爵はペンとインクを取り出した。揺れる車内で、彼は、王都に戻ってから推敲するための、報告書の草稿を書き始めた。

 これは、単なる視察報告書ではない。王国の北の守りの、未来を定義する、重要な文書になる。彼は、確信していた。



 数日後、王城の奥深くにある、国王の執務室。

 そこには、国王の他に、白髪の宰相と、数名の最高顧問官だけが集められていた。彼らの間には、重い沈黙が流れている。全員の視線が、机の中央に置かれた、一通の報告書に注がれていた。グライフェン伯爵が提出した、アレスティード公爵領からの帰還報告書だ。

「……共同統治、だと?」

 最初に沈黙を破ったのは、宰相だった。その声には、困惑と、隠しきれない警戒の色が滲んでいた。

「婚姻契約を破棄し、新たに『終身パートナーシップ盟約』を結んだ、と。前代未聞だ。アレスティード公爵は、一体何を考えている。これは、王家が認可した婚姻の形式を、公然と無視する行為ではないのか」

 別の顧問官が、同意するように頷いた。

「公爵夫人の出自も、元はと言えば、決して盤石ではない。そのような女性と、統治の責任を共有するなど、正気の沙汰とは思えません。これは、アレスティード公爵が、王国の法から逸脱し、北の地に、独自の王国を築こうとする、その前触れと見るべきでは?」

 室内の空気が、にわかに緊張を帯びる。アレスティード公爵家は、代々、王家への忠誠心は高いが、その強大な軍事力と独立性は、常に王都の警戒の対象でもあった。

 その時、報告の提出者であるグライフェン伯爵が、静かに口を開いた。

「皆様のご懸念は、ごもっともです。私も、現地でその光景を目にするまでは、同じように考えておりました」

 彼は、一同を見回すと、落ち着いた声で続けた。

「しかし、私がこの目で見てきた現実は、全く異なります。この盟約は、アレスティード公爵の統治を、不安定にするものでは決してない。むしろ、これ以上ないほど、強固で、安定したものにするための、極めて合理的な一手です」

「合理的、だと?」宰相が、訝しげに問い返す。

「はい」と、グライフェン伯爵は、はっきりと頷いた。

「貴族社会における最大の不安定要因は、何か。それは、後継者問題、そして、婚姻によって生じる、姻戚関係からの介入です。特に、公爵夫人の実家が、その権威を盾に、領地の政治に口出しを始める例は、枚挙にいとまがありません」

 彼は、報告書の一節を指さした。

「しかし、この盟約は、その両方の問題を、見事に解決しています。彼らの関係は、恋愛や血縁といった、不確かな感情やしがらみの上に成り立っているのではない。『領地への共同責任』という、揺るぎない基盤の上に、成り立っているのです。これにより、公爵夫人の実家であるラトクリフ伯爵家が、将来的に介入してくる余地は、完全に断たれました。また、彼らは互いを『能力』によって選んでいる。これは、感情の縺れによる離縁といった、愚かな事態を招く可能性が、極めて低いことを示唆しています」

 執務室の空気が、少しずつ、変化していく。警戒から、冷静な分析へと。

「つまり、アレスティード公爵は、自らの統治から、予測不能な『情』という要素を、徹底的に排除したのです。そして、代わりに、レティシア夫人という、極めて有能な『統治パートナー』を得た。辺境の兵站改革に見られる彼女の手腕は、報告書にある通り、本物です。二人の能力が組み合わさることで、北の防衛と内政は、これまで以上に、磐石のものとなりましょう」

 長い沈黙の後、それまで黙って報告書を読んでいた国王が、ふと、顔を上げた。その瞳には、興味深そうな光が宿っていた。

 国王は、報告書の、最後の一節を、指でなぞりながら、ゆっくりと、読み上げた。

「……彼らの関係は、巷で噂されるような、政略結婚や、ましてや、恋愛ごっこの類ではない。それは、古代の王族に見られたような、二人の王が、一つの玉座を共有する、『共同統治』と呼ぶべき、極めて強固で、合理的な、政治的結合である。これにより、北の安寧は、今後、磐石のものとなろう」

 国王は、読み終えると、報告書を静かに閉じた。そして、宰相と顧問官たちを見回し、静かに、しかし、絶対的な権威を込めて、言った。

「面白い。アレスティードは、我々の想像を、超えてきたな」

 彼は、満足そうに、小さく、笑った。

「良いだろう。この『終身パートナーシップ盟約』を、王家の名において、正式に承認する。アレスティード公爵家に、その旨を伝える、公式の書簡を作成させよ。我々は、北の新しい統治の形を、歓迎する、と」

 その鶴の一声で、全ては、決した。



 王都での議論が、北の地を揺るがす嵐となるか、あるいは、追い風となるかを、まだ知らないアレスティード公爵邸。

 私の私室の移動は、その日の夕刻には、滞りなく完了した。

 新しい部屋は、西の棟、アレスティード閣下の主寝室の、隣にあった。歴代の公爵夫人が使ってきたというその部屋は、私のいた東棟の部屋よりも、さらに広く、調度品も歴史の重みを感じさせる、荘厳なものだった。

 そして、部屋の奥には、一つの扉があった。その扉は、アレスティード閣下の執務室へと、直接繋がっている。彼が言った通り、緊急時には、いつでも、意思の疎通が図れるようになっていた。

 物理的な距離は、壁一枚になった。けれど、私たちの間に流れる空気は、まだどこか、ぎこちなかった。

 その日の夜、私は、新しい部屋の窓辺に立ち、落ち着かない心地で、雪の降り積もった中庭を眺めていた。

 その時、背後で、執務室へと繋がる扉が、静かに開く音がした。

 振り返ると、そこに、アレスティード閣下が立っていた。彼は、ガウン姿ではなく、まだ日中の執務服のままだった。その手には、一通の、封蝋の押された書簡が握られていた。

「王都から、公式書簡が届いた」

 彼は、短くそう言うと、部屋の中へ入ってきた。そして、私の隣に立つと、その書簡を、私の目の前で、封を切った。

 私たちは、並んで、その羊皮紙に記された、インクの文字を、黙って目で追った。

 そこには、国王の署名と共に、私たちの「終身パートナーシップ盟約」を、王家が正式に承認し、その有効性を、国家として保証するという内容が、荘重な文体で、記されていた。

 読み終えた時、私たちは、どちらからともなく、顔を見合わせた。

 彼の、深い色の瞳。私の、驚きに見開かれた瞳。

 私たちの、極めて個人的で、常識外れの選択が、国家という、最も公的な機関によって、認められた。その事実が、ずしりとした重みを持って、私たちの肩に、のしかかってくる。

 それは、大きな安堵をもたらすと同時に、もはや、決して後戻りはできないのだという、新たな責任の重みを、私たちに、はっきりと自覚させた。

 私たちは、もう、ただの二人ではない。この承認によって、私たちの関係は、この国の歴史の一部に、組み込まれてしまったのだ。

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