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第10話 契約の向こう側

 厨房の窓から、夕暮れに染まる中庭を眺めていた。

 つい数週間前まで、この窓から見える景色は、まるで時が止まった絵画のように静かで、冷たいものだった。けれど今は違う。仕事を終えた庭師たちが談笑しながら道具を片付けている。侍女たちが、明日の洗濯物の準備について楽しげに打ち合わせをしている。遠くの練兵場からは、兵士たちの活気のある掛け声が、風に乗って微かに聞こえてくる。

 ここはもう、私が来た頃の、あの冷え切っただけの場所ではない。

 いつの間にか、この屋敷に「生活の温度」が戻り始めていた。

 静かな自由を求めて、ここへ来たはずだった。誰にも干渉されず、誰の期待にも応えず、ただ自分のためだけに時間を使う。それが、私がこの契約結婚に求めた、たった一つの望みだったはずなのに。

 私は、どうだろう。

 朝は誰よりも早く厨房に立ち、夜は遅くまで帳簿と向き合う。公爵の体調を気遣い、兵士の士気を案じ、使用人たちの顔色を窺う。やっていることは、前世で会社のために身を粉にしていた頃と、あまり変わらないのかもしれない。

 なのに、不思議と、心は少しもすり減っていなかった。むしろ、満たされている。

 私の作った温かいものが、人の心を、この場所の空気を、ほんの少しずつ溶かしていく。その手応えが、たまらなく嬉しいのだ。

「いい子」をやめたはずの私が、皮肉にも、誰かのために動くことで、本当の自分を取り戻し始めている。

「奥様、お疲れ様です。そろそろお部屋にお戻りになっては?」

 背後から、侍女長のフィーが優しい声をかけてくれた。彼女の淹れてくれるハーブティーは、一日働いた体の疲れをじんわりと癒してくれる。

「ええ、そうするわ。ありがとう、フィー」

 私は窓から離れ、彼女に微笑み返した。

 静かな自由もいいけれど、温かい人々と共に、温かい場所を作っていく。そんな自由の形も、悪くないのかもしれない。

 そんなことを、ぼんやりと考え始めていた。



 自室に戻り、机の上の魔導ランプに灯りをともす。夜は、帳簿と向き合う時間だ。予算会議で家令を黙らせたとはいえ、実績が伴わなければ意味がない。私は、日々の食材の消費量と在庫を照らし合わせ、無駄なく、かつ、栄養のある献立を組み立てる作業に没頭した。

 カリカリと、羽根ペンが羊皮紙を滑る音だけが、静かな部屋に響く。

 どれくらい時間が経っただろうか。不意に、部屋の扉が、コン、コン、と控えめにノックされた。

 こんな時間に、誰だろう。フィーだろうか。

「はい」と返事をすると、扉がゆっくりと開いた。

 そこに立っていたのは、予想もしない人物だった。

「……閣下」

 アレスティード公爵その人だった。彼は、部屋着らしいシンプルなシャツとスラックスという、いつもより少しだけ気の抜けた姿で、気まずそうにそこに立っていた。

 私は、思わず立ち上がる。心臓が、とくん、と一つ大きく跳ねた。

「契約違反、ですよ」

 驚きのあまり、口から出たのはそんな言葉だった。契約書には、確かに「互いの私室に立ち入らないこと」という一文があったはずだ。

 私の言葉に、公爵はわずかに眉を寄せ、視線を彷徨わせた。その仕草が、いつも完璧な彼には似つかわしくなくて、少しだけ人間味を感じさせる。

「……扉の前で話すのは、問題ないはずだ」

 彼が、ようやく絞り出したのは、そんな理屈だった。私は思わず、小さく吹き出しそうになるのを堪えた。

「それで、ご用件はなんでしょうか」

「……これだ」

 公爵は、無言で一つの小さな布包みを、私に差し出した。上質なリネンに、丁寧に包まれている。私は戸惑いながらも、それを受け取った。

 包みを開くと、ふわりと、清涼感のある穏やかな香りがした。中に入っていたのは、乾燥させた上質な薬草だった。カモミールに似ているが、もっと甘く、心を落ち着かせるような香りだ。

「これは……?」

「胃腸の働きを助ける薬草だ。疲労回復にも効く」

 公爵は、相変わらず不愛想な口調で、しかし、視線は私から少し外したまま、そう説明した。

 なぜ、私に?疑問が顔に出ていたのだろう。彼は、さらに言葉を続けた。



「……執事長から聞いた」

 公爵は、ぽつり、ぽつりと、言葉を紡いだ。

「予算内で、すべてをやりくりしていると。無理を、しているのではないか、と」

 その言葉に、私は息を呑んだ。ブランドン様が、そんな報告を。そして、この人が、それを気にかけて。

「これは、家の経費ではない。私の個人資産から出す」

 彼は、そう付け加えた。

 その瞬間、私はすべてを理解した。

 彼は、私が家の財政を気にして、自分のための薬草一つ買うのを我慢していると思ったのだ。だから、家の経費ではなく、彼個人の、つまり私には関係のないお金でこれを買い、私に渡そうとしている。

 なんて、不器用で、遠回しで、そして、優しい配慮だろう。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。それは、私が作るスープの温かさとはまた違う、もっと個人的で、心を直接温めるような熱だった。

「……ありがとうございます」

 私がようやくそれだけを言うと、公爵はどこか安心したように、小さく頷いた。そして、目的は果たしたとばかりに、すぐに踵を返す。その背中が、やけに大きく見えた。

 このまま、行かせてしまっていいのだろうか。

 いいや。

 衝動的に、私は彼の背中に声をかけていた。

「あの、閣下!」

 公爵が、驚いたように振り返る。そのアイスブルーの瞳が、まっすぐに私を捉えた。

 私は、自分でも何を言っているのか分からないまま、言葉を続けた。

「明日の朝食は、パンケーキにしようと思うのですが」

 言ってから、しまった、と思った。パンケーキなんて、子供っぽいだろうか。こんな氷の公爵が、好むはずもない。

「……その、もちろん、お嫌いでしたら、別のものを」

 慌てて取り繕おうとする私を、公爵はただ黙って見つめていた。その表情からは、何も読み取れない。ああ、また無駄なことを言ってしまった、と後悔が押し寄せた、その時。

 公爵は、少しだけ、本当にわずかに、考えるような素振りを見せた。

 そして。

 その、常に真一文字に結ばれていた唇の片端が、ほんの少しだけ、持ち上がった。それは、微笑みと呼ぶにはあまりにささやかで、けれど、確かな変化だった。

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