第108話 北の誓い
私は、震える指で、その、まだインクの匂いがする真新しい羊皮紙を、そっと、受け取った。
そこに記されていたのは、恋人たちの誓いではなかった。王と、王が、交わす、盟約だった。
私の能力への、絶対的な信頼。私の存在を、彼の統治に不可欠なものとする、明確な定義。そして、私が最も恐れていた「捨てられる」という可能性を、完全に排除する、終身の約束。
それは、私が求めていた、どんな甘い言葉よりも、ずっと、誠実で、ずっと、心強い、彼にしかできない、愛の形だった。
熱いものが、喉の奥から込み上げてくる。けれど、私は、唇を強く噛み締め、それを必死にこらえた。今、ここで泣くのは違う。彼は、私を、感傷に浸るか弱い女としてではなく、共に領地を背負うパートナーとして選んでくれたのだ。ならば、私もまた、その覚悟に応えなければならない。
私は、ゆっくりと顔を上げた。そして、目の前に立つ、アレスティード閣下の、深い色の瞳を、まっすぐに見つめ返した。
「お受けいたします」
私の声は、もう震えてはいなかった。静かで、けれど、ホールにいる全ての者の耳に届く、凛とした響きを持っていた。
「このレティシア・アレスティード、終身にわたり、あなたのパートナーとして、この領地に、そして、あなたに、我が力の全てを捧げることを、ここに誓います」
私の言葉に、アレスティード閣下の瞳が、ほんのわずかに、和らいだように見えた。彼は、小さく、しかしはっきりと、頷いた。
その時、私たちの後ろで、呆然と成り行きを見守っていたグライフェン伯爵が、ふ、と短く息を漏らした。それは、呆れとも、感嘆ともつかない、複雑な響きを持っていた。
「……これは、驚きましたな」
伯爵は、ゆっくりと私たちに歩み寄ってきた。その顔から、先ほどまでの探るような色は消え、代わりに、純粋な畏敬のような光が宿っていた。
「婚姻契約を、統治盟約に、ですか。前代未聞だ。いやはや、アレスティード公爵。あなたは、我々が思うよりも、ずっと、先を見ておられるようだ」
彼は、アレスティード閣下にそう言うと、次に、私に視線を向けた。
「そして、公爵夫人。あなたもまた、公爵にふさわしい、稀有な魂をお持ちだ。陛下にご報告申し上げるのが、ますます、楽しみになりましたな」
その言葉は、もはや、社交辞令や探り合いではなかった。彼の、心からの言葉であることが、痛いほど伝わってきた。
アレスティード閣下は、伯爵の言葉には答えず、代わりに、背後に控えていた執事長のブランドンに、目で合図を送った。
「ブランドン」
「は。ここに」
ブランドンは、一瞬の動揺も見せず、完璧な執事として、一歩前に進み出た。彼の顔は、いつも通り冷静沈着だったが、その指先が、ほんのわずかに、白くなっているのを、私は見逃さなかった。
「ペンと、インクを」
「かしこまりました」
ブランドンは、流れるような動作で、近くのコンソールテーブルから、上質な羽根ペンと、黒々としたインク壺、そして、署名のための吸い取り紙を、銀の盆に載せて、私たちの前に差し出した。
ここは、玄関ホールだ。客を見送るための、公的な空間。そして、この場には、監査官であるグライフェン伯爵と、この屋敷の全ての使用人たちがいる。
アレスティード閣下は、この調印を、密室での私的な約束ではなく、全ての者が見守る前での、公的な儀式として、執り行うつもりなのだ。
彼は、私に、ペンを差し出した。
「君からだ」
「はい」
私は、そのペンを、しっかりと受け取った。ひんやりとした、羽根の感触。私は、ブランドンが差し出すインク壺に、ゆっくりとペン先を浸す。そして、アレスティード閣下が、固い大理石の床に膝をつき、その背中を差し出して、即席の署名台となった。私は、彼の広い背中の上で、羊皮紙を広げた。
私は、震える指を、もう片方の手で、ぐっと押さえた。
そして、息を止め、羊皮紙の、一番下の署名欄に、ペン先を、下ろした。
レティシア・アレスティード。
一文字、一文字、インクが羊皮紙に染み込んでいく。それは、もう、仮初めの名前ではなかった。私が、私の意志で選び取った、私の、本当の名前。この場所で、この人の隣で、生きていくという、私の覚悟の証。
書き終えた時、私は、自分が、ずっと息を止めていたことに気づいた。
私が立ち上がると、今度は、アレスティード閣下が、ペンを受け取った。彼は、私の名前の隣に、力強く、流れるような筆致で、自らの名を記した。
アレスティード・フォン・ヴァルエンティン。
二つの名前が、並んで、記される。
その瞬間、私と彼を繋ぐ、新しい、そして、何よりも強固な絆が、確かに、結ばれた。
調印が終わったのを見届けると、グライフェン伯爵が、満足そうに、深く頷いた。
「見事な誓いでした。このグライフェン、確かに、お二人の盟約の、証人となりましたぞ」
彼は、そう言うと、今度こそ、本当に、馬車へと向かうために、私たちに背を向けた。
これで、全てが終わった。そう、誰もが思った、その時だった。
アレスティード閣下が、再び、口を開いた。その声は、先ほどよりも、さらに低く、そして、絶対的な権威を帯びていた。
「ブランドン」
「は」
「盟約に基づき、本日より、公爵夫人の私室を、公爵の主寝室の隣室へ移す」
その言葉に、ホールにいた全ての者が、息を呑んだ。私もまた、心臓が、大きく跳ねるのを感じた。
彼は、続けた。その声には、ロマンスの欠片も、感情の揺らぎも、一切なかった。それは、どこまでも、合理的で、統治者としての、冷徹な命令だった。
「共同統治者が、屋敷の別々の棟にいては、緊急時の意思決定に、遅延が生じるためだ。異論は、認めん」
その、あまりにも彼らしい言葉。
温かい言葉でも、甘い囁きでもない。けれど、その、どこまでも不器用で、どこまでも合理的な命令こそが、私にとって、世界で一番、信頼できる、愛の言葉に聞こえた。
彼は、私の「捨てられる恐怖」を、そして、彼自身の「温かさへの恐怖」を、この「統治の論理」という、ただ一つの剣で、両断してみせたのだ。
使用人たちの間から、押さえきれない、小さな、しかし、確実な、どよめきが起こった。特に、侍女長のフィーが、顔を真っ赤にして、口元を両手で覆っているのが、視界の端に見えた。彼女たちが、この命令を、どう解釈しているのかは、想像に難くない。
馬車に乗り込もうとしていたグライフェン伯爵が、その言葉に、足を止めた。彼は、ゆっくりと、私たちの方へ、振り返る。その顔には、もはや、驚きはなかった。ただ、深い、深い感嘆と、そして、まるで、自分では到底敵わない、何か巨大なものを見たかのような、ある種の敗北を認める、静かな笑みが浮かんでいた。
「……参りましたな」
彼は、それだけを、呟くように言うと、今度こそ、深く、深く、私たちに一礼し、そして、馬車の中へと、乗り込んでいった。
やがて、馬車が、雪を踏みしめながら、ゆっくりと動き出す。
私たちは、並んで、それを見送った。もう、仮面を被った、仮初めの夫婦ではない。この北の地を、共に治める、二人の統治者として。
馬車の姿が、屋敷の門の向こうに、完全に見えなくなった時、アレスティード閣下が、私の方を向かずに、短く、言った。
「支度は、フィーに任せろ。夕刻までには、移動を終えさせろと、伝えてある」
それは、やはり、業務連絡のような、素っ気ない口調だった。
けれど、私の心は、春の陽だまりの中にいるかのように、温かかった。
「はい」
私は、ただ、その一言だけを、答えた。
その返事に、私の、これからの日々と、彼との未来に対する、全ての信頼と、静かな喜びが、込められていた。