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第107話 第三の契約

 私の告白は、彼の重い過去の告白とは、あまりにも対照的だった。彼の言葉は、領地を守るための、冷徹な論理と責任感に満ちていた。けれど、私の言葉は、ただ、一人の女の、根深い恐怖と、惨めさへの怯えだけだった。

 あの夜、私たちは、それ以上、何も話さなかった。

 彼が、私の部屋まで、無言で送ってくれた。東棟と西棟を繋ぐ長い廊下を、ただ二人で歩く。窓の外では、雪が静かに降り続いていた。どちらも、一言も発しない。けれど、その沈黙は、以前の気まずいだけの沈黙とは、明らかに違っていた。

 互いの、最も脆く、最も暗い部分に触れてしまった後の、どうしようもなく重く、そして、どこか厳粛でさえある沈黙だった。

 部屋の扉の前で、彼は、ただ一言、「休め」と言った。私も、ただ、「おやすみなさいませ」と返すのが、精一杯だった。



 そして、グライフェン伯爵が発つ日の朝が来た。

 夜の間に降り積もった雪が、窓の外の景色を、一面の銀世界に変えていた。空気は、ガラスのように冷たく、澄んでいる。

 朝食の席で、私たちは、再び完璧な公爵夫妻の仮面を被っていた。

「いやはや、素晴らしい雪景色ですな。北の冬の厳しさと、その美しさを、存分に堪能させていただきました」

 伯爵は、上機嫌でそう言った。私たちは、練習通りに、穏やかに微笑んでみせる。

「伯爵にご満足いただけたのなら、何よりですわ」

「ええ、もちろんですとも。領地の視察も、実に有意義でした。そして何より、お二人の、このアレスティード公爵領の未来に対する、熱意と、見事な連携。この目でしかと拝見いたしました。王都に戻り、陛下に報告申し上げるのが、今から楽しみでなりません」

 その言葉は、最高の賛辞のはずだった。けれど、今の私には、その言葉の一つ一つが、鋭い棘のように、胸に突き刺さった。

 見事な連携。その裏側で、私たちが、どれほど深く、互いの絶望に触れてしまったのかを、この老獪な監査官は、知る由もない。

 私は、隣に座るアレスティード閣下の横顔を、盗み見た。彼は、いつもと変わらない、無表情な顔で、伯爵の言葉に、静かに耳を傾けている。けれど、その硬質な横顔の奥に、昨夜の、孤独な統治者の姿が、重なって見えた。

 私たちは、互いの恐怖を知ってしまった。彼が恐れる「温かさ」と、私が恐れる「曖昧な関係」。その二つの恐怖は、決して交わることのない平行線のように、私たちの間に、絶対的な断絶を生んでいた。

 契約に戻ることは、もうできない。私たちの現実は、あの古い紙の上の約束を、とっくに超えてしまっているからだ。

 かといって、世間一般の「夫婦」になることも、できない。それは、彼の統治哲学を根底から揺るがし、私の、最も深い恐怖を、現実のものとしてしまうだろう。

 道は、ない。

 私たちは、完全に行き詰まっていた。

 朝食は、和やかな雰囲気のうちに終わった。けれど、私には、料理の味も、紅茶の香りも、何も感じられなかった。



 伯爵の出発の準備が整い、私たちは、屋敷の玄関ホールで、彼を見送っていた。

 ブランドンが、伯爵の外套を、恭しく差し出す。フィーを始めとする使用人たちが、その後ろに、ずらりと並んで、深々と頭を下げている。完璧な、公爵家の見送りだった。

「公爵閣下、そして奥様。この数日間、実に、心温まるおもてなし、感謝の言葉もございません」

 伯爵は、私たちに向き直り、にこやかに言った。

「いえ。またいつでも、北の地へお越しください。歓迎いたします」

 アレスティード閣下が、統治者としての完璧な返答をする。私も、その隣で、完璧な公爵夫人の笑みを浮かべていた。

 これで、終わる。この、息の詰まるような芝居も、ようやく、幕を下ろすのだ。私が、安堵のため息を、心の内で、そっと吐き出しかけた、その瞬間だった。

 伯爵は、馬車へ向かうために、私たちに背を向けかけ、そして、何かを思い出したかのように、ふと、足を止めた。

 彼は、ゆっくりと、私たちの方へ、向き直る。その顔には、相変わらず、穏やかな笑みが浮かんでいた。けれど、その瞳の奥には、最後の、そして、最も鋭い刃が、隠されているのを、私は、見た。

「ああ、そうだ。ところで」

 その、何気ない口調が、玄関ホールの空気を、一瞬で、凍りつかせた。

「王家への、ご報告は、いつ頃に、なりますかな?」

 心臓が、氷の手に、鷲掴みにされたようだった。

 伯爵は、続けた。その声は、どこまでも、親切で、穏やかだった。

「お二人が、晴れて『正式な婚姻』へ移行されるとの吉報を、陛下も、きっと、心待ちにしておられますぞ」

 最後の、揺さぶり。

 そして、最終試験。

 私たちの、完璧な芝居の、その仮面のすぐ下にある、真実を、彼は、白日の下に、晒そうとしていた。

 私は、凍りついた。笑顔を保ったまま、指一本、動かすことができない。隣に立つアレスティード閣下の纏う空気が、絶対零度を超えて、冷たく、硬質化していくのを感じた。

 答えられない。

 肯定も、否定も、できない。

 私たちの沈黙が、全てを物語ってしまう。私たちの関係が、見せかけだけの、脆いものであることを。私たちが、未来に対する、何の答えも、持っていないことを。

 絶体絶命だった。

 伯爵の、穏やかな視線が、私たちに、突き刺さる。使用人たちの、訝しむような気配が、背中に突き刺さる。

 永遠に続くかのような、数秒の沈黙。

 もう、だめだ。そう思った、その時だった。

 アレスティード閣下が、動いた。

 彼は、何も言わなかった。ただ、無言で、私と伯爵に背を向けると、踵を返し、玄関ホールに隣接する、応接室の中へと、大股で、入っていった。

 その、あまりにも唐突な行動に、私だけでなく、伯爵も、そして、そこにいた全ての者が、何が起きたのかを理解できず、ただ、呆然と、彼の消えた扉を見つめるだけだった。

 数秒後、彼は、応接室から、戻ってきた。

 その右手には、一枚の、古びた羊皮紙が、握りしめられていた。

 見間違えるはずもなかった。

 それは、一年前、私たちがサインを交わした、「暫定婚姻契約書」だった。

 彼は、誰のことも、見なかった。ただ、まっすぐに、玄関ホールの中央に設えられた、大きな暖炉の前まで、歩いていく。

 そして、彼は、私と、そして、グライフェン伯爵が、はっきりと見える位置で、足を止めた。

 彼は、その手に持った契約書を、一瞬だけ、見下ろした。そして、次の瞬間、彼は、その羊皮紙を、何のためらいもなく、燃え盛る暖炉の炎の中へと、投げ込んだ。

 私は、息を呑んだ。

 羊皮紙は、一瞬で、炎に包まれた。端から、黒く、丸まっていく。私たちが交わした約束の言葉が、インクの文字が、熱に歪み、そして、灰へと変わっていく。

 私の、自由の証明。私の、唯一の拠り所。私が、捨てられないための、最後の保証。

 その全てが、今、私の目の前で、静かに、燃え尽きていこうとしていた。

 玄関ホールには、薪がはぜる、ぱち、ぱち、という音だけが響いていた。誰もが、その、あまりにも劇的な光景に、言葉を失っていた。

 やがて、アレスティード閣下は、炎から視線を外すと、静かに、しかし、ホールにいる全ての者に聞こえる、はっきりとした声で、言った。

「過去の契約は、終わった」

 その声は、絶対的な、宣言だった。

 そして、彼は、ゆっくりと、私の方へ、向き直った。その深い色の瞳が、まっすぐに、私の、心の奥底を、射抜く。

「そして、我々は、世間の求める『夫婦』には、なれない」

 その言葉は、私の、最も深い恐怖を、否定するのではなく、静かに、そして、完全に、肯定するものだった。あなたは、愛されなかった女として捨てられることを恐れている。ならば、その土俵で戦う必要はない、と。

 私の目から、涙が、こぼれ落ちそうになるのを、必死で、こらえた。

 彼は、続けた。その声には、統治者としての、揺るぎない、決意が宿っていた。

「ならば、我々が、我々のための、全く新しい関係を、定義すればいい」

 彼は、そう言うと、懐から、もう一枚、真新しい羊皮紙を、取り出した。それは、彼が、昨夜、私が眠った後、おそらくは、徹夜で、書き上げたものなのだろう。

 彼は、その羊皮紙を、私の前に、静かに、差し出した。

「これは、婚姻契約ではない」

 彼の声が、私の鼓膜を、震わせる。

「『統治における、共同責任者としての、終身パートナーシップ盟約』だ」

 私は、恐る恐る、その羊皮紙に、視線を落とした。

 そこに、力強い、彼の筆跡で記されていたのは、愛や、情や、慈しみといった、曖昧で、不確かな言葉ではなかった。

 第一条:アレスティード公爵領の安寧と繁栄という、共同の目的のため、互いが有する、全ての知恵と、能力と、経験を、終身にわたり、提供し合うことを、ここに誓う。

 第二条:共同統治者として、互いの判断を尊重し、その責任を、共有するものとする。

 第三条:この盟約は、いずれか一方の、死亡、もしくは、明確な裏切り行為が認められない限り、永久に、その効力を、失わない。

 それは、恋人たちの誓いではなかった。王と、王が、交わす、盟約だった。

 私の能力への、絶対的な信頼。私の存在を、彼の統治に不可欠なものとする、明確な定義。そして、私が最も恐れていた「捨てられる」という可能性を、完全に排除する、終身の約束。

 それは、私が求めていた、どんな甘い言葉よりも、ずっと、誠実で、ずっと、心強い、彼にしかできない、愛の形だった。

 私は、震える指で、その、まだインクの匂いがする、真新しい羊皮紙を、そっと、受け取った。

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