第106話 道具の値段
アレスティード閣下の言葉は、雷のように私の心を貫いた。
彼がためらっていたのは、私個人を拒絶していたからではない。彼が恐れていたのは、私との間に芽生え始めた、名前のない、温かい何か。それそのものが、彼が十六歳の時から、たった一人で守り続けてきた、この領地という名の要塞を、脅かす、最大の危険因子だと、彼は信じているのだ。
それは、彼が、その半生をかけて築き上げた、揺るぎない、統治の哲学だった。
私は、その、あまりにも重く、あまりにも孤独な論理の前で、かけるべき言葉を、一つも、見つけることができなかった。
執務室には、沈黙だけが、落ちていた。暖炉の火が、彼の横顔を、赤く、そして、静かに、照らし出していた。
彼の言葉は、私の心に、深く、深く突き刺さった。
「温かい感情は、判断を鈍らせる。信頼は、裏切りの温床となる。そして、要塞の壁は、いつだって、温もりによって、内側から、崩れるのだ」
その言葉は、彼がどれほどの苦痛と犠牲の上に、今の自分を築き上げてきたのかを物語っていた。十六歳で、父の裏切りと領地の危機に直面し、自らの手で、信じていた者たちを処刑し、父が築いた友好関係を破壊して、この領地を守った。その経験が、彼に「温かさ」を恐れることを教え、感情を排除した統治者としての仮面を被らせたのだ。
彼の背中は、あまりにも大きく、そして、あまりにも孤独に見えた。
私は、彼を理解した。彼の行動原理の全てを、今、理解した。
けれど、理解したからといって、私の胸の奥で渦巻く、この恐怖が消えるわけではなかった。
彼の論理は、あまりにも正しかった。彼の経験は、あまりにも重かった。
そして、その論理と経験は、私自身の、最も深い部分に隠されていた恐怖と、ぴたりと重なり合っていた。
*
私は、この屋敷に来るまで、ずっと「いい子」だった。
実家では、父と継母の期待に応え、異母妹セシリアの魔力供給源として、自分の存在意義を確立しようと必死だった。彼らが望む「いい子」を演じ続けることで、私は、彼らから捨てられないように、必死に自分を繋ぎ止めていた。
けれど、その結果、私は「道具」として扱われた。
「お前は我慢強いから」という言葉は、私を縛り付ける呪いだった。私の感情は無視され、私の意志は踏みにじられ、私の体は搾取された。私は、彼らにとって、ただの便利な「道具」でしかなかったのだ。
だからこそ、アレスティード閣下との「契約婚」は、私にとって、自由の証明だった。
この契約書は、私が「道具」ではないことを、明確に示してくれた。
私は、彼の「妻」として、公爵夫人としての役割を果たす。彼は、私に、その対価として、安全な居場所と、自由な生活を保証する。それは、互いの利害に基づいた、冷たい、けれど、明確な関係だった。そこには、感情という曖牲な要素は一切含まれていなかった。だからこそ、私は、安心して、この関係の中に身を置くことができたのだ。
この契約書がある限り、私は、誰かの「愛」や「情」に依存することなく、一人の人間として、ここに存在することができた。私の価値は、私の能力と、契約によって定められた役割によって保証されていた。それは、私にとって、何よりも確かな、揺るぎない土台だった。
もし、この契約がなくなったら?
もし、私たちが、世間一般の「夫婦」という、曖昧で、感情的な関係になったら?
その時、私は、また、誰かの期待に応えられなかったら、捨てられるのではないか。
「いい子」を演じきれなかったら、また、見捨てられるのではないか。
その恐怖が、私の胸を、強く締め付けた。
アレスティード閣下は、私を「道具」として扱ったことは一度もない。むしろ、私の能力を認め、私の意見を尊重し、私を対等なパートナーとして扱ってくれた。辺境での共闘は、その最たるものだった。
けれど、もし、彼が、私に「妻」としての、あるいは「愛する女」としての、何かを期待し、私がそれに、応えられなかったら?
その時、私は、彼にとって、どのような存在になるのだろう。
「役に立たない道具」として捨てられるよりも、「愛されなかった女」として見捨てられる方が、ずっと、ずっと、惨めだ。
その惨めさだけは、絶対に、味わいたくなかった。
私は、彼の統治哲学を理解した。彼が「温かさ」を恐れる理由も、痛いほど分かった。
けれど、私には、私自身の、根深い恐怖があった。
私たちは、互いに、最も深い部分で、同じものを恐れていたのだ。
「温かさ」という、不確かで、脆いものを。
*
私は、ゆっくりと、彼の方へ向き直った。
彼の背中は、まだ暖炉の炎に照らされている。その横顔は、相変わらず、感情の色をほとんど浮かべていなかった。
私は、震える声で、口を開いた。
「閣下」
彼は、ゆっくりと、私の方へ視線を向けた。
「私にとって、あの契約書は、自由の証明でした」
私の声は、ひどくか細く、震えていた。けれど、私は、もう、止まることができなかった。
「私が、誰かのための『道具』ではなく、一人の人間として、ここに存在する権利を保証してくれる、唯一のものでした」
私は、自分の両手を、胸の前で、ぎゅっと握りしめた。その指先が、冷たく、震えているのが分かった。
「もし、この契約をなくし、理由も、定義も、保証もない、曖昧な『夫婦』という関係になったら?」
彼の瞳が、わずかに、揺れたように見えた。
「私が、あなたの期待する『妻』として、機能しなかった時、私は、また、捨てられるのでしょうか」
言葉が、喉の奥で、つかえる。呼吸が、苦しい。
「今度は、『役に立たない道具』としてではなく、『愛されなかった女』として」
私は、必死に、言葉を絞り出した。
「…その方が、ずっと、惨めですわ」
私の告白は、彼の重い過去の告白とは、あまりにも対照的だった。彼の言葉は、領地を守るための、冷徹な論理と責任感に満ちていた。けれど、私の言葉は、ただ、一人の女の、根深い恐怖と、惨めさへの怯えだけだった。
私は、顔を上げることができなかった。彼の、全てを見透かすような瞳に、これ以上、私の醜い感情を晒すことが、できなかった。
執務室には、再び、重い沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちり、と音を立てる。
その音だけが、私たちの間に横たわる、あまりにも深く、そして、あまりにも重い、感情の溝を、静かに、そして、容赦なく、示していた。
私は、ただ、そこに立ち尽くす。
彼の、感情の読めない視線が、私に注がれているのを感じながら。
部屋の空気は、ひどく重く、そして、冷たかった。