第105話 要塞の論理
グライフェン伯爵を客室へ見送った後、私はアレスティード閣下と別れ、東棟にある自室へと戻った。完璧な芝居を終えた後の、深い疲労感。侍女のフィーに手伝ってもらいながら夜着に着替え、一人になった時、私はようやく、張り詰めていた息を、長く、細く吐き出した。
暖炉の火が、静かに燃えている。部屋は十分に暖かいはずなのに、体の芯から這い上がってくるような、奇妙な寒気が消えなかった。
私は、窓辺に立った。外は、音もなく雪が降り続いている。中庭を挟んだ向こう側、西の棟にある彼の執務室には、まだ明かりが灯っていた。彼は、今頃、一人で何を考えているのだろう。
昼間、私たちは完璧なパートナーだった。言葉を交わさずとも互いの意図を理解し、一つの目的のために、息の合った連携を見せた。けれど、夜になれば、こうして別々の棟にある、遠く離れた部屋へと戻る。その距離が、昼間の親密さとの落差で、私の胸を締め付けた。
このままではいけない。
この、曖昧で、不安定な関係のままでは。
グライフェン伯爵という「王の目」は、私たちの関係を値踏みしている。私たちが、このアレスティード公爵領にとって、そして王国にとって、安定した存在であるかどうかを。もし、私たちがここで答えを出せなければ、私たちの個人的な問題は、やがて領地全体の不安定要因と見なされるだろう。
私が提示した契約改定案を、彼は無視した。そして、彼は私に問うた。「何のためだ」と。
あの問いに、私は答えられなかった。けれど、今なら、少しだけ、分かりかけている。私が求めているのは、条文で保証された安全な距離ではない。もっと、不確かで、危険で、けれど、温かい何かだ。
私は、衝動的に部屋の扉へ向かっていた。何を言うべきか、言葉はまとまっていない。けれど、今、彼と話さなければ、私たちは、永遠にこの冷たい壁を隔てたままになってしまう。そんな確信だけが、私を突き動かしていた。
廊下は、しんと静まり返っている。私は、足音を忍ばせ、西の棟へと向かった。心臓が、自分のものとは思えないほど、大きく、速く脈打っていた。
彼の執務室の前に立ち、一度だけ、深く呼吸をする。冷たい空気が、肺を満たした。私は、震える指で、重厚な扉を、三度、ノックした。
「……入れ」
中から聞こえたのは、静かで、少しだけ疲労の滲んだ声だった。私は、意を決して、扉を開ける。
彼は、大きな机に向かい、書類に目を通していた。私が部屋に入ってきたことに気づくと、彼は静かに顔を上げた。その表情に、驚きはなかった。まるで、私が来ることを、予期していたかのように。
「どうした。何かあったのか」
「……いいえ。何も」
私は、部屋の中ほどまで進み出ると、彼の、全てを見透かすような瞳を、まっすぐに見つめ返した。もう、取り繕うのはやめよう。完璧な公爵夫人を演じるのは、もう、終わりだ。
「お伺いしたいことがあります。閣下」
私の声は、自分でも驚くほど、落ち着いて響いた。
「なぜ、あなたは、ためらうのですか」
彼は、眉一つ動かさない。
「何の話だ」
「全てですわ。王家からの通達に対し、明確な返答をなさらないこと。私が提示した契約の改定案を、無視なさること。あなたは、このまま、この曖昧な関係を、ただ時間切れになるまで、続けるおつもりなのですか」
一気に、言葉が溢れ出す。それは、論理的な問いかけではなかった。私の、魂からの、叫びに近かった。
「私たちは、このままではいけません。グライフェン伯爵は、見ています。私たちの関係が、この領地の未来を左右するのだと、あなたも、お分かりのはずです」
彼は、ペンを置いた。そして、椅子の背もたれに、深く、体を預ける。その視線は、私から外れることはない。長い、沈黙が、部屋を支配した。暖炉の薪が、ぱちり、と音を立てる。
やがて、彼は、静かに口を開いた。
「君の問いに答えるには、少し、昔の話をする必要がある」
その声は、ひどく平坦で、感情の色を一切、含んでいなかった。
「私の父、先代のアレスティード公爵を、君は知らないな」
「はい。お噂では、領民に深く慕われた、慈悲深い方だったと」
「その通りだ」
彼は、短く肯定した。
「父は、情に厚い男だった。人を信じ、人を愛し、常に、人の善性を信じていた。彼の周りには、いつも人が集まり、屋敷は笑い声と温かい空気に満ちていた。誰もが、父を『太陽のような方だ』と讃えた」
彼の語り口は、まるで、歴史書の一節を読み上げているかのように、淡々としていた。
「だが、その『温かさ』が、この領地を、滅ぼしかけた」
私は、息を呑んだ。
「父が、最も信頼していた側近がいた。父とは幼馴染で、兄弟同然に育った男だ。父は、領地の内政のほとんどを、その男に任せていた。全幅の信頼を置いていたからだ」
彼の視線が、ふと、窓の外の暗闇へと向けられる。
「その男は、裏切った。己の私欲のために、隣国と密約を交わし、この領地の生命線である、北壁山脈の魔鉱石の採掘権を、密かに売り渡そうとしていた」
信じられない話だった。それは、国家に対する、明白な反逆行為だ。
「陰謀が発覚したのは、偶然だった。国境付近で起きた、小さな小競り合いを調査する過程で、証拠が見つかった。だが、その時には、すでに手遅れに近かった。国境には、採掘権の履行を口実にした、隣国の軍が集結しつつあった。領内では、側近に与する貴族たちが、不穏な動きを見せ始めていた。領地は、内外から、分裂の危機に瀕していた」
彼の声は、変わらず、静かだった。けれど、その言葉が描く光景は、あまりにも、凄惨だった。
「父は、信じていた者に裏切られた衝撃で、心を病んだ。太陽は、輝きを失い、ただ、自室に閉じこもるだけになった。統治能力は、完全に失われた」
彼は、そこで、一度、言葉を切った。そして、再び、私に視線を戻す。その瞳の奥に、今まで見たことのない、深く、暗い色が、揺らめいていた。
「その時、私は、まだ十六だった」
私の心臓が、冷たく、締め付けられる。
「私が、全てを、引き受けた。父に代わり、私が、公爵代理として、指揮を執った。まず、裏切った側近とその一派を、捕らえ、尋問し、処刑した。父が、かつて『友よ』と呼んだ者たちを、私の命令で、断頭台へ送った。次に、隣国との交渉に臨んだ。軍事衝突も辞さないという、強い姿勢を示すことで、相手を牽制し、薄氷の上で、和平協定を結んだ。そのために、私は、父が築き上げてきた、隣国との友好関係の全てを、破壊した」
彼は、まるで、他人事のように、自分の過去を語る。けれど、その言葉の一つ一つが、どれほどの血と、涙と、孤独にまみれていたのか。私には、想像することしかできない。
「領地は、守られた。だが、その代償は、大きかった。屋敷から、笑い声は消えた。父を慕っていた者たちは、私を『血も涙もない、父とは似ても似つかぬ息子』だと恐れ、離れていった。私は、父が築いた『温かい関係』の全てを、この手で、壊すことによって、この領地を守ったのだ」
彼は、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。そして、静かに燃える暖炉の前まで歩いていく。その背中は、彼が背負ってきたものの重さを、雄弁に物語っていた。
「私は、この経験から、一つの、揺るぎない結論を得た」
彼は、暖炉の、赤い炎を見つめながら、言った。その声は、静かだったが、絶対的な、確信に満ちていた。
「温かい感情は、判断を鈍らせる。信頼は、裏切りの温床となる。そして、要塞の壁は、いつだって、温もりによって、内側から、崩れるのだ」
彼は、ゆっくりと、私の方へ、向き直った。その顔に、表情はなかった。けれど、その瞳は、痛々しいほど、真摯だった。
「レティシア。このアレスティード公爵領は、王国の北を守る、最後の要塞だ。私は、その城主として、この壁を、内側から侵食する可能性のあるものを、全て、排除する義務がある」
彼の言葉は、雷のように、私の心を貫いた。
そういうことだったのか。
彼がためらっていたのは、私個人を、拒絶していたからではない。彼が恐れていたのは、私との間に芽生え始めた、名前のない、温かい何か。それそのものが、彼が十六歳の時から、たった一人で守り続けてきた、この領地という名の要塞を、脅かす、最大の危険因子だと、彼は、信じているのだ。
それは、彼が、その半生をかけて築き上げた、揺るぎない、統治の哲学だった。