第104話 聖域
グライフェン伯爵、通称「王の目」がアレスティード公爵邸に滞在を始めて、私とアレスティード閣下は、完璧な「理想の公爵夫妻」を演じきっていた。
昼間は、伯爵の視察に同行する。今日は、辺境の兵士たちのために開発した携帯食の生産ラインが稼働している、兵舎の調理施設を案内した。
「素晴らしい。実に合理的で、無駄がない」
整然と並んだ乾燥棚と、衛生管理の行き届いた作業台を見回し、伯爵は感心したように頷いた。
「この仕組みを考案されたのは、やはり奥様で?」
穏やかな笑みで、しかし探るような視線が私に向けられる。私は、練習通りに、少しだけはにかんでみせた。
「いいえ、とんでもない。私はただ、厨房の者たちの知恵を拝借しただけですわ。この仕組みを、領全体の兵站システムとして組み込むという大きな視点をお持ちだったのは、全て閣下ですもの」
私がそう言って隣のアレスティード閣下を見上げると、彼は絶妙なタイミングで、私の言葉を引き取った。
「妻は謙遜しているが、現場の人間が持つ潜在能力を引き出し、組織として機能させる手腕は、私にはないものだ。彼女の視点なくして、この改革は成し得なかった」
彼は、ごく自然に、私の背中にそっと手を添える。その仕草は、妻を労い、誇りに思う夫、そのものだった。私たちは、視線を交わし、小さく微笑み合う。その全てが、グライフェン伯爵というたった一人の観客のために演じられる、完璧な芝居だった。
伯爵は、私たちのその様子に、満足そうに目を細めている。
緊張で、背中には汗が滲んでいた。けれど同時に、この難易度の高い任務を、アレスティード閣下と二人で、息を合わせて遂行していることに、奇妙な高揚感と、ある種の達成感を覚えていたのも、また事実だった。
私たちは、ただの契約相手ではない。共に領地を治める、パートナーなのだ。その事実を、この芝居が、皮肉にも証明しているようだった。
*
夜には、三人での夕食が待っている。
今日の食卓は、昼間の視察の延長線上にある、領地の未来についての議論の場となった。
「兵站が安定すれば、北の守りはより強固なものとなりましょう。ですが、それだけでは、人の心はここに留まりませぬな」
伯爵が、ワイングラスを傾けながら、静かに言う。それは、私たちへの新たな問いかけだった。
「ええ。伯爵の仰る通りです」
答えたのは、私だった。
「だからこそ、私たちは、領民が、冬でも温かい食事を囲めるような、小さな共同食堂の設立を計画しておりますの。体が温まれば、心も温まる。人の心が、この厳しい土地に根付いてこそ、本当の『守り』になると、わたくしは信じております」
「ほう。それは素晴らしいお考えだ」
伯爵の視線が、アレスティード閣下へと移る。彼は、私の言葉を肯定するように、静かに頷いた。
「彼女の言う通りだ。強固な城壁や、屈強な兵士だけでは、国は守れない。そこに住まう民の暮らしが豊かであってこそ、領地は盤石となる。それが、私のアレスティード家としての統治方針だ」
彼の言葉と、私の言葉が、ぴたりと重なる。まるで、ずっと前から、二人で話し合って決めていたかのように。実際には、こんな話をしたことは一度もない。けれど、私たちは、互いが何を考え、何を成そうとしているのかを、言葉にしなくとも理解していた。
その夜の夕食も、完璧な連携のうちに、幕を閉じた。
伯爵が自室へ退室し、ダイニングルームに二人きりになった時、私たちは、どちらからともなく、小さな安堵のため息を漏らした。
「今日も、無事に終わったな」
閣下が、低い声で言った。
「はい。閣下も、お疲れ様でございました」
事務的な、短い会話。けれど、その言葉の裏には、共に一つの仕事をやり遂げた者同士の、かすかな連帯感が滲んでいた。
「では、おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
私たちは、それぞれの私室へと向かうために、ダイニングルームの別々の扉へと歩き出す。彼が西棟へ、私が東棟へ。その、あまりにも当たり前の行為が、今日に限って、昼間の完璧な連携との、大きな断絶のように感じられた。
私は、彼が扉の向こうに消えるまで、その背中を、なぜか、ただじっと見つめていた。
*
東棟にある自分の私室に戻った瞬間、私は、張り詰めていた全身の筋肉が、一気に弛緩するのを感じた。侍女のフィーが、夜の支度を手伝ってくれる。その手際の良さに身を任せながら、私は、今日の出来事を反芻していた。
「奥様、本日の伯爵様とのご歓談、お見事でございました。侍女たちの間でも、奥様と閣下の息の合い方は、まるで長年連れ添われたご夫婦のようだと、もっぱらの噂でございます」
フィーが、嬉しそうに報告してくれる。私は、曖昧に微笑んで見せた。
「ありがとう、フィー。あなたも、もう休んでちょうだい」
「はい。では、おやすみなさいませ」
フィーが静かに退室し、部屋に一人きりになった時、本当の静寂と、そして、予期せぬ感情が、私を襲った。
広い、部屋だった。
天井は高く、壁には美しいタペストリーが飾られ、調度品はどれも一級品だ。暖炉の火は、ぱちぱちと音を立てて、部屋を暖めている。何もかもが完璧で、快適で、そして、安全な場所。
この部屋は、私がこの屋敷に来てからずっと、私の唯一の「聖域」だった。誰にも心を侵されず、ただ一人でいられる場所。実家という檻から逃れ、私が初めて手に入れた、自由の象徴。
なのに。
なぜだろう。今夜のこの部屋は、ひどく、がらんとして、寒々しく感じられた。
暖炉の火は、確かに温かい。けれど、部屋の空気そのものが、どこか冷たいのだ。物理的な温度ではない。もっと、体の芯に響くような、静かな冷たさ。
私は、テーブルの上に置かれていたハーブティーを一口飲んだ。いつもなら、その温かさが体に染み渡るはずなのに、今夜は、ひどくぬるく、味気なく感じた。
ふと、辺境の砦で過ごした夜のことを、思い出した。
あの部屋は、狭くて、寒くて、石造りの壁からは、隙間風が入ってきた。ベッドも硬く、決して快適とは言えなかった。
けれど、あの時は、これほどの孤独を感じなかった。
なぜなら、壁一枚隔てた隣の部屋には、アレスティード閣下がいたからだ。物音一つ聞こえなくても、そこに彼がいるという気配が、確かにあった。それが、不思議な安心感を与えてくれていたことに、私は、今更ながら、気づいた。
私は、ゆっくりと部屋の中を見回す。
この部屋は、私を守る城壁だったはずだ。契約によって保証された、誰にも踏み込ませない、安全な距離。私は、それを望んだはずだ。誰かのための「道具」でも、「妻」でもなく、一人の人間として、自立するために。
しかし、今は、どうだ。
この完璧に守られた聖域が、ただ、アレスティード閣下と私を隔てる、分厚く、冷たい壁にしか感じられない。
昼間、あれほど近くにあった彼の存在が、今は、この広い屋敷の、遠く離れた西の棟にある。その距離が、耐え難いほど、遠く感じられた。
契約によって保証された「安全な距離」は、いつの間にか、私にとって「耐え難い孤独」の同義語になっていた。
その事実に気づいた瞬間、私の心臓が、どきり、と大きく鳴った。
そして、心の奥底から、自分でも予期しなかった、あまりにも素直で、そして、あまりにも危険な願いが、湧き上がってくるのを、感じた。
この壁を、壊したい。
あの人のいる場所に、もっと、近くにいたい。
その、あまりにも純粋な欲求に、私は、愕然とした。
あってはならない感情だ。私は、何を考えているのだろう。私は、彼との間に、曖昧な感情を持ち込むべきではない。それは、私がこの場所で手に入れた、全てのものを、危うくする。自立した、一人の人間としての、私の尊厳さえも。
私は、自分の感情の、あまりの変わりように、混乱していた。
窓の外を見ると、いつの間にか、静かな雪が降り始めていた。
私は、窓辺に歩み寄り、遠くに見える西の棟に目を凝らす。彼がいるはずの部屋に、明かりは灯っていなかった。もう、眠りについたのだろうか。