第103話 王の目
アレスティード閣下に「何のためだ」と問われたあの夜から、私たちの間の空気は、気まずく、そして静かになった。
朝食の席についても、会話はない。以前は、私が献立の説明をしたり、彼が領地の報告を簡潔に述べたりと、事務的ではあっても確かな交流があった。だが今は、カトラリーが皿に触れる、硬く、乾いた音だけがダイニングルームに響いていた。
彼の問いに、私は答えられなかった。
なぜ、私たちは、これからも共にいるのか。
その答えを、私は持っていなかった。私が必死に考えた契約の改定案は、その根源的な問いの前では、あまりにも浅はかで、技術的な小細工に過ぎなかった。彼は、私が提示した羊皮紙に、あれから一度も触れていない。それはまるで、私の覚悟がその程度のものであることを見透かされているようで、顔を上げることもできなかった。
気まずい沈黙の中、私はただ、冷めていく紅茶を、意味もなくかき混ぜ続ける。このまま、私たちはどうなってしまうのだろう。答えを出せないまま、王家が定めた期限が来てしまったら。私たちの関係は、「破棄」という選択肢へ、自動的に流されていってしまうのだろうか。
その考えが頭をよぎった瞬間、背筋が凍るような心地がした。
その時だった。ダイニングルームの重厚な扉が、控えめにノックされた。
「閣下、奥様。お食事中に失礼いたします」
入ってきたのは、執事長のブランドンだった。その表情は、いつもと変わらず冷静沈着。だが、彼の纏う空気には、わずかな、しかし確実な緊張が滲んでいた。
「いかがした、ブランドン」
アレスティード閣下が、低い声で問う。
「は。先ほど、王都よりお客様が。現在、応接室にてお待ちです」
「王都から?アポイントはなかったはずだが」
「はい。それが…」
ブランドンは、そこで一度、言葉を区切った。そして、私たち二人を交互に見ると、静かに、しかしはっきりと告げた。
「監査院の、グライフェン伯爵がお一人で。…予告なしに」
グライフェン伯爵。
その名を聞いた瞬間、アレスティード閣下の動きが、ぴたりと止まった。私もまた、息を呑む。その名は、社交界の噂話にさえ、滅多に上らない。なぜなら、彼は、表舞台には決して立たない人物だからだ。
王の側近中の側近。国王が、その目で直接見ることのできないものを、代わりに見るための存在。誰もがその存在を知りながら、誰もその本当の仕事を知らない。宮廷では、彼は敬意と、それ以上の恐怖を込めて、こう呼ばれていた。
「王の目」と。
そんな大物が、なぜ、予告もなしに、こんな北の果てまで?
閣下は、ナプキンを静かにテーブルに置くと、私に視線を向けた。その瞳には、もはや、私たち二人の間の個人的な問題に対する逡巡の色はなかった。統治者としての、冷徹な光が宿っていた。
「レティシア。支度を」
「…はい」
短い言葉の応酬。それだけで、私たちは理解した。
これは、試されているのだ。
*
応接室の扉を開けると、そこにいたのは、意外なほど穏やかな印象の、初老の男性だった。白髪交じりの髪を丁寧に整え、高価だが華美ではない、仕立ての良いフロックコートを身につけている。ソファから立ち上がった彼は、柔和な笑みを浮かべ、私たちに深々と一礼した。
「これは、アレスティード公爵閣下、並びに公爵夫人。突然の訪問、まことに失礼いたします。監査院のグライフェンです」
「遠路ご苦労だった、伯爵。急なご訪問だが、王都で何かあったのか」
アレスティード閣下は、一切の動揺を見せず、彼をソファに座るよう促す。私もまた、練習してきた完璧な淑女の笑みを顔に貼り付け、彼の隣に腰を下ろした。侍女が、音もなく入ってきて、温かい紅茶の準備を始める。
「いえいえ、何もございません。全ては、平穏無事でございますよ」
グライフェン伯爵は、にこやかに手を振った。
「ただ、先日の辺境視察のご報告書、陛下も大変興味深く拝見されましてな。あまりに見事な内容でしたので、この老いぼれの目で、直接その成果を拝見し、お二人のご労苦を労いたいと、ただそれだけで馳せ参じた次第です」
その言葉は、どこまでも丁寧で、賞賛に満ちていた。けれど、私は、その言葉の裏にある、冷たい刃のようなものを感じずにはいられなかった。
彼は、私たちの報告書を読んだ。私と閣下が、二人で作り上げた、あの報告書を。
「恐れ入ります。ですが、あれは閣下のご指導の賜物。私は、ただお手伝いをさせていただいただけですわ」
私は、完璧な妻の返答を口にする。出過ぎず、しかし夫を立てる、慎み深い妻。
「はっはっは。ご謙遜を。報告書からは、お二人がまるで一人の人間であるかのような、見事な連携ぶりが、手に取るように分かりましたぞ」
伯爵は、楽しそうに笑った。そして、彼は、湯気の立つ紅茶のカップを手に取ると、その香りを楽しみ、一口、ゆっくりと味わった。
沈黙が、落ちる。
その沈黙は、彼が、私たちの次の言葉を、待っていることを示していた。
彼は、続けた。その目は、穏やかに細められたまま、しかし、その奥の光は、少しも笑ってはいなかった。
「まるで、長年連れ添った、本当の夫婦のようだ、と。陛下も、そう仰せでした」
心臓が、大きく、一度だけ、跳ねた。
来た。
これこそが、彼の本題だ。賞賛の形をした、最も鋭い、尋問。
私たちの関係は、王家公認の「暫定契約」のはずだ。それを知っているはずの彼が、あえて「本当の夫婦」という言葉を使う。それは、踏み絵だ。ここで私たちが、「いいえ、私たちは契約関係です」などと口にすれば、それは王家に対して「私たちの関係は、報告書にあるような強固なものではなく、あくまでビジネスです」と宣言するようなもの。辺境での成果も、全てが色褪せて見えてしまうだろう。
かといって、安易に肯定すれば、なぜ正式な婚姻を結ばないのか、という次の問いが待っている。どちらに転んでも、私たちの矛盾を暴くための、完璧な罠だった。
背中に、冷たい汗が流れるのを感じる。けれど、私の顔は、完璧な笑みを保ち続けていた。
「まあ、伯爵様ったら。お上手ですこと」
私は、扇を広げ、口元を隠す。わずかに頬を染め、恥じらう新妻を演じながら。
「わたくしたちは、まだ結婚して一年ばかりの未熟者ですのに。ですが、閣下が一心に領地と領民のことをお考えになるお姿を、一番近くで拝見しておりますと、わたくしも、自然と、同じ気持ちになりますの」
完璧な答えだ、と自分では思った。肯定も否定もせず、ただ、夫への敬愛と、公爵夫人としての責任感を表明する。これ以上、彼が踏み込んでくる隙はないはずだ。
その時、それまで沈黙を守っていたアレスティード閣下が、静かに口を開いた。
「伯爵。妻は、私が思う以上に、この北の地の気質に合っているようだ。彼女の存在なくして、辺境の成功はなかっただろう」
彼は、ごく自然に、私の肩に、そっと手を置いた。その手の、確かな重みと、温かさ。それは、私の言葉を裏書きし、補強するための、完璧な夫の振る舞いだった。私たちは、言葉を交わさずとも、この見えざる尋問を乗り切るための、共犯者になっていた。
グライフェン伯爵は、私たちのその様子を、満足そうに、しかし、値踏みするような目で見つめている。
「いやはや、素晴らしい。実に、素晴らしいご関係だ」
彼は、カップをソーサーに戻すと、ぱん、と軽く膝を打った。
「つきましては、公爵閣下。よろしければ、この数日、こちらに滞在させていただき、報告書にあった、兵舎の新しい携帯食の生産ラインや、現地民との交易の様子などを、この目で直接、視察させていただいても、よろしいですかな?」
その提案に、私は、笑顔の下で、唇を噛み締めた。
数日間、滞在する。
それはつまり、私たちが、この「理想の公爵夫妻」という仮面を、この老獪な監査官が帰るまで、四六時中、被り続けなければならない、ということを意味していた。
「もちろん、歓迎いたしますわ」
私の口は、私の意思とは関係なく、完璧な公爵夫人の台詞を、自動的に紡ぎ出していた。
「ええ。閣下も、きっとお喜びになりますわよね?」
私は、隣に座る夫に、甘えるように、微笑みかける。
「ああ。もちろんだ」
アレスティード閣下もまた、完璧な夫の顔で、短く、答えた。
グライフェン伯爵は、私たちの返事に、心の底から満足したように、深く、頷いた。
その日の午後、客室へ案内された伯爵が応接室から去り、部屋に二人きりになった瞬間、私は、張り詰めていた糸が切れたように、ソファの背もたれに、深く、体を沈めた。
どっと、疲労が押し寄せる。笑顔を作り続けた頬が、ひきつっていた。
「……どうしましょう、閣下」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く、震えていた。
「私たちの問題は、もはや、私たち二人だけの、私的な問題ではなくなりましたわ」
契約を更新するのか、破棄するのか。そんな個人的な感傷に浸っている猶予は、もう、ない。私たちの選択は、このアレスティード公爵家の、そして、この北の領地全体の未来を左右する、極めて高度な、政治問題へと、発展してしまったのだ。
アレスティード閣下は、何も言わなかった。ただ、窓の外、どこまでも広がる、灰色の冬空を、静かに見つめている。その横顔は、これまで以上に、統治者としての、厳しい覚悟に満ちていた。