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第102話 条文に書けないこと

 あの夜から、私たちは互いにその話題を避けていた。

 王都からの書簡は、アレスティード閣下の書斎の机の、一番目立たない隅に置かれている。まるで、そこに存在しないかのように。けれど、その存在感は無視するにはあまりに大きく、重く、そして冷たかった。屋敷の空気は何も変わらない。使用人たちはいつも通りに働き、食事は温かく、暖炉の火は穏やかに燃えている。しかし、私と閣下の間には、一枚の薄くて硬い氷の膜が張られたようだった。

 このままではいけない。

 問題を先送りにするのは、前世で最も嫌っていた働き方だ。曖昧な状況は、必ず最悪の形で綻びる。私は、私自身の立場と、この温かい場所を守るために、行動しなければならなかった。

 私は一晩かけて、書斎に籠った。ペンとインク、そして上質な羊皮紙を前に、私が作り上げたのは、ラブレターでも、感傷的な手記でもない。「暫定婚姻契約・改定案」と題した、ビジネス文書そのものだった。

 前世の記憶が、こういう時だけは役に立つ。感情を排し、現状を分析し、リスクを洗い出し、双方にとって利益のある着地点を探る。私は、この一年で変化した私たちの関係性を、一つ一つ、冷静に条文へと落とし込んでいった。


 第一条:共同の朝食。週に二回、曜日を固定して実施する。これにより、定例的な情報共有の場を確保する。

 第二条:公務への同行。辺境視察のような長期的なものを除き、領都内での公務に関しては、その都度、必要性を協議の上で決定する。

 第三条:緊急時の連絡系統。互いの私室への立ち入りは原則として禁止するが、領地の安寧に関わる緊急事態が発生した場合は、この限りではない。

 ……

 完璧だ、と自分に言い聞かせた。

 私たちの関係は、普通の夫婦とは違う。始まりが契約である以上、その関係性もまた、より明確なルールによって定義されるべきなのだ。曖昧な期待や、言葉にされない好意に寄りかかってはならない。それは、いつか必ず崩れる砂上の楼閣だ。私がこの手で築き上げてきた、この屋敷での居場所と尊厳を守るためには、これしかない。

 これは、臆病なのではない。現実的なのだ。そう、何度も、何度も、自分に言い聞かせた。


 翌日の夜、私は完成した提案書を手に、アレスティード閣下の書斎の扉を叩いた。

「閣下、今、お時間をいただけますでしょうか」

「入れ」

 短い許可を得て、中へ入る。重厚なマホガニーの机、壁一面の本棚、そして静かに燃える暖炉の火。この部屋の空気は、いつも私を少しだけ緊張させる。

 彼は、私が手にしている羊皮紙の束に気づいているはずなのに、何も言わず、ただ椅子に座るよう、目で促した。

 私たちは、大きな机を挟んで、向かい合う。テーブルの上には、一年前、私たちがサインを交わした、古い契約書が、まるで今日のこの時を待っていたかのように、広げられていた。

 私は、深呼吸を一つして、努めて事務的な声で切り出した。

「王都からの書簡の件です。私なりに、今後の私たちの関係性について、建設的な提案をまとめてまいりました」

 私は、自分が作った改定案を、彼の前に、そっと差し出す。完璧な業務報告をする時のように、背筋を伸ばして。

「この一年で、私たちの状況は大きく変わりました。辺境での経験も踏まえ、より現実に即した形での契約更新が、双方にとって有益かと存じます。主な変更点は三つ…」

 私が、淀みなく説明を始めようとした、その時だった。

 アレスティード閣下は、私が差し出した、真新しい提案書に、一瞥もくれなかった。

 彼の視線は、ただ一点。テーブルの上に広げられた、古びた、一年前に作られた契約書に、注がれていた。

 その沈黙が、私の言葉を遮る。用意してきた完璧なプレゼンテーションが、宙に浮いて、行き場を失う。彼の無言の圧力が、私が必死に築き上げた、冷静さという名の鎧に、少しずつ、ひびを入れていく。

 なぜ、見てくださらないのだろう。これこそが、私たちが進むべき、最も合理的で、安全な道のはずなのに。

 焦りが、胸の内で小さな棘のように、ちくりと痛んだ。

 やがて、彼は、ゆっくりと顔を上げた。その深い色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。そして、彼は、私の提案書には一切触れず、古い契約書を、長い指で、とん、と軽く叩いた。

「レティシア」

 静かな、低い声だった。

「この契約書の条文は、もう、一つも機能していない」

 その言葉は、私の思考を、一瞬で停止させた。

 彼は、続けた。その声は、責めているわけではない。ただ、冷徹な事実を、一つ一つ、確認するように。

「第一項、『互いの私生活に干渉しないこと』。我々は辺境で、数週間にわたり、寝食を共にした。君は私の食事を管理し、私は君の安全を管理した。これは、干渉ではないのか?」

「それは、公務の一環で…」

「第二項、『公務への同行は、必要性が認められる場合のみとする』。君が不在だった間、兵舎の献立の質は、明らかに低下した。領民向けの炊き出し計画も、停滞した。君の存在は、もはや『必要時のみ』ではない。私の統治に、恒常的に、不可欠な要素だ」

 反論の言葉が、見つからない。彼が口にしているのは、紛れもない事実だったからだ。

「そして、第三項…」

 彼は、そこで、一度、言葉を切った。そのわずかな間が、書斎の空気を、さらに重くする。

「『子は作らないこと』。…この条項は、今も有効だ。だが、先の二つが、これほどまでに現実と乖離している以上、この条項だけが、我々の関係性の本質だと、本当に言えるのか?」

 私は、息を呑んだ。彼の言葉は、私が必死に組み立てた論理の、土台そのものを、揺さぶっていた。

 彼は、私から視線を外すと、再び、古い契約書へと目を落とした。

「我々の現実は、この紙の上に書かれたことと、全く違う」

 そして、彼は、もう一度、私を見た。その瞳の奥に、今まで見たことのないような、真剣な光が宿っていた。それは、統治者としての光でも、冷たい主としての光でもない。一人の男が、一人の女の、魂の奥底を覗き込もうとするような、静かで、激しい光だった。

「ならば問う」

 彼の声が、静まり返った書斎に、響き渡る。

「我々が、今、新たに結ぶべき契約とは、一体、何のためだ?」

 頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。

 何のため?

 考えたこともなかった。私は、どうやって関係を続けるかばかりを考えていた。どうすれば、今の安定を失わずに済むか。どうすれば、傷つかずに済むか。

 けれど、彼が問うているのは、そこではなかった。

 なぜ、私たちは、これからも、共にいるのか。

 その、あまりにも根源的で、あまりにも単純な問いに、私の、完璧なはずだった論理の壁は、内側から、音を立てて、崩れ落ちていった。

 私は、何も答えられない。

 返すべき言葉が、見つからない。

 書斎には、暖炉の薪が、ぱちり、と静かにはぜる音だけが響いていた。私は、ただ、目の前の男の、全てを見透かすような静かな瞳を、見つめ返すことしかできなかった。

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