第101話 王印の押された紙
長い遠征からアレスティード公爵邸の門をくぐり、「ただいま」と口にした時、それがこれほど自然に響くとは思わなかった。
出迎えてくれた執事長のブランドン、侍女長のフィー、そして並んで頭を下げる使用人たちの顔には、安堵だけではない、確かな誇りのような色が浮かんでいた。彼らはもう、私を「契約でやってきた仮初めの奥様」だとは見ていない。この家を、この領地を、共に良くしていくための仲間だと認めてくれている。その空気が、何より温かかった。
「奥様、ご無事で何よりでございます。長旅でお疲れでしょう。すぐに湯浴みのご用意を」
「ありがとう、フィー。でもその前に、厨房に顔を出してもいいかしら。みんなにも挨拶がしたいわ」
私の言葉に、フィーは一瞬驚いたように目を見開いて、それから嬉しそうに破顔した。
「もちろんです!みんな、首を長くして待っておりましたから」
厨房へ向かうと、そこは私が不在だった間も、活気と規律を保っていた。新しく導入した衛生管理の手順は守られ、食材の在庫管理表もきちんと更新されている。辺境へ発つ前に私が残した課題を、彼らは彼らの力で完璧にこなしていたのだ。
「奥様!お帰りなさいませ!」
料理人のゲルトが、小麦粉をつけた手のまま、深々と頭を下げた。他の者たちも、次々と私に笑顔を向けてくれる。
「みんな、留守をありがとう。何も問題はなかったかしら」
「はい!奥様が作ってくださった献立の基本計画のおかげで、滞りなく。それと…これを」
ゲルトが差し出したのは、乾パンを改良した、ナッツと干し肉入りの焼き菓子だった。
「辺境は寒いと伺いましたので。兵舎の者たちと相談して、試作してみたんです。まだ改良の余地はありますが…」
一口食べると、素朴だが栄養価の高い、心のこもった味がした。私が彼らに与えたのは「技術」だったはずだ。けれど、彼らはそれを自分たちのものとして発展させ、今度は私を気遣ってくれている。胸の奥が、じんと熱くなった。
「とても、おいしいわ。ありがとう、ゲルト。みんなも」
私が作りたかったのは、こういう場所だったのだ。誰か一人が与え続けるのではなく、誰もが自分の持ち場で力を発揮し、互いを支え合う場所。この屋敷は、本当の意味で、私の「家」になりつつあった。
*
その夜、アレスティード閣下と二人きりで囲む食卓は、驚くほど静かで、穏やかだった。
メニューは、私が辺境で考案した、干し肉と根菜の煮込み。決して豪華ではないけれど、冷えた体を芯から温めてくれる、今の私たちにふさわしい一皿だ。
彼は、いつものように黙々と食事を進める。けれど、その姿に以前のような近寄りがたい空気はない。長い旅路で、私たちは多くの言葉を交わしたわけではなかった。雪崩の夜も、砦で兵士たちと対峙した時も、現地民の族長と盟約を結んだ時も。彼はただ、私の隣に立ち、私を信じ、そして統治者として、彼が下すべき決断を下した。
それだけで、十分だった。
私たちは、上司と部下でも、仮初めの夫婦でもない。共にこの領地を背負う、対等なパートナーなのだと、言葉にしなくとも理解できていた。
「……おかわりを」
彼が空になった皿を差し出す。その声が、以前よりも少しだけ、柔らかく聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。
私が新しい皿を手に席を立った、その時だった。執務室の扉が、控えめにノックされた。
「閣下、奥様。お食事中に失礼いたします」
入ってきたのは、執事長のブランドンだった。その手には、銀の盆。そして、その上には一通の、分厚い羊皮紙でできた封書が載せられていた。
「王都より、公式の親展書簡が、たった今、速達の魔導便で」
ブランドンの声は、いつもと変わらない。あくまで事務的で、冷静だ。けれど、そのことが逆に、その書簡が持つ尋常ではない重みを、私たちに伝えていた。
アレスティード閣下が、ナプキンで口元を拭い、席を立つ。彼がブランドンから書簡を受け取り、その封蝋を確かめる。深紅の蝋に刻まれているのは、まぎれもなく、この国を統べる王家の紋章だった。
「下がっていい」
閣下の短い言葉に、ブランドンは一礼して、静かに部屋を出て行った。
部屋には、暖炉の薪がはぜる音と、私たちの沈黙だけが残される。
閣下は、書簡の封を切ると、中の羊皮紙を広げ、そこに視線を落とした。私は、ただ、彼の表情を見つめることしかできない。彼の顔は、いつも通り、ほとんど感情の色を浮かべてはいなかった。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ、冬の湖面のような、硬い光が走ったのを、私は見逃さなかった。
やがて彼は、その羊皮紙を丁寧に折り畳むと、それを私の方へ、静かに差し出した。
「君にも、関係がある」
その声は、ひどく平坦に聞こえた。
私は、恐る恐る、その羊皮紙を受け取る。ごわごわとした、冷たい感触。インクのかすかな匂い。そこに記されていたのは、貴族特有の回りくどい時候の挨拶と、辺境視察の成功を称える言葉。そして、その最後の一節に、私の目は釘付けになった。
『――ついては、貴殿ら両名の暫定婚姻契約が、来たる月の満ちる日を以て、一年間の満了期間を迎える。契約の更新、あるいは破棄、もしくは、正式な婚姻関係への移行、いずれかの意思を、王家の名の下、速やかに書面にて報告されたし』
血の気が引く、という紋切り型の表現では足りなかった。
体の芯から、全ての熱が、すうっと奪われていくような感覚。指先から、ゆっくりと凍りついていく。
契約。
そうだ、忘れていた。忘れるほどに、この場所は、温かかった。
私と彼を繋ぐものは、辺境で築いた信頼でも、この屋敷に満ちる穏やかな空気でもない。始まりは、この一枚の紙だった。私が自由を得るために、彼が世間の目をごまかすために、互いの利害のために結んだ、冷たい、約束。
辺境での共闘も、兵士たちの笑顔も、ゲルトが焼いてくれた焼き菓子も、全てが、この「暫定」という、脆い氷の上に築かれた城だったのだ。
更新か、破棄か、正式な婚姻か。
王家は、選択肢を与えているように見せかけて、私たちに踏み絵を迫っている。この関係を、どう定義するのか、と。
かつて、この契約は、私を実家という地獄から救い出してくれた、自由の翼だった。けれど、今、この手の中にある羊皮紙は、私の存在そのものを、再び「仮のもの」へと引き戻す、冷たい檻にしか思えなかった。
私は、顔を上げることができない。隣に立つ彼の気配が、ひどく遠いものに感じられた。
何を、言えばいいのだろう。
何を、言うべきなのだろう。
私は、返事もできずに、ただそこに立ち尽くす。指の中で、王印の押された紙が、ごわごわとした冷たい感触を、いつまでも伝えていた。