第100話 ただいま
車輪が、規則正しく刻んでいた硬質な音から、柔らかく、聞き慣れた砂利を踏む音へと変わった時、私は、自分が無意識に体の力をこわばらせていたことに気づいた。
ゆっくりと目を開けると、馬車の窓の外を流れる景色は、灰色山脈の、人を寄せ付けない荒々しい岩肌から、手入れの行き届いた、穏やかな緑の並木道へと、すっかり姿を変えていた。
見慣れた、公爵領の風景。
長い、本当に長い旅だった。
辺境の砦で過ごした一月は、これまでの人生の、どの時間よりも濃密で、そして、過酷だった。
雪崩の恐怖。歓迎されざる者の孤独。理想だけでは救えない、命の重さ。
私は、自分の無力さを、何度も思い知らされた。
けれど、同時に、学んだことも、たくさんあった。
温かい食事は、それだけでは、人を救えない。
だが、共に食卓を作り、囲むという行為が、凍てついた心と心を繋ぎ、明日へ向かう力を生み出す、最初のきっかけには、なり得るのだと。
並木道の向こうに、公爵邸の、灰色の尖塔が見えてきた。
ああ、帰ってきた。
その、あまりにも単純な思いが、疲弊した私の心の底から、じんわりと、湧き上がってくる。
隣に座るアレスに、視線を移す。
彼は、私と同じように、窓の外に広がる屋敷の姿を、静かに見つめていた。
その横顔は、いつもと変わらず、表情というものを、まるで、どこかに置き忘れてきたかのように、静謐だ。
けれど、私は、もう、知っている。
その、氷の仮面の下にある、彼の本当の姿を。
彼が、王都へ送った報告書に、私の名前を、彼の隣に、並べて記してくれた、あの瞬間のことを、私は、生涯、忘れないだろう。
やがて、馬車は、緩やかに速度を落とし、巨大な鉄の門をくぐり抜け、屋敷の正面玄関の前で、静かに、停止した。
ほとんど、間を置かずに、馬車の扉が、外から、恭しく開かれる。
そこに立っていたのは、執事長のブランドンだった。
彼は、まず、アレスに、そして、私に、深く、頭を下げた。
「お帰りなさいませ、アレスティード閣下。そして、奥様。ご無事のご帰還、心より、お待ち申し上げておりました」
その声の響きが、以前とは、明らかに、違っていた。
かつて、私を、値踏みするように見ていた、あの、厳格な査定官の響きではない。
長い旅路を終えた主を、心から労い、迎える、家族の響きだった。
私が、アレスに続いて、馬車から降り立つと、そこには、屋敷の主だった使用人たちが、ずらりと、整列して、私たちを、出迎えていた。
侍女長のフィー。料理長のゲルト。そして、アンナをはじめとする、侍女や、厨房の料理人たち。
彼らの顔には、安堵と、そして、私が、これまで、彼らの中に見ることのなかった、ある種の、深い誇りのような色が、浮かんでいた。
「お帰りなさいませ、奥様!」
誰からともなく、上がったその声は、儀礼的な挨拶ではなかった。
自分たちの代表が、大きな仕事を成し遂げて、帰ってきた。
その偉業を、自分たちのことのように、喜び、誇る、温かい、歓迎の声だった。
私は、その声に、ただ、胸がいっぱいになって、頷くことしか、できなかった。
屋敷の中に、一歩、足を踏み入れる。
しん、と静まり返っていた、かつての、この場所の空気とは、全く違う。
磨き上げられた床も、壁にかけられた絵画も、何もかもが、同じはずなのに、屋敷全体が、まるで、呼吸をしているかのように、温かい生命感に、満ちていた。
遠くの厨房から、調理の音が、かすかに聞こえてくる。
侍女たちが、廊下を、小気味よい足音で、行き交う気配がする。
私が、この屋敷を留守にしている間も、私が作り上げた「仕組み」は、彼らの手によって、滞りなく、そして、自律的に、動き続けていたのだ。
ブランドンが、私たちの後ろを、静かに歩きながら、報告する。
「奥様がお作りになった、献立の周期表と、食材の在庫管理システムは、完璧に機能しておりました。この一月、食材の廃棄は、ただの一度も、出ておりません」
その言葉は、淡々としていたが、彼の声には、確かな、賞賛の色が、滲んでいた。
私は、この屋敷の、本当の、一員になれたのだ。
ただ、契約によって、ここにいるだけの、お飾りの妻ではなく、この家を、動かす、歯車の一つとして、確かに、認められたのだ。
その実感が、旅の疲れを、ゆっくりと、溶かしていくようだった。
*
その夜の、夕食は、アレスと、二人きりだった。
場所は、いつも使っている、だだっ広い大食堂ではなく、彼の執務室の隣にある、小さな、プライベートなダイニングルーム。
円形の、小さなテーブルの上には、温かい光を放つ、燭台が一つだけ。
テーブルセッティングも、公式な晩餐会のような、堅苦しいものではなく、シンプルで、どこか、家庭的な、温かみのあるものだった。
フィーが、私たちの前に、今夜のメインディッシュを、運んできた。
それは、私が、辺境の砦で、現地民に教わったハーブと、砦で生産した干し肉を使って、考案した、素朴な煮込み料理だった。
豪華な食材は、何一つ、使っていない。
だが、この一皿には、この一月で、私たちが、学び、築き上げてきた、全ての知恵と、経験が、詰まっている。
土鍋の蓋を開けると、湯気と共に、食欲をそそる、豊かな香りが、ふわりと、立ち上った。
私たちは、言葉を交わすことなく、食事を始めた。
静かな部屋に、カトラリーが、皿に触れる、かすかな音だけが、響く。
それは、かつて、私たちが、初めて、この屋敷で、食卓を共にした時の、あの、息が詰まるような、気まずい沈黙ではなかった。
多くのことを、共に、乗り越えてきた者だけが、分かち合える、穏やかで、満たされた、心地の良い、沈黙だった。
しばらくして、アレスが、ふと、ナイフとフォークを、皿の上に置いた。
そして、彼は、まっすぐに、私を見つめた。
その、深い、夜の湖のような瞳に、私は、自分の姿が、映っているのを、見た。
「レティシア」
彼が、私の名前を、呼んだ。
「君は、この屋敷だけでなく、この領地の、本当の心臓になった」
その言葉は、あまりにも、静かで、そして、あまりにも、まっすぐだった。
私の心臓が、とくん、と、大きく、跳ねた。
かつての私なら、きっと、慌てて、その言葉を、否定していただろう。
「そんな、滅相もございません」と、いい子の仮面を貼り付けて、謙遜という名の、壁を作っていたに、違いない。
だが、今の私は、もう、違う。
私は、彼の言葉を、否定も、肯定もせず、ただ、静かに、受け止めた。
その、あまりにも、大きな言葉の、本当の意味を、自分の心の中で、ゆっくりと、噛みしめるように。
そして、私は、彼に、視線を返した。
声には、出さない。
ただ、心の中で、静かに、答える。
(いいえ、閣下。私だけでは、ありません)
目の前の、この、不器用で、誰よりも、誠実な、氷の公爵。
彼の、絶対的な信頼と、揺るぎない、支えがなければ、私は、何一つ、成し遂げることは、できなかった。
(私たち、が、ですわ)
その思いが、彼に、伝わったのかどうかは、分からない。
だが、彼の瞳の奥に、ほんの、かすかに、柔らかな光が、灯ったように、見えた。
私たちは、再び、静かに、食事を再開した。
外は、北国特有の、厳しい冬の風が、窓を、叩いている。
けれど、この、小さな食卓の周りだけは、決して、揺らぐことのない、確かな温かさに、満ちていた。
長い旅は、終わった。
そして、私は、本当の意味で、自分の家に、帰ってきたのだ。
窓ガラスに映る自分の顔は、もう、あの頃の、作り笑顔を貼り付けた、哀れな少女ではなかった。
少し、疲れていて、けれど、その瞳の奥には、確かな光を宿した、一人の、女性の顔が、そこにあった。