第99話 王都への報告書
辺境の砦に、出発の朝が来た。
私たちがこの地に到着してから、一月が経とうとしている。
中庭に整列した兵士たちの顔つきは、私たちが最初に見た時とは、まるで別人のようだった。濁っていた瞳には、明確な目的意識の光が宿り、その背筋は、自らの仕事への誇りによって、まっすぐに伸びている。
彼らはもう、中央から見捨てられた、ただの駐屯兵ではない。この辺境の経済と安全保障を、自らの手で支える、生産者であり、守護者だった。
砦の門前には、小さな市場が立っていた。
現地民の男たちが、自分たちの狩った毛皮や、干し肉を運び込み、兵士たちが、それを公正な価格で買い取る。代わりに、兵士たちは、自分たちが生産した携帯食や、砦で修理した鉄製の農具を、彼らに売る。
かつて、互いを「蛮族」「略奪者」と呼び、警戒し合っていた二つの集団は、今や、対等な取引相手として、そこにいた。言葉はまだ、たどたどしい。だが、彼らの間で交わされる視線には、確かに、信頼の基礎が築かれつつあった。
私は、その光景を、砦の城壁の上から、静かに見下ろしていた。
私がしたことは、大したことではない。
ただ、ここにあるものの価値を、見つけ出し、繋ぎ合わせただけだ。
だが、その小さなきっかけが、これほどまでに、人々の顔を変える。世界の景色を、塗り替える。
その事実に、私は、静かな感動と、そして、身の引き締まるような、責任の重さを感じていた。
*
砦の執務室は、荷造りのための木箱が隅に積まれ、少し、雑然としていた。
アレスは、机に向かい、王都の中央政府へ提出する、今回の視察に関する公式な報告書を、作成していた。
その背中は、いつもと変わらず、静かで、威厳に満ちている。
私は、彼の向かいの椅子に座り、自分の手元にある羊皮紙の束を、最終確認していた。
それは、この一月で稼働させた、携帯食生産ラインの、詳細な収支報告書。そして、現地民との交易によって、砦にもたらされた、具体的な利益のリスト。
全てが、数字と、事実だけで、構成されている。
「レティシア」
不意に、アレスが、顔を上げずに、私を呼んだ。
「はい、閣下」
「君がまとめた、その記録の最終稿を、こちらへ」
私は、立ち上がると、羊皮紙の束を、彼の机の上に、静かに置いた。
彼は、それに、さっと目を通すと、満足そうに、一度だけ、頷いた。
そして、自分が書き進めていた報告書の草稿の、ある一文を、羽根ペンで、力強く、横線で消した。
私が、その消された文字を、目で追うと、そこには、『兵士の士気、著しく向上せり』と書かれていた。
「閣下、それは……」
「陳腐な言葉だ」
アレスは、私の疑問を、一言で、切り捨てた。
「これでは、君が、ここで、何を成し遂げたのか、その十分の一も、王都の連中には伝わらん」
彼は、私のまとめた収支報告書を、自分の草稿の隣に置いた。
「彼らが理解できるのは、精神論ではない。数字と、結果だけだ」
アレスは、新しい羊皮紙を取り出すと、驚くべき速さで、ペンを走らせ始めた。
私は、彼の向かいの席に戻り、その様子を、黙って見守っていた。
彼が書いているのは、もはや、通常の視察報告書ではなかった。
それは、一つの領地で、全く新しい統治システムを、ゼロから構築し、成功させた、極めて詳細な、事業報告書のようだった。
そこには、感傷的な言葉は、一切ない。
ただ、冷徹な事実と、その事実がもたらした、具体的な成果だけが、簡潔に、しかし、圧倒的な説得力を持って、記されていく。
やがて、アレスは、ペンを置くと、書き上げたばかりの報告書を、私の方へ、静かに、滑らせた。
「目を通せ。間違いがないか、確認してほしい」
私は、その羊皮紙を、手に取った。
そして、そこに記された内容を読み進めるうちに、私は、知らず、息を止めていた。
『辺境伯アレスティード公爵による、北境警備隊視察報告』
その、ありふれた表題の下に、記されていたのは、王都の貴族たちが、これまで、一度も、目にしたことのないであろう、統治の記録だった。
一、食糧補給体制の改革について。
外部からの補給に依存する、旧来の非効率な体制を抜本的に見直し、現地において、自律的かつ持続可能な、携帯保存食の生産・供給システムを構築した。これにより、兵站コストは、前年度比で、七割以上、削減される見込みである。詳細は、添付資料一(生産ライン収支報告書)を参照のこと。
二、治安維持に関する特記事項。
長年にわたり、当地域の治安を不安定化させていた、密輸組織『塩の道』について。武力による討伐ではなく、経済的アプローチにより、その支配構造を、完全に無力化することに成功した。砦の兵士たちに、組織との裏取引を上回る、合法的かつ安定的な収入源を提供した結果、組織は、その最大の顧客と供給源を同時に失い、自然淘汰された。このプロセスにおいて、公爵家の兵力は、一切、損なわれていない。
三、現地民との関係改善について。
これまで敵対的、あるいは、無関係であった、現地部族との間に、公式な同盟関係を樹立した。これは、文化交流と、対等な経済取引を基盤とするものであり、武力による威圧や、一方的な援助に頼るものではない。これにより、砦の周辺における、長期的な安全保障が、確立された。詳細は、添付資料二(交易品目録及び協定草案)を参照のこと。
私は、羊皮紙から、顔を上げた。
そして、目の前の、氷の公爵の、本当の姿を、見た気がした。
これは、単なる、報告書ではない。
アレスティード公爵領が、いかに、高度な統治技術を持っているか。いかに、効率的に、領地を豊かにし、問題を解決する能力があるか。
それを、王都の中央政府に、見せつけるための、強烈な、政治的デモンストレーション。
旧弊な伝統と、非効率なやり方にしがみついている、中央への、静かな、しかし、あまりにも、雄弁な、挑戦状だった。
「……素晴らしい、報告書です」
私が、ようやく、それだけを言うと、アレスは、静かに、首を横に振った。
「まだ、完成してはいない。最も、重要な部分が、欠けている」
彼は、私から、報告書を受け取ると、その、一番下の、署名欄に、ペンを走らせた。
まず、彼は、自らの名前を、そこに記した。
『報告責任者 アレスティード公爵』
そして、彼は、その隣に、もう一つの名前を、書き加えた。
私の、名前を。
『本改革の立案及び実行責任者 公爵夫人レティシア・アレスティード』
私は、そこに記された、自分の名前を、ただ、呆然と、見つめていた。
私の名前が、公爵家の、公式な文書に、閣下と、並んで、記されている。
それは、私が、もはや、ただの、彼の妻ではない、という、何よりも、確かな、証明だった。
統治における、不可欠な、パートナーであると、彼が、公に、認めた、決定的な、瞬間だった。
「これは、我々の報告書だ」
アレスが、静かに、言った。
「君の名前がなくては、意味がない」
彼は、書き終えた報告書を、丁寧に折り畳むと、溶かした蝋を垂らし、アレスティード家の紋章が刻まれた、印章を、力強く、そこに、押し付けた。
真紅の封蝋が、固まる。
アレスは、それを、控えていた伝令の騎士に、手渡した。
「これを、王都へ。最速で届けろ」
「はっ」
伝令の騎士は、その報告書を、まるで、宝物のように、革の鞄に収めると、敬礼し、部屋を、足早に、出ていった。
私たちは、窓辺に寄り、彼の姿を、見送った。
騎士は、中庭を駆け抜け、一頭の、黒い馬に、飛び乗る。
そして、開かれた砦の門を、一陣の風のように、駆け抜けていった。
私たちは、その背中が、雪の稜線の向こうに、消えて、見えなくなるまで、二人で、黙って、その場に、立ち尽くしていた。