第9話 ささやかな革命と広がる誤解
私の名前はアンナ。アレスティード公爵家で働く、ごく普通の侍女だ。
最近、このお屋敷の空気が、少しだけ変わった。
ほんの数週間前まで、この城はまるで氷でできているみたいに、静かで、冷たくて、色のない場所だった。食事の時間は、お葬式みたいに静まり返っていて、運ばれてくるお料理は、見た目は綺麗だけど、魂が抜けたように冷え切っていた。
でも、あの日、新しい奥様がいらっしゃってから、すべてが変わったのだ。
奥様――レティシア様は、没落寸前の伯爵家からいらしたと聞いている。最初は、あの氷のような閣下と、どうやって暮らしていくのだろうと、私たち使用人は皆、心配していた。けれど、私たちの心配は、良い意味で、まったくの見当違いだった。
レティシア様が厨房に立つようになってから、まず、匂いが変わった。
朝には、パンの焼ける香ばしい匂い。昼には、野菜を炒める食欲をそそる匂い。夜には、お肉とハーブがコトコト煮える、優しい匂い。今まで無臭だったこのお屋敷が、温かい生活の匂いで満たされるようになったのだ。
夜警に立つ兵士さんたちには、奥様特製の温かい夜食が配られるようになった。「奥様のスープを飲むと、体の芯から温まって、眠気も吹き飛ぶ」と、みんな嬉しそうに話している。私たちメイドの間でも、厨房からお裾分けしてもらうパンの切れ端や、余ったシチューが、何よりの楽しみになっていた。
ささやかな、でも、確かな革命。その中心にいるのは、いつも静かに、でも、凛として厨房に立つ、私たちの新しい奥様だった。
*
そして何より変わったのは、あのアレスティード公爵閣下だ。
以前の閣下は、ご自分の書斎に籠りきりで、食事もほとんど部屋で済まされていた。ダイニングでお見かけすることなど、一年に数えるほどしかなかった。
それが、今ではどうだろう。
毎朝、必ず、時間通りにダイニングルームへいらっしゃるのだ。
もちろん、お二人の間に会話らしい会話はない。閣下は黙って席に着き、奥様が用意された温かい朝食を、静かに召し上がる。そして、奥様が「いってらっしゃいませ、閣下」と声をかけると、ほんの少しだけ、本当にわずかに、頷いてから執務室へ向かわれる。
たったそれだけ。
でも、私たち使用人にとっては、信じられないような光景だった。
「見て。閣下、奥様が作った朝食を食べるためだけに、いらっしゃってるのよ」
「きっと、奥様のお顔を一目見ないと、一日が始まらないのね」
「なんてこと……ロマンチックだわ……」
侍女仲間たちは、物陰からその光景をこっそり覗き見ては、そう囁き合って胸をときめかせている。
そして、今日の午後、私はついに、決定的な瞬間を目撃してしまったのだ。
中庭の掃除をしていた時のことだった。奥様が、薬草園の手入れを終えて、回廊を歩いていらっしゃった。その時、ちょうど執務室から出てこられた閣下と、鉢合わせになった。
私は慌てて柱の陰に隠れた。心臓がドキドキする。
奥様は、閣下に気づいて、淑やかに一礼した。閣下は、いつも通り無表情で、その横を通り過ぎようとした。
その、瞬間だった。
閣下の動きが、ぴたりと止まった。そして、その白い指が、すっと伸びて、奥様の肩に触れたのだ。
奥様の体が、びくりと小さく震える。
閣下は、奥様の肩に乗っていた、一枚の小さな木の葉を、無言で、そっとつまみ上げた。そして、何事もなかったかのように、その葉をひらりと手放し、すぐに背を向けて行ってしまわれた。
後に残されたのは、何が起こったのか分からない、という顔で立ち尽くす奥様だけ。そのお顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
私は、柱の陰で、息をするのも忘れていた。
今の、何……?
ただ、葉っぱを取ってあげただけ?ううん、違う。絶対に違う。
あれは、奥様に触れるための、閣下の、不器用で、精一杯の口実だったに違いない。
*
その夜、侍女たちが集まる休憩室は、私の目撃談で蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「アンナ、本当に見たの!?閣下が、奥様の肩に!?」
「見たのよ!すっごく自然に、でも、すっごく優しく!」
「奥様、耳まで真っ赤だったんでしょう?もう、可愛すぎるわ!」
フィー先輩だけは、「あらあら」と微笑ましそうにお茶を飲んでいる。
「それに、考えてもみて。閣下は、奥様が厨房に立つのを、結局お許しになったじゃない」
「兵舎での炊き出しも、黙認されたって聞いたわ」
「予算会議では、奥様の計画を全面的に承認されたって、会計係の人が真っ青な顔で言ってた!」
一つ一つのピースが、パチリ、パチリと嵌っていく。
最初はバラバラに見えた閣下の行動が、一つの線で繋がっていく。
「つまり……つまり、こういうことよ!」
一番年上の侍女が、興奮した様子で言った。
「閣下は、奥様に一目惚れされたのよ!でも、不器用で、どうやって愛情を示していいか分からない。だから、奥様がやりたいことを、黙って全部叶えてあげているの!」
「ああ!だから、いつも無表情なのは、本当は照れているのを隠すため……!」
「奥様が作ったものなら、何でも『おかわり』しちゃうのも……!」
「肩の葉っぱを取ってあげたのも……!」
結論は、もう、一つしかなかった。
私たちは、顔を見合わせ、誰からともなく、確信に満ちた声で、同時に呟いた。
「「「なんてこと、あれが『溺愛』……!」」」
二人の知らないところで、壮大で、きらきらした勘違いが、この冷たいお城の壁を温めるように、すくすくと育ち始めている。
明日、ダイニングでのお二人を見るのが、今から楽しみで仕方がない。私は、胸の高鳴りを抑えながら、温かいミルクティーを一口、すすった。