目醒め、そのために
男は軋む扉を開けながら呟いた。
そこは、テーブルや椅子など、最低限の家具が置かれただけの殺風景な部屋だった。
そして、部屋の隅にあるベッドには、十二、三歳くらいだろうか。
ローロと同じくらいの少女が、静かにベッドへ横たわっていた。
頬が少し痩け、痩せているようには見えるが、穏やかに寝息を立てる姿は一見、病を患っているとは思えない。
「娘のアンナだ……眠っているみたいだろう。だが、一ヶ月はこのままだ」
「それだけの間、寝たきりなんですね……」
ジュモに椅子を差し出すと、自身はアンナが眠るベッドの横に腰掛け、ポツリ、ポツリと話し始めた。
「私は商人をやっていてな。妻を早くに亡くし、預ける宛もなかった故に、娘を連れながらあちこち旅をしていた」
ニューヴァリアでの子供を連れての旅。それがどれだけ過酷なものか、ジュモはもちろん、ゼリルでさえ想像に難くなかった。
「もちろん、できるだけ危険な目に遭わないよう、護衛は複数人雇い、天候も必ず占ってもらっていた。……最善は尽くしてきたつもりだった。……だがあの日予報は外れ、空には分厚い雲が空に掛かり、まるで夜だった」
夜が原因で起こる事故。その要因は決まり切っている。
「魔物……だな」
ジュモが聞くと、男は静かに頷いた。
「私たちは魔物の群れに襲われた。護衛の奮闘もあってなんとか一命は取り留めたものの、その際に娘は重傷を負ってしまった。
すぐにこの街に駆け込んで、聖女ヒルナに治療をしてもらったよ」
「……治療は失敗したのか?」
「いや、治療は問題なく終わり、娘が身体に受けた傷は、跡も残らないほどに完治した」
「なら、なんでそいつは目覚めない」
「『魂隠れ』、だと言われたよ」
「魂隠れ?」
「……身体には何の異常もないにもかかわらず意識が戻らない。いわば“魂の病”だ。魔物に襲われた者の中で、時折このような症状になる者がいるそうだ」
「その魂の病ってやつは、教会は治せないんだな」
「そうだ。教会では、怪我や風邪、毒など、肉体の損傷は治せるが、魂の病は王都や聖都にいる、魂の扱いに長けた聖女でないと直せない」
「王都か……」
ジュモは頭の中にニューヴァリアの地図を思い描く。 このジラーマの街は大陸南部に位置している。
一方、王都は大陸の中心にあり、聖都にいたっては最北端だ。今の彼女を連れて王都まで連れて行くのは不可能に近いだろう。
「何か手はないのですか!」
「打てる手は全て打った。……私はすぐに商人時代のツテを使い『目醒め石』を届けるよう依頼した」
「目醒め石……それがあれば彼女は目覚めるのですか?」
「ああ、王都の聖女の手を借りずとも魂隠れを癒す石だ。……だが、その希少さから並の宝石よりも値の張る品で……とにかく金が必要だった」
「それが、あんたが盗みに走った理由か」
「……本当に、申し訳ないと思っている。だが、今私の手元にはそれだけの金がない」
「その……どのくらいの金額になるのですか?」
「二千万リラだ」
「にせっ……!」
二千万リラ――例えるなら、王都の土地に小さな家が建つほどの金額だ。
金銭感覚に疎いジュモとゼリルでも、その膨大さは推し量れるものだった。
「全ての貯金をかき集め、売れるものは全て売り払い、借りられるだけの金も借りた。……それからは、盗みも始めた。それでもまだ、三十万リラ、足りていない」
男は床に手をつくと、額が床に擦れるほど深々と頭を下げた。
「頼む、この通りだ……どうか、どうか今だけは見逃してくれ……! もう、時間がないんだ……!」
「あ? 時間がないだと?」
「教会に通い、肉体は衰えないようしてもらっているが、このままでは魂が消え去ってしまうそうだ……!」
「……いつまで持つんだ」
「……聖女ヒルナの言葉を信じるならば、明日の夜までだ。それまでに手を打てなければ、魂は霧散し、娘は二度と目覚めることはない」
「そんな……!」
「……それまでに目醒め石は手に入るのか?」
「ああ。この夜が明けて、日が登ると同時に相手がこの宿にやってくる手筈だ。だが、金が足りないのでは……!」
「……交渉して、後から払うということにはできないのですか?」
「ダメだ……! そんなことをしたら、俺はその場で殺されてしまう……!」
「そんな、どうして……」
「……目醒め石は、いくら金を積んでも、本来手に入れることすら難しい品なんだ。だから、取引条件として『一リラでも足りなければ、取引は不成立とする』という条件をつけたんだ」
男は、取引の内容が書かれているらしい手紙をなぞった。
「誠意を見せるため、ということですね……、三十万リラ……ジュモ、なんとかなりませんか……!」
「俺だってガキが助かるならそうしたいけどよ……」
ゼリルもジュモも、男が盗みを行おうとしたことは、とっくに許していた。
「そうです、まだギルドで収魔結晶の換金をしてなかったじゃないですか!」
男は項垂れながらそれに応えた。
「はは、気持ちはありがたいがそれではとても足りないだろう……。もちろん、戴けるなら是非欲しいというのが、本音だがな……」
「そう、ですか……」
ゼリルが視線を落とすと、ふと手紙に書かれた差出人の名が目に入った。
「マージス・グルゼ……?」
「……ああ、それが取引相手だ。なによりも義理を重んじる男だ」
「グルゼ……? どこかで聞いたような……」
「なんだ、彼を知ってるのか?」
そしてゼリルは思い出した。
「――そうです、街に入る前に出会った商人、グルゼと名乗っていました」
「ああ、言われてみれば、そんな感じの名前だったな」
「……ジュモ、たった一つだけ、確実に足りる方法があります」
ゼリルの視線は、ポーチに向けられていた。
◇
それからしばらく。床に横になり寝ていたジュモだったが、何者かがドアをノックする音で目を覚ました。
「グルゼだ。用意はいいな?」
「ああ、入ってくれ」
部屋を見渡し、ジュモたちの存在に気づいたグルゼは、目を丸くして驚いた。
「おいおい、なんであんたらがここにいるんだ? ……噂になってたぜ、おっぱいを連れた半裸の男が出たってよ」
「ま、訳あって同席することになってな。それより馬は診てもらったか?」
「ああ、お前さんの言うとおり足を痛めてやがった。早くに気づけて感謝してる。……だが、それとこれとは話は別だ。二千万リア、きっちり払ってもらうぜ」
「その前に、物を見せて貰えるかな」
「はいよ」と、ほとんどの荷物はどこかへ置いてきたのだろう、肩掛けの鞄のみを身につけたグルゼは、中から手のひら大の小箱を取り出した。
蓋を外すと、中に入っていたのは乳白色の結晶だった。結晶の中心では、翠色の光が淡く輝いている。
「これが目醒め石……、わずかですが、聖力を感じます」
「おいおい、心配しなくても偽物なんか掴ませねぇよ。つーか、おっぱいの癖にそんなことまでわかるのかよ」
「……ああ、質は申し分ないようだ」
「それじゃ、今度はこっちの番だ」
「分かっている」
男はテーブルの上に硬貨の詰まった袋を置いた。
「ざっと三百枚ってとこか。……それじゃ、数えさせてもらうぜ。それと、偽物が混じってないかも調べさせてもらう」
グルゼは椅子に座ると、自前のランプ置き灯りをつけた。
袋を開けると中身は、最大の価値を持つ貨幣『白金貨』以外にも、金貨や銀貨も入り混じっていた。
グルゼはそれらを驚くべき速さで調べ、数えていき、ついに最後の銀貨が袋から出された。
「おい、三十万リラ足りてねぇぞ、どうなってんだ」
そして、ジュモがフォレストドラゴンの鱗をテーブルの上に置いた。
ゼリルが意図したのはこれだったのだ。
「ならこいつも、勘定に入れてくれ」
「おいおい、まさかそいつは……」
「『鱗は三十万リラはくだらない』あんたが言ったことだ、文句ねぇだろ?」
「ああ、これできっちり二千万リラ。交渉成立だ」
「ほっ……よかったです……」
一行が胸を撫で下ろす中、グルゼは尋ねた。
「あんた、“良くない方法”にも手を付けたみたいだな」
「……娘のためなら、なんだってするさ」
男はただ、そう答えた。
「そうか。ま、俺には関係ないことだ。それと――」
グルゼがジュモに何かを放った。
「あ? ――ってこれ、白金貨じゃねぇか」
「お前がうちの馬の不調を教えてくれなけりゃ、俺が負った損害は相当なものになっただろう。――借りを受けた筋は通さなきゃな」
そしてグルゼは背中を向けると「だから、そいつを誰に渡そうとお前の自由だ」そう言い残して去っていった。
グルゼが去ると、男は改めてジュモたちに頭を下げた。
「ありがとう、二人とも……」
「気が早いぜおっさん。礼を受け取るのはガキが目覚めてからだ」
「そうですね。目醒め石はどのようにして使うのですか?」
「あ、ああ。娘のすぐそばで、石を握って念じればいい。本当は、聖力の扱いに長けたものが行ったほうがいいらしいが、背に腹は――」
ジュモは男の背中を小突いた。
「焦ってんじゃねぇ、もしものことがあったらどうする」
「ええ、ジュモが考えていることは分かります」
「ああ――餅は餅屋だ」