第三話
「……ぁ……」
「……なに?」
「あ、あの……ね」
「……」
『"おはよう"だぞ! めぐ!』
「お、おはよう!!」
「あぁ……おはよ……」
「……っ!」
恵夢は偶然にも昨日と同様、教室の前で会った上川に、意を決して声を掛けた。恵夢に協力してくれる格とシルヴィアのためにも、努力しなければと思ったから。
結果は、幸運な事に返事まで引き出せ、恵夢は歓喜に満ち溢れた笑顔を浮かべた。
『や、やったよ! ぴょん吉……!』
『良くやった! ほら、挨拶の次は雑談だ! とりあえず適当に朝の話を振ってみろ」
『え、えぇ!?』
クラスの誰かに声を掛けるだけでも、恵夢にとっては大仕事だったというのに、雑談なんてレベルが高過ぎる。
逃げたい、このまま通り過ぎたい……。いつもの恵夢なら、間違いなくその通りにした筈だ。
けれど恵夢は、ぐっと拳を握った。
「あ、あの上川君は……朝、なに食べた?」
「……からあげ」
「そう……なんだ……」
「…………」
「……」
『めぐ! 続き! 会話のポイントは相手に話させる事! 途切れる前に質問だ!」
「……ぅ」
肩上では格がリングサイドのセコンドよろしく興奮気味に叫んでいる。
『何を話したら……』
『レモン派か塩派かそのまま派か!』
『な、なんの話題それ……?』
『からあげに決まってる』
話題に窮した恵夢に格が助言するも、格の発言を再現する前に上川が教室に入ってしまい、話はそこまでで終わってしまった。
「あ……」
『落ち込むな、めぐ。ちゃんと挨拶も出来たし、短いけど会話も出来たんだから、上出来だ』
『……うん』
その後も恵夢は、滅多に見られないような積極性で周囲との交流を試みた。
自ら話掛けるという大胆な行動ではなかったものの、「ごめん」や「ありがとう」などの基本的なやりとりと、視線を合わせ意志疎通を図る事で、和やかな人間関係を築こうと努めている。
そんな恵夢を格は労り励まし、このままなら友達ができる日もそう遠くないだろうな、と愁眉を開いた。
* *** *** *** * ** **
それから一週間が経過した。
挨拶くらいなら自らできるようになった恵夢は、休み時間に恵夢と同じように教室で過ごすクラスメイトに声を掛けてみる事にした。
静かに座ったままのボブヘアの少女。彼女も恵夢と同じように友達が欲しいと思っているかも知れないと、恵夢は勇気を奮った。
「あ、あの……船嶋さん……」
「……」
恵夢が船嶋と呼んだ女子児童は突然声をかけてきた恵夢に一瞬息を詰めて目を見開き、即座に表情を曇らせ俯いた。まるで恵夢を拒絶するように。
『……めぐの事が、怖いのか?』
『え、僕が……怖い?』
まさか自分が話掛けたせいでクラスメイトが怯えるなど思ってもみなかった恵夢は、縮こまる船嶋を見て酷い罪悪感に襲われた。
「あの……っ、ごめんね」
『めぐ……っ』
堪らず恵夢はその場を離れ、行き着いた階段の踊場で、浅く荒い息を繰り返した。どくどくと大きな鼓動が胸を打ち、痛みを静めるように両手で心臓を押さえる。
『めぐ! どうしたんだ?』
格が恵夢の肩から降り、恵夢の周りを舞いながら様子を伺った。
『大丈夫か!? めぐ!!』
『ぴょん吉……僕、あの子に迷惑掛けちゃったのかな……?』
恵夢は苦痛に顔を歪めて呟く。
『そんな事ない。さっきの子だって、めぐと同じだ。恐怖から他人を避けてしまう。あの子も、きっと今頃、めぐを避けた事を後悔してる筈だ』
『でも……怖がらせちゃったのは、間違いないよね』
『別に悪意があった訳じゃない。それはあの子もちゃんと解ってるって!』
『けど……』
『めぐは、自分を卑下し過ぎだ。めぐが声を掛けただけで気分を害する奴なんかいるわけない。万が一いたとしても、それは悪意のある、相当暇な下らない奴らだけ。そんな下らない奴らのために、めぐが日頃から息を殺して生活する必要ないし、そんな理不尽、俺は納得いかない』
『……』
『めぐは、良い奴だ。誰かを傷付けないよう自分を犠牲にするくらい、優しい奴だ』
どくん、どくん、と、恵夢の鼓動は高鳴り続ける。
『そんなめぐを理解しない奴とは、友達になる必要ない。友達って、お互いを大切にしたいって思い合える人の事だ。めぐを傷付ける奴なんて、友達じゃないだろ?』
『じゃあ……僕はやっぱり、友達が出来ないままだね……』
自分が誰かを傷付けた。その事実は、格の想像以上に恵夢の心を苛み、重石となる。
『めぐ……っ』
叫ぶ格の声に振り返る事なく、恵夢は表情に影を落としたまま教室へと戻って行った。
* *** *** *** * ** **
それから数日……。
恵夢は学校で誰とも話しをしなかった。
授業で仕方なく受け答えする事はあっても、私的な事や立ち入った話をする事は一切ない。
話したいとも思わなかった。誰かを不快にさせるくらいなら、話しなどしたくない。
暗く、冷たい空間に漂っているような感覚。周りの音は聴こえているのに、意味は理解できない。こだまする声がぼんやり耳に届くだけ。
次第に恵夢は、教室にいると悪心がするようになった。
いつ嘔吐いてもいいように、小さなバケツをいつも近くに置いて……。
けれど。
それも長くは続かなかった。
そんな恵夢の様子を、クラスメイトが噂しない訳がなかったから。
誰の言葉にも答える気がなく、声を無視してきたくせに。自分の世評ばかりは不思議と良く聞こえてくる。
……もう、嫌だ。
気分が優れず一日休んだその日から、恵夢は学校に行かなくなった。
* *** *** *** * ** **
恵夢が学校に行かなくなって二週間程が過ぎた。
格が任された一ヶ月間の期限はもう間もなく……数時間を残すのみとなっている。
自室で虚ろに横たわる恵夢の頭上で、格はそっとその額を撫でていた。
「めぐ……ごめんな。俺、めぐに無理をさせちまったんだよな……」
格が友達を作るように無理強いしなければ、恵夢は学校に行けていたかも知れない。
恵夢が落ち込み出してからずっと、格はどうしたら恵夢を励ませるのかと考えていた。
しかし、何度も、どれだけ考えても、導き出される結果は……出来る事はなにもない、という結論だけ。
格が恵夢にしてやれる事なんて、何一つない。
――俺は……無力だな。
あんなに偉そうな言葉を並べて、結局……めぐのためになるどころか、辛くさせるばかりだった。こんなの、あのクラスメイト達と大差ない。自分が情けなさ過ぎて……吐き気がする……。
格は辛酸な心境を呑み込み、恵夢の顔の横に寝転んだ。
「この一ヶ月……良く頑張ったな、めぐ」
返事はない。だが、恵夢の腕がぴくりと動き、格の方へと伸ばされた。
「めぐは、どうして友達が欲しかったんだ?」
二人、ベッドに横たわったまま、恵夢の指先が格の身体に触れる。
「どうして……なのかな。わかんないや……」
今ではもう友達が欲しいと、恵夢は考える事もない。
「まぁ、理由なんて……ない方が普通か。なんでからあげが好きなのか、みたいな質問だったな、悪い」
「どういう事、それ?」
格の独特な比喩に、恵夢はくす、と笑みを浮かべた。
「深い話なんかじゃないから聞き流せ。俺はさ……」
言いかけた言葉を、格は「いや……」と呑み込む。
「……なに、ぴょん吉?」
恵夢はベッドから身体を起こし、格に向き合った。
気にすんな……って言っても、気になるよな……と呟いた格に、恵夢はうん、と頷く。
「これを言ったら……めぐの負担になるだろうと思って、言えなかった事があるんだ」
格も恵夢に向き合い、真っ直ぐにその目を見つめ返した。
「俺は……ホントは普通の人間なんだよ」
「……そう……」
そうだろうと思っていた、というニュアンスの恵夢の相槌に、格も頷き返す。
「それが、ある日突然、今のこの姿……"ぴょん吉"の身体になっちまっててさ、俺は元の身体に戻りたくて……『切望の藁商会』に行ったんだ」
「……え……?」
目を見開いた恵夢を見つめながら、格は続ける。
「そこで俺は、元の姿に戻る『対価』として、めぐの依頼の手伝いをする事になって……今ここにいるんだよ」
絶句する恵夢の膝に、格が飛び乗った。
「元の姿に戻る事……それが俺の願いで、そのためにずっと頑張ってきた。けど……」
恵夢の身体が小刻みに震えるのを感じ、格は罪悪感に苛まれる。
「けど……もういいかなって、実は思っててさ……」
「なんで……?」
恵夢の声は震えて掠れ、消え入りそうな音で響いた。
「俺は……めぐの友達になりたいって、思ったから」
「どうして……そんな……!」
「めぐはさ……俺と友達なのは嫌か?」
「嫌な訳ない! 僕は……僕も、友達になりたいよ!」
「なら……なってくれ。今から俺とお前は友達だ、めぐ」
「……僕……っ、僕は……君が友達でいてくれるなら嬉しい。けど、それじゃあ、君が……っ」
嗚咽を堪え、ぼたぼたと大粒の涙を溢しながらも、必死に声を振り絞る恵夢に格はそっと抱きついた。
もし、恵夢の依頼が完了してしまったなら、格は元の姿に戻ってしまい、恵夢の側にはいられない。
けれど"ぴょん吉"の身体のままなら、依頼を完遂できなくても、ずっと恵夢の側にいてやる事はできる。
「めぐ……お前には俺がいる。俺はお前の友達だ。俺だけはずっと側にいるから。だからもう……無理して自分を苦しめるな」
恵夢は膝に乗る格を抱き締め、堪えきれない嗚咽を隠しもせずに、泣き続けた。幾度も繰り返して叫ばれるごめんねの言葉を、格はしっかり受け止める。
「……僕の望みを叶えないで」
切に想いの込められた恵夢の声に、格の首元についた宝石が煌と輝いた。
「その代わりに、ぴょん吉を元の姿に戻して……っ」
「望みの破棄を承りました。そして、『望みの破棄』を『対価』とし、新たな望み……格の願いを叶えましょう」
姿を現したのは鹿瀬で、彼が言葉と同時にさっと腕を振ると、格の身体が光を放った。
「な……っ、めぐ……! どうして……っ!!」
叫ぶ格を、恵夢が制する。
「これでいい。君は君の場所に戻って」
「めぐ!?」
「言ってたよね……? お互いの事を大切にしたいと思える相手が友達だって」
恵夢は格を抱き上げ、鹿瀬に手渡した。
「僕は僕の事より、君の事の方が大切だ」
「めぐ……っ」
揺れる魔法の光の中に、格の震える声が消え入る。
「……っ」
格の声は掠れ、もう音にはならない。
「本当によろしいのですか、望月様。この望みを叶えてしまえば彼はもう、あなたの側にはいられませんよ?」
目を伏せた鹿瀬に、恵夢は柔らかく笑って答えた。
「はい。何人もの友達より、彼一人の望みの方が、僕にとっては何倍も大切なんです」
「わかりました。では……」
頷いた鹿瀬の言葉を遮り、思い出したように震えた声で恵夢が問う。
「商会長さん……っ。これからもたまに、商会に遊びに行ってもいいですか?」
その場所で、彼に会えるかも知れないから。
「構いませんよ。勿論、その際には彼も呼びましょう」
恵夢は震える頬を笑みの下に隠し、格の小さな腕を摘まんで出会った日のような満面の笑顔を浮かべた。
「絶対また会おう。……大切な友達だからね……格」
「……っ!!」
その瞬間、格の意識はぷつりと切れ、真っ暗な深い意識の底へと落ちてしまった。
お読み頂きありがとうございます。
からあげの添え物にデスソース付けるお店を知っているのですが、デスソース派ってどれくらいの割合で存在するんでしょうね?私は辛いの苦手だから無理だなー……。