第八章 過去
*
「要、おいで」
笑顔を一片も崩さない彼は、僕の手を引いた。僕は引かれるままに、彼に付いて行った。
その部屋には沢山のピエロの人形が飾られていた。それらは、一様に不気味な笑みを浮かべていた。
そう、僕を部屋へ連れて来た彼のように。
「要、ここへお入り」
僕はケージ……動物用のケージへ入れられて首輪を付けられた。
「お前は、私の子供なんだ。あんな女に渡したりなんかしないよ」
不穏な笑みを浮かべたまま、彼はそう発した。その笑みの奥には、言い知れぬ恐ろしさが感じられて……僕は心が凍りついた。
「い……嫌だ。ここから出して!」
ケージを掴んだ僕が泣き叫ぼうとした瞬間……彼はナイフを僕に突き付けた。
不穏な笑顔を崩さぬままに。
僕は幼心にもその行為の意味を理解し……自分を殺して心の中に封印した。
笑顔を崩さない彼はナイフをしまって僕の頭を撫でた。
そして……
「いい子だ、要。流石は、私の子だね」
そう言って、僕にピエロの人形を一体渡した。彼と同じく、不穏な笑みを絶やさないピエロを。
その瞬間に、僕は痛いくらいに実感した。
「あぁ、やっぱり、お父さんは……憎らしいくらいに僕のことを愛してくれているんだ……」
*
ベッドの上で気がついた僕の頬には、涙が伝っていた。
「やっと、目を覚ましたようね」
保健室の先生がボソッと言った。
「ここは……? 僕は……」
「同級生が事件を起こしたことが、あなたにとって相当なストレスの心労になっているんでしょうね。今日はもう、帰って休みなさい」
先生はさらっとそう言った。
「今西は……今西も、僕なんです」
「えっ?」
「いや、あいつだけじゃない。少女達を刺して強姦した犯人も、僕なんです。何故なら……僕も、同じだから」
先生は呆気に取られた表情をしている。
しかし、僕はそんなことはお構いなしに続けた。
「僕も、少女を見て……美しい少女を見たら『変化』したんです。自分の内に潜む『魔物』に。だから、電車の中と路地で三度も……自分の意識はなかったにしても、三度も少女を汚した。そして、公園で……今西が少女を拉致したあの公園で、僕も別の少女を手にかけようとした」
そこまで話して、僕はフッと自虐的に笑った。
「警察に捕まりますよね、僕。三度も痴漢したんですから」
すると、先生は特に驚く様子もなく口を開いた。
「私はあなたの言うことの全てを理解できるわけではないけれど……あなたくらいの年齢の子って、みんな、そうなんじゃないかしら?」
「えっ?」
「あなたくらいの年齢の子達は、急激な心身の変化に精神がついていけずに、不安定になる。でも、それを隠そうとして自分を演じて、本当の自分が分からなくなる。きっと程度の差こそあれ、皆、そういうものだと思うわ」
「そう……なのかも知れないですね」
僕は僅かでも自分を理解してくれているその言葉に安堵し、心地良さを感じた。
「それに……」
先生は、やはり無感情に続けた。
「あなた、如何わしいことしたみたいだけど……それもきっと、あなたくらいの年齢の男子生徒なら多かれ少なかれ、誰でも同じようなことをするものなのかもね。まぁ、れっきとした犯罪だから、決してやってはいけないことだけど。でもまぁ、これからはやらなかったら、現行では捕まらなかったんだし、あなたは捕まることはないと思うわ」
それで良いのかどうかは分からないが……いや、決して良いことではないのだろうが、先生の言葉に、ずっと騒ついていた僕の心は少し落ち着いた。
「取り敢えず、今日は帰ってゆっくり休みなさい。あなた、色々と不安定なようだから。そんな時は、何も考えずに休んだ方がいいわ」
先生のその言葉に促され、僕はゆっくりと立ち上がって保健室を出た。
そんな僕の様子を遠巻きに、冷静に見つめる自分自身もいた。
*
自分の部屋でピエロの人形を見つめる。
もう、ピエロに対する恐怖心は消失し、寧ろ愛しささえ感じられた。
このピエロは、父親から与えられたものだ。
幼い頃、僕の両親は離婚した。そして、父親と母親は僕の親権を争っていた。
結果、僕の親権は母親のものとなった。
しかし、父親にはそれを受け入れることはできなかった。
『何故、自分の子供と一緒にいてはいけない?』
その想いで支配されていた。
彼は公園で友達の輪に入れていなかった幼い僕を連れ去り、自宅の犬用のケージ内に閉じ込めた。
常に笑顔で、表情を崩さない人であった。
ピエロのように崩れない笑顔のままに僕をケージに閉じ込め、自分が外出する間、僕にはピエロの人形が与えられた。
恐らくは、彼も何者かに支配されていたのだろう……彼の部屋には、何体ものピエロの人形が置かれていたのだ。
まるで、ピエロに見つめられることで、辛うじて『本当の自分』を隠して安定させるかのように……。
数日の後、彼は自宅での実子の監禁容疑で逮捕された。
このピエロはずっと……父親が逮捕され、僕が母親に引き取られてからもずっと、僕を監視している。
僕の中の『魔物』が剥き出しにならぬように。
人の前では屈託のない『ピエロ』でいることができるように。
自分の中に『本当の自分』を封印することができるように。
そして、僕は机の上にピエロがいることで、漸く自分を安定させることができるのだ。
そして、それは……自分の中の全てが融合した自分自身がまたしても分離することのないように、これからも……いつでも僕を監視する。
僕は部屋のクローゼットのドアに取り付けられている鏡を見た。
鏡に映っているのは、自分。
ピエロ、魔物、真の自分……その全てが融合した自分。
そして、その背後では……机に乗せられたピエロが屈託のない笑顔を浮かべている。
僕はナイフを取り出して鏡に突き立て、力を込めてゆっくりと傷をつけた。
もう二度と、自分が魔物に支配されることのないように……魔物を滅し、封印するように。
傷をつける度に、僕を映す鏡からは『キーッ、キーッ』と耳に触る音が響いた。
それはまるで、僕の内に潜む魔物が上げる悲鳴のように木霊して、いつまでも離れない。
でも、それでも僕は、ひたすらに傷をつけた。
何度も、何度も……心ゆくまで傷をつけた。
背後では、ピエロが……いや、僕の意識、それ自身が、笑顔を微塵も崩さずに冷静に、そんな僕を見つめていた。