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上津川旧祭町ーー。
愛知と岐阜のちょうど県境に位置し、上津川市の真ん中にあるこの歓楽街は、古くは東海地区の宿場町として栄えた。戦後は両県を結ぶ鉄道と整備工場の中心地となり交通の要衝として発展した歴史を持つ。
夏には町の名前の由来となった「飛脚祭り」が開催され、観光地としても近年人気を博している。
江戸時代に日本各地を行き交う飛脚たちが、上津川の宿場を多用したことから、人が増える時期の繁忙を祝したことが祭りの原型となっているらしい。
表通りには大小様々な飲食店と宿泊用のホテルが軒を連ねていた。近年では大規模な再開発が行われアングラだった裏路地でも着々と区画整理が進められていた。
中村組の事務所は、未だ手付かずになっている居住区域の一画にひっそりと所在していた。
飲食店の多くは列車の整備工をはじめとする肉体労働者たちが客層の多数を占め、時に酒に溺れた荒くれ者たちの間で泥のような争いが起こることも少なくなかった。
何世代にも渡る貧困の連鎖を経て土地柄が荒んだ結果、住まう人々も一層偏っていった。
久我もこの町の循環で生まれ育った一人だった。
裏社会に身を置いて数年が経つが町の華々しい発展がむしろ忌々しい。
町が輝きを増すごとに自分のような人間の居場所が失われていく気がした。
住人の誰もが、どこかに影を背負って剣呑な雰囲気纏っていた時代だった。
列車整備の工員だった久我の父親は、劣悪な労働環境に晒されたために久我が小学生になる前に身体を壊した。以来、職を失って家に引きこもるようになり、その傷薬としてアルコールに依存した。
はじめは静かに涙を流していたが、次第に酔いが回ると幼い久我と母に暴力を振うようになった。
被虐者だった父もなけなしの自尊心を保つために加虐する者を必要とし、その矛先が家族に向いた。
そんな夫に必死に寄り添った母親は、いつまでも変わらない夫に終に愛想を尽かして久我が中学生になる頃に家を捨てて町を去った。
残された久我は頼る物もないままに町を彷徨い歩いた。
平穏な日常の象徴たる町の灯を目にするたびに嫌悪感が胸を支配した。
自分の居場所は光の中にはないと悟った。
やがて久我は、衝動のままに暴力に明け暮れることを覚えた。誰かれ構わずに喧嘩をふっかけては痛めつけることで、光の世界への抵抗を示したつもりだった。
裏社会に望んで足を踏み入れる人間は少ない。
大半は表の世界から弾き出されて行き場を失った者達だった。
彼らが血と泥に塗れながら傷を作るにつれて、光の世界に住まう人々は目を向けることを拒否し始めた。
目を背けられて無視されるだけならまだ良かった。久我のような落伍者を異端としながらも、存在することは辛うじて許していたからだ。
ところが、環境と産業の再生を目論む行政の介入が始まってから状況が変わった。
久我が15歳になった頃だった。
光の世界は自身の輝きを守るために、あるいは全てを飲み込んで浄化するために動き始めた。
久我のような不良少年たちを町に害をなす存在として認識し、積極的に隅へと追いやり始めた。
久我は抵抗するように一層喧嘩に明け暮れた。
散々放っておいたくせに今更邪魔者扱いすることが許せなかった。
ある日、腎臓を患った父を尋ねきたケースワーカーの男を玄関先で殴り倒した時に始めて逮捕された。
今でもあのケースワーカーの上っ面の笑いが目に浮かぶ。優しいふりをした仮面の裏にある感情を久我は理解していた。
哄笑と軽蔑ーー。
下を見て勝ち誇った気分に浸ることで、自分の今の身分の確かさを再認識する、そんな下衆な快感を滲ませていた。
父は助けになるはずだった男の来訪を息子が妨げたために、そのまま廃人と化して死んだ。
後の裁判でたまたま質のいい国選弁護士を引き当てたことで穏当な処分を受け、久我は再び町に戻った。
自由を得られたことへの感謝の心など微塵もない。むしろ当然だとすら思った。
父のように野垂れ死ぬでもない、母のように町を捨てるでもない、新たな選択肢を掴みたかった。
光が闇を侵食し、居場所を奪う町を見渡して決意した。
町に混沌を、自分のように打ち捨てられた人間の居場所を取り戻す。
表と裏を分つ壁を築き、互いが交わることがない町に、自ら支配者として君臨するーー。
誰の侵入も許さない、裏の王国。
そのための道標が必要だった。
久我は自ら改めて渡世の門を叩いた。
ヤクザは光の世界の対極にある存在だ。
裏社会での出世こそが、光の世界への逆襲の足がかりだった。
歩むべき道筋に相応しいと感じた。
何度かその筋の人間が出入りする店に通って、運良く中村組との縁を待つことに成功した。
若衆としての地位を得て以来、岸や時田らからのしごきに耐えながら、裏社会の作法と仕事を学び今日に至る。
耐えるのは簡単だった。
裏の世界で登り詰めるという覚悟が心身を支えていた。
久我は最後の煙草に火をつけると空箱を握りつぶした。
もう一度、窓から町の光を見やる。
整然とした輝きの中に自らの力で城壁と楔を築く日が来ることを強く念じた。
岸と時田が事務所を出てから2時間ほど経過していた。
突然、目の前の連絡用の電話が着信を告げたーー。




