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室内は殺風景そのもので人の数に対して物が少ない。正面にステンレスデスクと、その隣に金庫が並び、来客をもてなすにはいささか簡素なソファーが入り口近くに配置されていた。
デスクの背面の壁には義の太字と共に
「義央連合 英心会中村組」の紋様が飾られている。
義央連合は中部地方を拠点とする暴力団組織で、構成員数三千人を擁する勢力を誇っていた。
英心会はその一次組織にあたり、東海地区を縄張りとしている。当代の義央連合の本流筋として、また豊富な人口を持つ地域を管轄するという地の利を有していることもあり、他組織とは頭ひとつ抜けた影響力を有していた。
中村組はその傘下として愛知と岐阜の県境の街である上津川の歓楽街に居を構えて活動しており、他の地方の組織はもとより、連合内の他組織ともしのぎを削っていた。
代紋を背にデスクに座っている男が組長の中村悠二だ。四十代も後半を迎えて背格好は丸みを帯びていたが、若い頃は生粋の武闘派として他組織の縄張をことごとく強奪して現在の地位を得たという。
部屋には中村の他に三人の男がいた。
中村は両手にスマホを持って交互に見比べると片方を引き出しに仕舞い込んだ。
他の者達は皆無言で煙草を燻らせ、己の手持ち無沙汰を殺していた。一人だけ金庫の側に立つ男だけが不機嫌そうな表情を浮かべていた。
中村は腕時計を見ると、おもむろに立ち上がって掛けてあったジャケットを手に持った。そのまま出かけるらしい。
「岸、今月のアガリちゃんと数えとけよ」
「……うっす」
金庫のそばに控えていた岸と呼ばれた男が気のない返事を返した。
岸は三十代後半で組の中では親分の次に年長だったが、その横柄さから組内での評価は芳しくなかった。役職は金庫番に過ぎず、他の年下の組員と大差ないため、処遇に不満を抱いていた。そのせいもあり気怠げな態度は常態化していたが、中村は岸の本性を見透かして冷遇している節があった。
もっとも、中村自身も現在の地位に甘んじて組織の強化を怠っているようにも見えた。
「戸締りだけは頼むぞ。じゃあな」
「来月からの売人どものの取り分の件はどうします?」
「適当にまとめておいてくれ」
中村は返事を待たずに部屋を後にした。扉越しに楽しげに電話で話す声が聞こえたが、すぐに遠ざかっていった。
「また新しい女かよ。気楽なもんだな」
岸が毒づくのを他の誰も咎めなかった。内心では皆の一致した心情だったからだ。警察の締め付けが年々厳しくなり、狭い街の中で複数の組織が己の食い扶持を稼ぐためにひしめき合っている。当然、揉め事も絶えない。先の件も時世を察した覚醒剤の売人がギャラの増額を求め始めており、組が応じないなら他の組織に鞍替えを検討すると話していた。シャブの売上はシノギに直結する問題だった。だからこそ岸は親分である中村に判断を仰いだが、反応は鈍かった。
岸は組織が停滞して自分が出世できない遠因に中村の適当さがあると感じていた。その不満の捌け口としてさらに格下の組員に矛先が向いた。
「夜番は久我だったよな?」
岸は金庫の鍵を回しながらソファに座る男のひとりーー久我に問いかけた。
「はい、今夜は俺1人です」
久我は短く答えた。
久我は年齢は二十代後半だったが、いつも険しい顔をしているため実際の年齢よりも老けて見えた。
親である中村から盃を受けてから日も浅く、先輩にあたる組員たちからはぞんざいな扱いを受けることも多い。
「悪ぃけどオヤジが言ってた勘定、代わりにやっといてくれねえか」
岸は悪びれた様子なく久我を見やり、煙草に火をつけた。受けて当然という態度が滲み出ていた。初めから久我の言い分など聞くつもりはなかった。
「……わかりました」
抵抗は無駄と知って、久我は即座に承諾した。
極道渡世は立場が全てだ。上が黒と言えば白いものも黒と言わなければならない。どんな理不尽も飲み込む必要があった。
「オヤジにチクるんじゃねえぞ」
久我に釘を刺し、岸は手早く荷物をまとめた。
「時田、ついてこい」
久我と共にソファに座るもうひとりの男ーー時田は、唐突な呼びかけに対してのっそりと頭をあげた。吸殻が山になった灰皿に無理矢理に煙草を押し込み、黙って立ち上がる。
時田は久我が組に入るまでは一番若く、多分に漏れず最年少として散々な日々を送っていた。
久我が現れたことでいくらか役割が軽くなり安堵していたが、時折こうして岸の気まぐれに振り回されることがある。
岸は今しがた時田が吸殻を捨てた灰皿に自身の分も押し込むと、わざとらしく力を加えた。灰が零れ落ちる。清掃するのは久我の役目だった。
時田もその様子を薄ら笑いを浮かべて見ていた。
明らかな嫌がらせに対しても久我は表情を変えなかった。
無言で灰皿の片付けを始める。
「相変わらず可愛くねえな」
岸は吐き捨てるとさっさと部屋を出ていった。
時田も後に続く。
「じゃあな、後輩」
己がかつて受けた屈辱をそのまま久我に返せたことに満足気だった。
久我は意に介さず掃除を続けた。最低限の業界の礼儀として軽く頭だけは下げておいた。扉が閉まる音を確認してようやく目線を戻した。
掃除と金の勘定を終え、金庫の設定を変える。
岸の金庫番とは名ばかりで、実際は久我がこまめな確認をして組の金を守っていた。
執務机に腰を下ろす。他に人がいては出来ない所作だった。独りでいることに安心し、少しだけ緊張を解いたせいだった。窓からはぼんやりと街の明かりが見えた。
久我にとってブラインドの隙間からから見下ろすネオンの街並みは、どれだけ華美な光彩を放っていても全て同じ物のように思えた。
多様に見える人の群れも、結局は同じ光の世界に生きるだけの、いわば同じ穴の狢だった。
彼らは好むと好まざるとに関わらず、久我のように影を落とすような存在を封殺して意図的に遠ざけていた。その影を生み出したのは他ならぬ光の世界のはずなのに。彼らは影の存在を初めから無かったもののように振る舞うのだ。
ーー今に見ていろ。
久我は町を見下ろし、自分を爪弾きにした世界の姿を目に焼き付けた。
光の世界に己の存在を知らしめること。
それが久我の野望だった。
そのためならば、たとえ泥を啜ることになっても耐えられる自信があった。
岸も時田も踏み台に過ぎない。
全ては裏の世界で成り上がり全てを手中にするための試練なのだ。
久我は思案を止め、連絡用のスマホを取り出して再びソファに腰かけた。
また、長い夜が始まった。




