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息切れする日常

 ······そこは、白一色の空間だった。足元も。上を見上げても。左右を見回しても遥か彼方まで白い世界が続いている。


 その中で、男の目の前に四つの椅子が並べられていた。それは折りたたみ式の安っぽいパイプ椅子だった。


 四つの椅子は二メートル程の等間隔で距離を取っていた。そして、その椅子は無人では無かった。


 椅子には人が座っていた。そして身体をロープの様な物で椅子の背もたれに縛り付けられ、見動きが出来ない様に見えた。


 拘束された者の足元に視線を下げると、両足首も縛られていた。その姿を眺めた男は驚愕していた。


 それは、日常の中で自分が頭の中で想像していた光景だったからだ。男は想像の中で、椅子に座った者達をなぶり殺しにしていた。


 だが、それはあくまで空想の中での出来事の筈だった。それが自分の認識の元、現実となり目の前で展開している。


 その事実に、男は混乱し酷く狼狽えていた。その時、耳元に誰かの気配を感じた。可笑しい事に、その時男は聴覚より嗅覚の方が先に反応した。


 男は匂いを感じた。それは、焼き菓子を焼いた時の様な甘い匂いだった。そう感じた瞬間、耳の中に囁くような声が入り込んで来た。


「······さあ。早く殺りなさい。一人ずつ。好きな手法でね」


 それは、嗅覚が感じ取った匂いと同様に甘い声だった。男は恐る恐る振り返った。声の主は若く、美しい女だった。


 深い眠りの意識の中で、曙駿太はその音を聞いた。それは、この世界で万人に平等に与え安楽に満ちた時間。睡眠を中断させる音だった。


 安息の終わりを告げるその合図を、駿太は既に気付いていた。だが、今回に限ってはその音を無視しようと試みる。


 現実に引き戻すその音を聞き流し、また安息に満ちた眠りの中へ舞い戻りたい。駿太はそう渇望していた。だが、鳴り続けるその音が否応なしに駿太を恫喝する。


『さっさと起きろ。そしてまた奴隷の様に働け』


 その高圧的かつ居丈高な物言いに屈し、駿太は布団の中から左手を伸ばした。そして枕元で鳴っているスマホのバイブを止める。


 スマホの時計は六時十分と表情されていた。それは駿太の毎朝の起床時間だ。スマホは律儀に、そして献身的にその時間を駿太に教えてくれる。


 それは本来、とても便利で有り難い機能の筈だった。だが駿太にはそのスマホの目覚まし機能すら、自分を現実に戻す心無い物に感じられた。


「······また今日もクソ仕事か」


 駿太は深いため息を漏らし、布団から起き上がった。青いカーテンと窓を開け、部屋の中に新鮮な空気を入れる。


 布団をたたみ、トイレに行く。顔を洗い、ヤカンに水を入れ沸騰させる。お湯の半分は飲む用。もう半分は味噌汁用。


 冷蔵庫から昨日炊いた米を取り出し、少量の水を入れた土鍋の中に入れガスで温める。手早くネギを刻み、味噌汁用の片手鍋に入れる。


 後はニラと卵をごま油で炒め、塩と醤油で味をつける。温まった米に梅干しを一つ載せると、ささやかな朝食が完成した。


 狭いキッチンから六畳の部屋に器を運び、コタツ兼テーブルに置く。いつもと変わらぬ朝食を駿太は食べ始める。


 駿太は手を合わせる事も無く「頂きます」と言うでも無く黙々と食べ続ける。それはまるで、一人暮らしの者が言葉を発するのは損でしか無いと主張しているかの様だった。


 無言で朝食を食べ終え、器を洗い歯を磨く。それが終わる頃、時計の針は出勤時間を指していた。


 駿太はジーンズを履き、戸締まりを確認すると部屋を出た。同じ時間に起床し。同じ時間の電車に乗り。同じ時間に出勤する。


 いつもと変わらぬ毎日。変わりようが無い日常。今日もただ時間に追われるだけの仕事をする為に、改札に磁気定期券を入れる。


「テメェッ!誰に喧嘩売ってんのか分かってんのか!!」


 朝の混み合う改札口で、一際大きな声が響いていた。ふと声の聞こえた方に目を向けると、茶髪の柄の悪そうな若い男が、スーツ姿の中年男性の胸ぐらを掴んでいた。


 きっと肩がぶつかったとか下らない理由で因縁をつけている。駿太にはそう容易に想像出来た。


 暴行事件が今正に起きようとしていても、行き交う人達はその光景を無視し足早に歩いて行く。


 そんな面倒事に関わって会社や学校に遅刻する訳には行かないからだ。駿太もその他大勢と同じ考えであり、足を止める素振りすら見せず階段を下って行く。


 幸いここは駅構内だった。直ぐに駅員が駆けつけ、茶髪男を止めると駿太は考えていた。だがこれがもし人気の無い裏通りでも、自分は今と同じ様に無視していただろうと駿太は想像していた。


 電車を待っている間、駿太は先程の茶髪男の顔を思いだしていた。あんな公衆の面前で好き放題に暴れ叫ぶ輩を、駿太は唾棄すべき存在だと考えていた。


 だが、今年三十歳になる駿太には、そんな連中を屈服させる腕力も。理路整然と諭す弁舌力も。金の力で有無を言わさず黙らせる経済力も無かった。


 毎日繰り返される息の詰まりそうな日常。無力非才な自分。いつしか駿太は、満たされぬその鬱憤を、頭の中で消化する様になっていた。


 八両編成の各駅停車がホームに入り、電車に乗り込む時、駿太は頭の中で想像していた。先刻自分を不愉快にしたあの茶髪男に制裁を加える為だ。


 茶髪男を椅子に縛り付け、心の底から贖罪を口にするまで木刀で殴り続ける。


『いや。憂鬱な出勤途中に嫌なモノを見せられたんだ。木刀じゃない。鉄の棒にしよう』


 制裁道具の選定を終えた駿太は、頭の中で一方的な独裁法廷を開こうとした。その瞬間、駿太の意識がどこかに飛んだ。


 そこは、一面白い世界だった。


「······さあ。早く殺りなさい。一人ずつ。好きな手法でね」


 耳元に発せられた甘い声に、駿太は振り返った。そこには、一人の若い女が立っていた。


 漆黒の艷やかな髪は、腰よりも長かった。前髪は形の良い眉毛の上で切り揃えられている。両目は大きな瞳をその枠に留め、鼻筋は高く、薄い唇には真紅の紅がひかれていた。


 駿太には女が二十歳前に見えた。若く、そして美しい女だった。女は黒い和服を着ていた。長い裾で足は見えなかった。


 女は中肉中背の駿太よりも十センチ程背が低かった。そして左手にはビニールの袋を持っており、その袋からクッキーを右手で取り出し、口に運び食していた。


「······き、君は?こ、ここは一体何処なんだ?」


 余りにも質問事項が多く、駿太にはその台詞を絞り出すのがやっとだった。白い空間。四つの椅子に縛り付けられた者達。


 そして、目の前に立つ黒い和服の女。駿太の動揺をせせら笑う様に、女は口を大きく開き、クッキーを噛み砕き咀嚼する。


「ここは何処かって?冗談は止して駿太君。ここは貴方の良く知っている世界の筈よ?」


 女の声は甘い吐息のように駿太には聞こえた。勿論、女の言う通りなのは重々承知の上だった。


 だが、激しく混乱する駿太は、頭の中を一つ一つ落ち着かせる必要があった。その為の女への質問だった。


「······さあ。早く殺りなさい。一人ずつ。好きな手法でね」


 女は再びクッキーを食べながら笑った。その冷たい笑みは、駿太を後戻り出来ない道へと誘う合図だった。



 

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