3話 見知らぬ空の中で
気付いた時には大空を漂っていた。
〈は?〉
思わず大声を上げてしまった。
いや、声を出したつもりだったのだが、雷雨は自分の声を耳で聞き取ることが出来なかった。
当たり前である。彼には口がなく、耳もまたなかったのだから。
それなのに周囲の音は聞こえてくる。
つまり耳がないのに聴覚はあるのだ。実に不思議な現象である。
〈え? 何? あれ? 俺は確かに死んだはず……ヒィィ!〉
彼はキョロキョロと視線を彷徨わせ、そして無様に悲鳴を上げた。
彼は目も失くしていたのだが、幸いなことに視界は確保されていた。
ついでに言えば死ぬ前よりも良く見えるようになっていた。
前世の彼は勉強のし過ぎで近眼になりかけていたのである。
とにかく彼は悲鳴を上げた。上げざるを得なかったのである。
なにしろ自分がいる場所が、空のただ中であると理解してしまったのだから。
〈えええぇ!? 嘘! いや、何で空の中!? 空中!? 墜落! 墜落する!〉
彼はジタバタと手足をバタつかせようとしたがこれも失敗した。
なにせ今の彼には手も足もないのだ。
動かせなくても仕方がないのである。
〈あれ、おかしいな? 落ちている感覚がない。落下の感覚ってこんなものなのか? って、なにぃ!?〉
彼はいつまで経っても状況に変化がないために、ようやく落ち着いて周囲を見回す余裕が出来た。
自分は間違いなく空の中にいる。
落ちている感覚がないことから考えると、どうやら空中で浮いているらしい。
そして声を出すことが出来なかった。
あれだけ先程から叫んでいるというのに全く耳に届いていないのだから、これも間違いない事だろう。
というか口の感覚すらもないのだ。舌もなければ歯もないように思える。
耳は聞こえる、目も見える。
しかし両耳、両目共に存在していないのだ。
つまり聴力、視力は共に健在なのに、それをつかさどるはずの感覚器官が存在していないのである。一体どういうことなのか。
もっと言ってしまえば顔がない。
顔どころか上半身も下半身もない。しかし体は確かに存在している。
そんな状況で自分は空中に浮いているらしい。
……
…………
………………
そこまで考えて頭が一瞬空白になってしまった。
しばらくボーッとしてしまったが、状況は変わらず、自分はいつまで経っても空に浮かんだままだった。
耳は聞こえる、目は見える。
だから既に自分の状況は分かっているのだ。
先程自覚した瞬間に他の誰でもない自分の視界で自分の体の全貌を把握し終えているのだから。
ふんわりとした見た目の白い体。
周囲一体は抜けるような青空とくれば間違えるわけもない。
間違いであってほしかったのだが、どこからどう見ても見間違いようがないのである。
つまり自分は。
雲雪雷雨という名の十代後半の男であった筈の自分の体は、なぜか雲になってどこかの空を漂っていたのである。
〈……いやいや、待て待て。おかしいおかしい。これは一体何の冗談だ?〉
長く続いた監禁生活ですっかり定着した独り言も雷雨の耳には届かない。
いや口がないのだからそもそも呟くことすら出来ないのである。
先程からの独り言も心の中で呟いているだけなのだ。
心の中で呟いた言葉を独り言と言って良いのかどうかは良く分からないのだが。
忙しなく視線を彷徨わせても、目に入るのは抜けるような青い空と、空とはまた違う深い色をした海面だけで、他の雲も動物も、それどころか大陸の姿すら見当たらない。
視線を上げれば太陽が見えるが、言ってしまえばあるのはそれだけ。
青い空、白い雲、眩しい太陽、そして見渡す限りの大海原。
そんなごくありふれた状況描写の一端と化してしまった自分を自覚し、雷雨はパニックに陥った。
〈うわぁぁあ、あああああぁ!!〉
彼の心情を考慮したのか、それとも体が心に反応したのか。
白い雲だったはずの体はあっという間に黒い雷雲へと姿を変え、そして最終的には嵐を生み出し、海面に向かって雷を落とした。
ピシャアアァ!! バリバリバリバリ!
ビクッ! っと、自らが生み出した雷の音に驚き、雷雨は正気を取り戻す。
名前こそ雷雨ではあるのだが、雷雨は雷雨そのものは苦手だったのである。
正確に言うと雷が苦手だったのだ。だって怖いしうるさいし。
正気を取り戻して海面に目を向ければ、そこでは大きな魚が黒焦げになってプカプカと浮いているではないか。
どうやら先程の雷の直撃を受けて、こんがりと焼けてしまったようである。
プスプスと煙を上げながら海面を漂うその黒焦げ死体を見て、雷雨はこれが現実なのだと理解する羽目になった。正直信じたくはなかったのだが。
〈ふうふう、ふうふう。すーはーすーはー〉
〈落ち着け落ち着け〉と心の中で念じ、雷雨はゆっくりとリラックスしていく。
それに伴い黒く濁っていた自らの身体もゆっくりと色あせていき、しばらく経つとそこにあったのは一つの大きな白い雲であった。
落ち着くことには成功した。
現状もなんとなく理解している。
何故か自分は雲になって、どことも知れない大空を漂っているのだ。
……
…………
………………
……はっ!? あまりの意味不明さに思わず意識が飛びかけてしまった。
それなのに現状は何一つ変わっていない。
これは夢か幻か?
自分は確かについ先程、胸の苦しみを覚えて死んだはずなのに。
ひょっとしてこれはかの有名な輪廻転生という奴のなのか?
だからといって雲にはなるまい。
雲のように生きたいと、願ったことは間違いないけど。
まさか本当にそうなのか?
今際の際の願いを神か悪魔か仏が聞き届け、雷雨を雲として生まれ変わらせたとでも言うのだろうか。
考えても考えても分からない。
周囲には誰もいない。
居たところで今の自分は雲なのだから、会話が出来るとは思えないのだが。
とにかく状況が意味不明すぎて誰でも良いから知恵を借りたい。
とりあえず何か手がかりを探そう。
雲である自らの身体を動かして、雷雨は現状を把握するために行動を開始した。
ちなみに雲である自らの身体を自由に動かせることを自覚したのは翌日のことであった。
一ヶ月が経過した。
〈なっ長かった! 長かったけど、どうにか陸地に到着したぞ!〉
雷雨は雲として漂い続けて一月後、遂に海を超えて陸地へと辿り着いていた。
正確に言えば大地の上空である。
雲である彼は空を漂っているので大地の上に立っているわけではないのだ。
この一月あまり、雷雨はひたすらに海の上を彷徨い続けていた。
なにしろ手がかりが全く無い状態だったのである。
見渡す限り360度全てが一面の大海原という状況では、どこへ向かえば良いのかも分からない。
分からないから闇雲に進み、闇雲に進んでいるがゆえに目的地に辿り着けないという悪循環に陥っていた。
結局二週間程経って、〈もっと高い位置から見下ろせば良いのではないか?〉と気付いて体を上昇させるまでは、大陸の『た』の字も見えない状況だったのである。
雲の身体を大気圏へ向かって上昇させ、そこから下を見るという離れ業のおかげて、どうにか雷雨は海の果てにある大陸の存在を確認したのだ。
そしてそれからはずっとそこへ向かっていたのである。
途中で上手く風に乗れてからはスピードが上がり、こうしてようやく大地の上を漂うことが出来るようになった時は感無量だった。
〈とにかくこれで陸地に辿り着いたわけだけれども、ここってどう見ても地球じゃないよなぁ〉
雷雨の視線の先、つまり空に浮かぶ雲の下には見たこともない景色が広がっていた。
赤や青、緑や黄色、紫や銀色の輝きに彩られている深い森。
どこまでも広がる草原と、その中に点在している小さな村や少し大きな街。
険しい山々の向こうには赤茶けた大地が広がっており、巨大な遺跡や巨大な生物が冗談のように跳梁跋扈している。
〈おいおい、縮尺がおかしくないか? あのミミズみたいなの、建物の規模から判断すると高層ビルよりも大きいことになるんだけど〉
そして草原や森の中にも多くの生物の存在を確認することが出来た。
よく見ればそれは人であった。
雷雨の知る人とはだいぶ様子が違っていたのだが。
なにしろ鎧を着て剣を振り回している若者が、明らかに人ではない異形の姿の怪物と戦っていたのである。
眼下に目を向ければ到るところで同様の状況を確認することができた。
ここが地球ではないと判断するには充分な理由だと言えるだろう。
〈監禁される前に何冊か読んだことのあるファンタジー作品に書いてあったような別世界? いや異世界なのか、ここは?〉
信じられないがそうとしか考えられない。
そもそも今の自分は雲なのである。世界が違っていたところで今更ではないか。
よく見れば鎧を着た者達と共に、ローブを羽織り杖を持った人間が、火の玉や氷の塊を射出している様子が目に入る。
あれはもしかすると魔法という奴なのではないか?
つまりこの世界には魔法が存在している。
ひょっとすると意思のある雲なんてごく身近な存在だったりするのかもしれない。
なんとなく嬉しい気持ちになり、雷雨は彼らに向かって飛んで行った。
雲として漂い続けて一月あまり、いい加減誰かと会話をしたいと考えていたのである。
不思議なこの身の上を分かってくれるのは同じく不思議を扱う魔法使いしかあるまい。
そう考えた彼はゆっくりと魔法使いに近づいていった。
だが草原で仲間達と共に怪物と戦っていた魔法使いらしき人物は雷雨の存在に気付きもしなかった。
そして誰一人として雲と化した雷雨を認識できないと気付くのに、それほど時間は掛からなかったのである。
半年後、彼は今日も今日とて大陸の上を漂っていた。
自らが雲であり、人には気付かれない存在であることはとうの昔に理解している。
しかしそれでも彼は人の側にいた。何もないあの大海原に戻ったところでどうにかなるとはどうしても思えなかったのだ。
それにこちらにいた方が、明らかに雷雨は楽しかったのである。
人と会話が出来ず、話を聞いてもらえなくても、聴覚があるので音は聞こえ、視覚があるので目で見て楽しむことは出来るのだから。
最近の彼のお気に入りは、少し前に見つけた巨大な城の観察であった。
そこではたくさんの怪物や人に近い姿をした者達がひっきりなしに出入りしており、額に角を生やした偉そうな男が彼らに指示を飛ばしていたのだ。
雲が一つ常に上空を漂っていては訝しむ者も居たかもしれない。
しかしこの城の上空にはいつだって濃い雲が漂っていたので、紛れ込んでしまえば誰一人として雷雨の存在には気付かない。
まるで勇者に攻め込まれる直前の魔王城のような慌ただしさのその城の観察が雷雨の最近の楽しみであった。
少し前から城の中は緊張状態にあり、多くの怪物が必死の形相で行き来をしていたのだ。
どうもこの城を落とすために、どこかの国が攻め込んできているようなのである。
城の中はその襲撃者達への対応でてんやわんやだった。
彼らの必死な様子は失礼ながら雲である雷雨の身の上からすればこの上ない娯楽となっていたのである。
しかしいつものお気に入りの日課は唐突に終わりを迎えることとなった。
大量の人員を引き連れて城へと攻め込んできた者達が、城の中にいた者を次々と殺してまわり、遂には城の主である角つきと殺し合いを始めてしまったのである。
その他の者達は城下町を包囲して建物に火を放ち、街の住民を容赦なく殺戮していた。
その様は雲となった雷雨から見ても目を覆いたくなるような惨状であった。
襲ってきたのは人間の軍隊であった。
人間達は聞くに堪えない罵詈雑言を喚き散らしながら、幼い子供や老人までをも容赦なく手にかけていたのである。
唯一の例外は若い女性達であった。
見た目が人に近い女達は次々と捕らえられ連れ去られており、中にはその場で人間に襲われて泣き叫んでいる者もいた。
その様があまりにも不快だったために雷雨は城下町の住民を憐れみ、彼らの上で雨雲となって雨を降らせて火を消した。
ついでに、強い風も吹かせて狼藉者達を吹き飛ばし、包囲網に穴を開けて非戦闘員の撤退に協力したのである。
城の中で角つきの男性に良く抱き上げられていた幼い少女も必死な顔をして逃げていた。
生き残りの多くは無事に人間達の魔の手から逃れ、山の中に作ってあった抜け道を使い、更に奥の隠れ里へと撤退したようだ。
〈熱!?〉
そんな風に思うがままに下界の戦争に介入していたのがいけなかったのだろう。
なんと攻め込んできた者達の中で一際目立つ美しい少女が、その手に持つ剣から熱光線を射出し、雷雨の体を蒸発させたのである。
〈ちょ、まっ、ごめんごめん! 撤退! 撤退します!〉
雲である自分の体を熱で蒸発させることが出来る人間がいるなんて、この時まで雷雨は考えもしていなかった。
慌てて距離を取った雷雨は、充分離れた先にある谷の底を流れる河まで逃げることに成功した。
雲である自らの身体が熱によって欠損したのだから、水蒸気の素である水そのものを吸収すれば元に戻れるのではないかと考えたのだ。
この素人考えは上手くいき、雷雨の欠けた体はあっという間に元に戻った。
そして念のために、先程までよりも大きな体へと成長させておこうと考え、ゴクゴク水を飲んでいた時に声を掛けられたのである。
「あなたはだあれ?」
そこで始めて雷雨は出会ったのだ。
自らの存在を認識し、雲である自分に話しかけてくれる幼い少女ペケペケに。




