1話 雲雪雷雨
その少年の命は今まさに終わりを迎えようとしていた。
「ぐっ、ううう……」
彼は本が山と積まれた部屋の中で、机に突っ伏して苦しんでいた。
胸に手を当てている姿を見るに、どうやら心臓が悪いようである。
彼の名前は雲雪雷雨。
彼は江戸時代から続く名家の嫡男であった。
そのため彼は、一族の者達から過剰な期待を背負わされていた。
本に埋もれたこの部屋の異様な様子を一瞥すれば、彼の置かれている過酷な状況を感じ取ることも出来るだろう。
そんな彼の命は今まさに終わりを迎えようとしていた。
過剰なまでの勉学の強要が、彼の命を擦り減らしてしまったのである。
「まっ、まずい……。誰か……誰か……」
もがき苦しみながらも、彼は必死に助けを求めた。
しかしその声は誰にも届くことはない。
何故ならこの時間、この家には彼以外の人間はただの一人もいないからである。
なにしろここは彼を監禁するために特別に作られた、彼の一族が所有する彼専用の別邸であるからだ。
「は、ははは……。ここで終わり……か」
彼は幼い頃にこの屋敷に閉じ込められて以降、一度たりとも外に出ることを許されなかった。
こうなったそもそもの原因は、彼の両親が急死したことにある。
両親の死後、一族の存続を第一に考える親族達が暴走し、一族の正当後継者であった彼は、この狭い屋敷に閉じ込められることとなったのだ。
しかしその結果、少年は心を病むこととなり、それは体の不調にも繋がって、今こうして少年の心臓はその鼓動を止めようとしている。
もっとも一日の大半を勉学に費やさせ、少年の心をおもんばかる大人が一人もいなかったのだから、この結果も仕方のない事なのかもしれない。
なにしろ少年は知っていたのである。
屋敷の外には自由な世界が広がっており、少年と同年代の若者達は自由を謳歌しているという現実を。
たまの外出であっても認められていたのならば、少年はこれほど追い詰められることはなかったかもしれない。
しかしたまにやってくる親族に外出をお願いしても聞き入れてもらえず、少年の心は段々と追い詰められ、摩耗していったのだ。
「畜……生……。結……局、外の……世界には、出られない……ままか」
少年は自分の身に起きている事態を正確に把握していた。
若いが、いやまだ十代後半であることを考慮すれば若すぎる位なのであるが、これは間違いなく過労に伴う心筋梗塞であり、自分はもう助からないという現実を少年は素直に受け入れたのである。
今際の際、少年は窓の隙間から垣間見える空の青さに思いを馳せた。
空気を入れ替えるために取り付けられている小さな窓の隙間から見えていたのは、突き抜けるような青い空とそこに漂う白い雲。
特に雲は自らの名字に組み込まれていることもあり、少年は親近感を抱いていたのだ。
そして同時に憧れていたのである。
広い大空を自由に漂う雲のように生きたいと、少年は心底願っていた。
「せめて……来世では……雲のように……自由に……」
そう言い残して少年は事切れた。
少年の死を確認したのは、次の日の早朝に授業のために出勤してきた教師団の一員であった。
彼は少年の死を隠そうとする少年の一族のやり方に疑問を覚え、少年の弟達にまで及ぼうとしていた一族の強迫的な詰め込み教育に反旗を翻すこととなる。
結果として彼のその活動は一族の考えに影響を及ぼし、少年の弟達は兄とは打って変わって健やかに成長することが出来た。
しかし彼は優秀な生徒であった少年を死なせてしまったことを一生忘れることはなかったという。
なにしろ彼は思いもしなかったのだ。
過労の果てに心臓を病み、死亡してしまった自らの生徒が、異世界で文字通り雲として復活しているなどということは、想像も出来ないことだったのである。