第42話 現実世界:逆原真緒について
逆原真緒は秀才であった。
彼女自身もそれは自覚していた。
高校で友人と人工知能に対するセキュリティ難問の論文を書き上げ、大学ではその分野の研究を行った。
院卒業後は高校からの友人と共に世界最大のセキュリティ企業『ノーマンハック社』に入社。
20代にしてそこのセキュリティ開発部門のメインマネージャについた。
英語を始め、数ヵ国の言葉を操り、客観的で正確な観察と合理的な説明で、停滞していたセキュリティ開発部に風穴を開けた。
当初は若輩がと馬鹿にもされたが、開発部は根っからの技術者が多く、すぐに逆原の実力は理解され歓迎された。
セキュリティ開発部に続く長い廊下を歩きながら、真緒は幾つかの事に頭を巡らせていた。
黒いタートルネックのセーターと同じく黒いパンツスタイルの真緒は、身長もさることながらそのプロポーションもずば抜けたいた。
胸の形が浮き出るようなぴっちりとした服にすらりとした長い足。
彼女を知らない人間が見れば思わず目を奪われるような女性である。
セキュリティ会社という堅い組織の中、スーツを着ることなく闊歩できるのは、セキュリティ開発部だけである。
他の社員はだらしないと冷たい視線を送るが、むしろ同じ部の全員がそれを歓迎した。
ちなみに、この例外的にスーツを免除するように動いたのは真緒がメインマネージャについた時に行った最初の仕事だった。
たったこれだけで、彼女は部の多くの社員の心を惹きつけた。
首から下げている社員証を通して、セキュリティ開発部に入る。
職場にいる大勢の人間に誰も挨拶をすることなく。彼女は席についた。
この誰もが羨む美貌の彼女を、セキュリティ開発部の男性は誰も口説くことはなかった。
それは、彼女が絶対に自分に惚れない事を知っていたからだ。そして、彼女がここ数日不機嫌だろうことも、同じ原因で理解していた。
朝から数人が作業の進捗と問題点を報告しに立ち代わり逆原のデスクに行く。
それをいつも通りの笑顔でこなしていく。
それがいつも通りだからこそ、周りの人間は困っていた。
絶対に機嫌が悪いはずなのである。
が、それを表に見せないからこそ、逆に不安になる。
また、今日も昨日と同じように昼になる。
昼のチャイムがなると同時に、部屋に金髪の女性が入ってきた。
絹のように細かく真っ直ぐな髪と白い肌に際立った目鼻立ち。けれども、きつい印象は一切受けない。茶色く大きな瞳に赤い唇は笑みを浮かべていた。
「紅茶を淹れましたわ? ご一緒しません?」
「もう少し仕事したいから後がいいわね」
「お昼ですわよ?」
「キリがあるのよ」
「では、待ちますわ」
彼女の名前はリラーレン・ノーマン。
ノーマンハック社の現統括執行役員の愛娘である。会社広しと言えども彼女をそばで待たせて仕事をするような輩は、真緒を除いて他にいない。
「ソリティックノーツ社の件、今日ですわよ?」
「あれ、今日だっけ」
逆原はしまったと頭を掻いた。
予定を忘れるのは珍しい。
「セイエン、ステイ。昼休みにごめんなさい。
少し来てくれる?」
2人に手短に午後の引き継ぎをした。
「休みは延ばしていいから、後はお願いね」
「どこか行かれるのですか?」
「えぇ、ソリティックノーツ社の技術監査にね」
「サカハラマネージャが行くのは珍しいですね」
「個人的に行くだけだしね。
それも、リラーレンの力で」
ソリティックノーツ社はノーマンハック社の子会社であるから、その力は及ぶ範囲である。
「何か問題でも?」
「これから、起こる可能性があるかもね」
優秀とは言え逆原がソリティックノーツ社に顔を出すのは異例中の異例である。
みんな、少なからずそこに興味がある。
何気ない会話を装いながらも周りは好奇心満々で聞き耳を立てる。
「経営面ですか? 技術面ですか?」
「あはは、経営面で口を出すほど、私は偉くないわよ。それに、そういう問題はリラーレンも私を呼ばないでしょ?」
横でリラーレンが「そうなんですか?」ととぼけた顔をする。
「聞くところによると、ソリティックノーツ社の開発メンバーは優秀だと聞きますが」
「そうなのよね。
こういう時に、あいつがいてくれたら……」
「そうですね……」
珍しくこぼした逆原の言葉に、セイエンもステイもそれ以上、言葉を続けるのを戸惑った。
「分かりました。
後は任せて下さい」
「助かるわ。午後はよろしくね」
そう言うと、真緒とリラーレンは部屋を出ていった。
それと同時に、部の全員が一斉にセイエンとステイの近くに集まってきた。
「で、どうなったって?」
「いや、わからないよ。
ソリティックノーツ社で技術問題があったみたいだけど、
どうも公開されている問題じゃないっぽいな」
それなら、わざわざノーマンの力を使う必要はない。
「っていうか、ミスサカハラもいつも通りに戻ってほしいぜ。
この空気耐えられんぞ」
「いや、ミズはいつも通りだろ。
だから、俺らが困ってるんだ」
「あんたらね。
人の色沙汰に口挟まないの。
サカハラもいつも通りに振る舞ってるじゃない」
「でもなぁ」
「分かってるわよ。
なんで、あの人は急に辞めたのかしら」
話題がソリティックノーツ社の話からいつも通り逆原の話になった。
「俺、下で見たぜ?」
「おい! それ、いつの話だよ!」
「そういや、辞めたって聞いた日だったな。
下で警備員と話してたぞ」
「見間違いじゃないのか?」
「この会社を私服で来るやつなんて見間違えるはずないだろ」
そして、話題は辞めていった人の話へと移った。
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