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ジョイ・ガーデン  作者: 空渡 海駆
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深淵の少女

 深淵の少女

 遠き日を思い出していた。

 或る者と彼の者は生きている。そんな馬鹿げた話を、誰も聞き入れてはくれなかった。

 それもそうだ――二〇〇年生きる人間を人間とは言わない。人はどんなに長く生きても半分の一〇〇年と少しがせいぜいだ。ましてや二〇〇年なんてのは、他種族以外有り得ない。心臓というのは産まれながらにして呼吸回数が決められているからだ。だから大きい生き物ほど一呼吸で取り込める酸素が多い分、呼吸間隔が長く小さい生き物より長生きが出来る。俺はそれを知っていた。知っていながら、敢えて逆説を唱えた。それは或る者と彼の者、二人が生きていて欲しいと願った故の、ただの幼心からなるエゴなのだろう。

 受け入れたくなくて、理屈を覆したくて、そんな子供の我儘一つで、俺は『旅』とは到底言えない家出をした。

 そう、あれはたしか――――。


「んぐっ、っくう!」

 少し気絶していたらしい。

 さすがに五〇層――約三〇〇メートル――から落ちれば、人は凄絶な死を遂げる。そう思っていたのが、何をどうやったか知らないが生きていた。全身は猛烈な激痛に追われてミリ単位と動かすのは危険なのだが……。

 かといって現状からは今の状況の整理もしようがない。なぜなら気が付いた俺は、無数の蔦に絡まり、自力で解くことも困難なのだ。

 幸い肉食植物ではないらしく、動きが無い所を察するにただの植物のようだ。

 さて色々な事がある今日なわけだが、一つだけ分かる事がある。それは今いる場所だ。

 何を隠そう足がひとりでに動いてしまったのだ――【秘境エリア】に向けて。

 気絶したせいか、俺を突き動かしていた『誘導』『衝動』のような異常活性化が肉体から感じられなくなった。

「そうだ、【(そう)世紀(せいき)】は――」

 ヴォングが創り上げた傑作の所在を確認する。

 ――俺の記憶が正しければ最後に見たのは右手のはず。

 不運にも右手は体の後ろに回っているせいで視認出来ない。激痛を堪え右手にグッと力を込めた。するとビキビキと神経が軋み、痛みに根を上げる。

「んぐうッ、おおあああ!」

 呻きを堪えられずたまらず盛大に唸った。おかげで激痛と引き換えに、右手の人差し指に確かな感触があった。どうやら握れてはいないが、同時に蔦に絡まってくれたらしい。

 右手の指先に得物の感触が確かに伝わる。

 しかし安堵するにはまだ早く、不安要素しかないこの状況ではあるが、武器の有無はその場をかなり左右する。取り敢えず得物が近くにあるだけで安心感この上ない。

 痛む体を無理に動かすという行為は、筋肉の繊維を破壊する事に他ならない。特に牙獣の気配もない今、リスクある行動は得策ではないだろう。

 ――しばらくこのままでいるべきだな。

 それから沈黙を生む。蔦に絡まった状況で目だけを周囲に光らせながら。そんな緊張の糸を切れない時間の中でも、俺は確かに【秘境】という大自然を感じていた。

 長い蔦は幹から幹へと複雑に絡み合い、葉枝の散乱する湿った地面は生き物の蹄で所々窪んでいる。たまに聞こえてくる獣の鳴き声は野太く、時折甲高い。

 こうしている間にも、教科書で見た事のあるユニコーンに似た草食動物【イッポンツノオークス】や、人間の先祖とされる【エリアルモンキー】なんかが俺の真下を通過する。

 俺の目の前を垂れる蔦、その蔦を行軍する者達を見つけた。一匹の大きさが凡そ五センチにも上る、蟻の中の最大級個体【ジャイ・アント】だ。個体の数と大きさ、物量に物を言わせたパワースタイルの狩猟姿から、付いた二つ名が【小さき暴風】。

 幸い獲物から肉を千切って運んでいる最中なのか、俺には目もくれない。

「捕食されたヤツには感謝をしなければならないな……」

 遭遇する順番が逆だったなら、恐らくあの肉片になっていたのは俺だっただろう。

 冷や汗が一筋、唾を飲み込む俺の頬を伝った。そうだ、遭遇する順番一つ違っただけでその後の運命が大きく変わる。そういう土地に、俺は来てしまったのだ。

 全てはあの言葉を聞いてか……だが後悔はしない。それに釣り合う程の価値を、俺は今感じているのだから。

 ――十分休めた。まだ多少の痛みは残るが、後はアドレナリンが分泌されれば何とかなる。

 何より、危険というのは何時襲って来るか分からないから危険なのだ。前もって準備が出来ればそれは危険でもなく、脅威にもならない。それに、その場に居たからといって危険生物と遭遇しないわけでもない。

 出血をしていれば、鼻の効きが良い狩人(ハンター)に血の臭いを感知され、直ぐに襲われかねない。

 どちらにせよだ。動けるようになったのであれば、この状態から抜け出して先へと進む。

 それ以外に道はない。不幸にも【城壁】に門は存在せず、高層部でなければ滅多な事が起こらない限りは窓を開けない決まりになっている。つまり、退路は存在しないのだ。

「ふん、……っくあ!」

 ヴォングの言っていた言葉を思い出す。『剣であり、刀でもある』だったか。

 もしも俺がこの身動き取れぬ状況で、どちらかを所持していたとして、指を使わずに活かそうとするなら――。

「っくうおおお、これでっ……どうだ!」

 歯を食いしばり、体全体を上下に揺らす。背中に硬い物が当たると、やがてその感触が次第に沈み落ちていく。

 渾身の力で反動を付け、最後の一押しとばかり、全体重を背中の得物へと乗せる。

 すると【想世紀】の刃先が蔦を切り裂く。絡め取られていた俺は得物諸共、地面へと叩きつけられたのだった。

「っくう――――おおあああああああ!」

 悶絶。ただでさえ木の上から落ちたのだ。どんな鉄仮面だろうと、全身に痛みを抱えたまま地面に強打すれば絶叫の一つは上げる。

 無論、俺は鉄仮面でもなければ無機質な木偶人形でもない。当然絶叫を吐き出した。

 これだけ声を張ればいつ襲われてもおかしくないが、逆にそうでもしなければこの痛みの捌け口が見つからない。

 唯一、人間としての防衛本能が、俺に地面に転ぶ【想世紀】を手に取らせた。

 俺を吊り上げた蔦を巻きつける巨木。その野太い根元に背を預けると、浅い呼吸を何度も繰り返し視線を左右へと泳がせる。まだ太陽は傾き出したばかりだというのに、陽の光は蔦や木の葉に遮断され、奥地は薄暗い闇が続いていた。

 その奥地からは、グルルという獣の唸り声が聞こえてくる。

 まるで地獄からの凶声か……。

 ――引いたところで道はない、なら行くしかないよな。

 重い体に鞭を打ち、右手に握る力を込める。萎え気味な足で一歩、また一歩と歩を進め湿地を踏み締め前へと進む。歩く度に水分を含んだ土が靴裏にひっつき、その煩わしさが精神を煽って仕方ない。

 普段の俺なら未知の冒険に、きっと一入の思いと気持ちの高鳴りを覚える事だろう。

 だがそれさえも感じないのは、恐らく全身が生暖かい風と、蒸した湿気に嫌気を差しているからだ。

 しばらく歩いていくと、流水の音が聞こえてきた。深緑の大きな草を掻き分けて、導かれるように足が自然と進んでいく。

 考えてみれば今日は、まだまともに水分すら取っていない。丈の長い雑草がこれでもかという程、行く手を阻んできた。しかし俺はその全てを踏破し、高まっていく大きな水音に心を踊らせた。

 それから俺は来た道を忘れない為の目印一つ残さず、いつしか水音という夢に魅せられ密林の奥へ奥へと引き込まれていった。

 その異変に気付いたのは、歩けど歩けど一向に見えてこない水を求め、密林を歩くこと数時間の事だ。と言っても正確な時間は分からないが……。

 太陽は既に沈み始めた。これから漆黒の闇が訪れる事を示唆する夕闇が、僅かに葉の間から覗いて見える。飲み水を求めた俺が、安易に取った行動の代償だった。

 今になって自分でも気付く。完全に過信していた。

 何度も協定内エリアの森に入り、山を登り、海を泳ぎ、大自然を相手に場数を踏んだ事で自分は凄いのだと、勝手に己の中で酔っていたのかも知れない。

 自然を相手にするという事はどういう事か、ここへ来てようやく認識させられてしまう。

「まずいな、さすがに夜を前にして準備不足が過ぎる……」

 夜こそ狩人の狩猟時間。こんな所に一人呆けていてはカッコウの餌にされてしまう。

 そう考えると、自然界からの視線が急に恐ろしく見えてきた。すぐそこの茂みからは何かがこちらの様子を覗き込んでいるだとか、木の木目が顏に見えたりだとか、本当に些細で普段気にしなくていいものまで途端に神経過敏に反応してしまう。

 生き長らえる可能性を高めるべく、少しでも夜に備えるべきか。あるいは【秘境エリア】のどこかで助けを呼んだあの声、あの主の元まで意地でも歩き続けるか。

 冒険や救出にはリスクが付いて回る。そしてそれは時に助ける命以上に、更に多くの命を犠牲にする事がある。そうやって犠牲になった多くの者達以上に、その救われた命に同等の対価が得られるのであれば、人の善意というのはきっと意味あるものに変わるだろう。

 今の俺にとって、はたして自分の命以上に助けを求めた声の主を救う事が、それに該当するだろうか。

「はあ……助けに行って死なれて居ても後味が悪いしな」

 答えは否。そんなの我が身可愛さが一番に決まっている。まして絶世の美女ならば話は別だが、あいにく姿形は全く知らず、性別や名前すらも分からない。

 そんな他人と自分の命が釣り合うはずなど、当然を付けるまでもなく決まっている。

 しかしだ――俺がここへ来たそもそもの目的を考えてみよう。『助けて、お願い』その言葉一つで勝手に体が動き――もしかすると誘導され――今に至る。ならば、なぜこんな事をしたのか。なんでこんな所にいるのか、その点に関してを問わねばなるまい。

 ――こんな神秘をその血で汚すというのであれば、いっそ俺が白耀海(はくようかい)にでも投げ捨ててやるからな……。

「助けには行ってやる、だから待っていろ」

 御人好し。偽善者や博愛主義者の世渡り上手を世間ではそういうらしい。

 妬ましい者達の悲鳴と言えばそれまでだが、今の俺がそれに値するならば、カルディオはさぞ驚くはずだ。何せ、俺がその御人好しなのだから。

「今行く」

 夜の帳に身を暗ませ、獣ひしめく地獄の密林を歩く事を選択する。

 たまに揺れる草木、視界を奪われた暗黒の障害に身を裂きながら。


  2


 どっぷりと沈み失せた太陽。そして一点に煌めく月光が闇に浮かぶ。空は既に夜へと変わった。日中の優しさなど微塵もない。四方八方から貫く視線で射抜かれる恐怖。

 それもきっと何時襲い喰おうか、という完全なる補食の対象に向けたものだろう。

 ――ここを死地とはしたくないが、どうやら腹を括るしかない。

 右手の【想世紀】を盗み見る。少しでも気を緩めれば、瞬間的に牙獣種に頭を噛み砕きかれない。いやもしかすると、こうしている間にも、肉食植物の根が俺の足元へと忍び寄っているかもしれない。

 かといって想定はしておいて損はないが、警戒のあまり畏縮しては意味がない。

 どうせ狙われているのならいっそ開き直るべきか――。

「前から来るぞ(イエラォット)、屈め(フェイ)!」

 俺は思考に意識を駆られ、その見せてはいけない隙をいつの間にか作ってしまった。が、どこからともなく聞こえた声により、その言葉通り思わず従ってしまう。

 的確な指示の甲斐あってか、正面から闇に紛れた大型牙獣種が、木々に覗く月明かりから獰猛な牙を剥き出し飛び掛かって来た事に気付く。声が無ければミンチとなる所、なんとか回避に成功した。

 しかし肝心の声の主の姿は見えず。奇襲を失敗した事で大型牙獣種は唸りを上げて、俺に対峙する。

 ――いっそ今の奇襲で殺されるべきだったかな……。

 隻眼にギラつく眼光からは明確な苛立ちが見てとれる。暗闇に居ながら鮮明に分かる気配の強さに、背中を走る悪寒と、全身を駆けるアドレナリンが止めどなく溢れ出す。

「こんな事になるなら、もっと気楽に生きるべきだったかな」

【想世紀】を構え、そこでようやく覚悟を決める。牙獣種との戦いを。

「グルウアアアアアアアア!」

 僅かな距離でけたたましい咆哮が上がる。それは人を怯ませるには十分過ぎる威嚇で、生物的な死の予兆を感じさせる。全身を硬直させるには持って来いの比類無き武器だ。

 例外なく俺の足も竦んで動かなくなってしまう。だが大型牙獣種にも、俺が自らの力に過信したのと同様、相手が人だという事に完全な優越感を抱いている。

 それは視界に頼らずともすぐに分かった。理由は簡単、なぜなら咆哮の後に大型牙獣種が俺の側を歩き回っているのだ。臭いを嗅ぐべく鼻をスンスンと鳴らし、俺がどんな心理状態にいるかのを知ろうとしているのだろう。

 また別の意図として生物における本能的に、これから食す相手の臭いから一体どんな味がするのか、果たしてこの獲物は毒持ちではないか、など至高と危険をハッキリと線引きする為の行為でもある。普段ならこんな行動を取る事はない。そもそも、それ程の余裕というのが自然界での生死を分けた戦いにおいては存在しないのだ。

 しかし、相手が人間ならば話は別。人には理性がある分、恐怖という感情を抱く。人を捕食対象に選ぶ肉食動物というのは、その辺を完全に熟知している。

 戦意を失っている相手の心を折る事など、彼らにとっては造作も無いことなのだ。だが、それこそが俺の言う最大の過信だったのだ。

 瞳を閉じる。動物というのは人以上に洞察力が高い。故に視線を合わせてはいけない。

 ――一瞬の内に殺す為に。

「ここだっ!」

 臭いを嗅いでいる大型牙獣種の鼻先より少し上、狙い所としては眉間の辺りを狙う。腹や首元を刺した所で、一撃で殺すことは出来たとしてもすぐに死ぬわけではない。

 だからこその眉間である。脳の機能を完全に破壊しつつ平衡感覚を奪うのだ。

 嗅ぎ寄る鼻の高さと足音の数から、おそらく対峙しているのは四足歩行。

【想世紀】の薄刃が生み出す『切れ味』。剣ならではの技『刺突』。融合した二つの真骨頂が、ブチブチという血管の千切れる音を盛大に響き上げ、耳一杯に不快感を与えてくる。

「グル……ガア、ア……」

 不意を突いた痛烈な一撃に、たまらずのたうち回る大型牙獣種。その場を飛び退いて暴れ回る巨躯が闇夜に蠢く。月明かりに反射した得物を目印に渾身の力を加えた蹴りを見舞う。ズブズブと音を鳴らし、刃先を眉間へと食い込ませていく。そのダメ押しの一撃は大型牙獣種の息の根を止め、重々しい体躯を地面へと倒れ込ませた。

 地に伏す大型牙獣種の毛並を撫でる。姿は暗く不鮮明ではあるが、ザラザラとした硬質の毛先に、隻眼の四足歩行。資料で見た事がある、確か【ベオファングレオ】と言ったか。

「すまない、永久に眠れ」

 光を失った隻眼の瞼をゆっくりと閉じる。緊迫からの解放が口から漏らした一言だった。

 周囲から光点を二つ覗かせる狩人達は今何を思うだろうか。大型牙獣種を殺した人間をどう思うだろうか……。

 弱ったと捉え好機とばかりに襲い掛かって来るか、ここまで俺が強いとは想定外で退いてくれるか。どのみち俺にその選択を待つ暇は――――。

「ゼアアアアア!」

「な、なん――だ……ごふっ」

 大型牙獣種に背を向けて先を進もうとした矢先、突然聞こえた大声と共に首が固い何かにより締められた。初撃で俺の呼吸を止め、いったん固い何かを引く。すると俺が肺に溜まっていた酸素を一気に吐き出し、再び空気を求めて大きな吸い込みを行う。しかし二撃目がそれを許さない。肺の空気を吐き出した状態で、再度固い何かに首を締め上げられた俺は、すぐに呼吸困難必死の状況へと追いやられた。

「答えろ(ハルシャクス)、ポーラを何処へ隠した(バリス ィエッダ ポーラ)」

 視界に映らぬ相手が言葉を発する。先に俺に指示を飛ばした声と同一の声だ。

 その声はどうやら俺の首元辺りから聞こえている。となると、固いものというのはこの者が所持している武器による拘束か。

 それよりも、言語に注意を向けた。俺の話せる言葉、理解出来る言葉の中に、その言語が存在するのだ。

 ――まさか何度も足を運んだ森ではなく、半無意識下の誘導衝動で来てしまった【秘境】で会えようとは。

「答えろ(ハルシャクス)、ポーラを何処へ隠したと言っている!(バリス エッダ ポーラ エステイア!)」

「こ……この言葉、やっぱり間違いない!」

〈アルテムフォレスト〉の防人にして、人間が最初に種族間協定を結んだ種族。ユーナ教諭曰く、森の番人【エルフ】だった。

「答えなければ(ハルシャクセイム)、殺すまでだ(ダイ エイドゥ)」

 脳に血が行かずまともに思考も働かない。それ以前に、喉を閉められたままどうやって答えろというのか。

 威厳の塊であるエルフ族は、秩序や規則・条約に対しとても厳しい。故に堅物な頭の者が多く、猪突猛進な性格でもある。

 ――そ……そろそろ、限界……。

 視界がグルグルと歪曲し始める。酸素欠乏症の予兆だ。意識が薄れゆき、霞んだ視界で両手をもがく。

 すると、もがき苦しむ俺の手の平にとても柔らかな感触が当たった。

 ――な、なんだ。温かい……。それに優しい感触だ……。

 少し指に力を加えると、たちまち指が沈んでいく。その感触がたまらなく心地良い。ある種の中毒性を秘めているとも取れよう。

「んあ……何を……」

 艶やかな嬌声が、時折耳を撫で詰る。それはどこかこの包み込まれる感触に似ている。

 ――もっと聞いていたい。もっと感じていたい。この世の神秘というのが、このもっと先にあるのなら、俺はそれを掴みたい!

 死ぬならば、最期くらい温もりに包まれた中で逝くのも悪くない。

 その一想いのみでその感触を大いに貪る。指先に入る力は次第に強まり、それに比例し嬌声もどんどん大きくなっていく。

『や、やめっ、くうううう、もう限か――あ、あああっ、何か来ちゃう』

 俺の脳はこの感覚に全てを注ぐ、その事だけに一点集中している。

 何が限界とか、何が来るとか、そんな事は最早二の次だった。

 ――どうせ死ぬのなら、俺はその限界を突き破り死んでやる!

 肺。ではなく全身を巡る酸素を、喉へと集め振り絞る。初めて抱く感情一つで、心のままに声を絞り出した。それに伴って顔を真っ赤にした俺の指先が、ビクビクと痙攣する。

「うおおおああああ!」

「待って、待ってって、ひひゃああ、待て待て待て」

 頭が真っ白になった瞬間だった――。

「んあ、あああああああああああああん!」

 


 どれほど気絶していたのだろうか、いや……まずは生きている事に驚くべきか。

 そう思ったのは、噂で聞いた天国と呼ばれる死者の楽園――ではなく、穴ぐらにしては極端に小さいが、上手いこと形の成された穴の中だった。

 横になる俺の目の前には、パチパチと音を立てて燃え盛る火が小枝によって、程よい勢いと温かさが空間を包んでいる。気付けば懐には、大きな葉を皿をとして、ごろごろと積まれた色とりどりの果実達がたくさんある。

 状況を把握する暇もなく、女性が俺を呼んだ。

「気付いたか……」

 俺を助け、そして殺そうとしたエルフの女性だ。本来ならば泣いて喜ぶ場面だというのに、悲しくも場の空気はそれを許してはくれない。

「……さっきはすまなかった」

 申し訳なさともどかしさで下を俯くエルフは、固く目を瞑ると一言そう言った。

 拳をきつく握り固めている。そういえば先にも、「答えろ(ハルシャクス)」と言っていた。恐らく何かを求めていたのだろう。

「こちらこそすまなかった(オースド ニア)。俺はサイカ・エクリプス(ミア サイカ・エクリプス)、〈オルテア(オルテア)〉の学生だ(イレイズ)」

 とりあえず、というスタンスでエルフ語の自己紹介をする。すると自責の念を抱くエルフ族の女性が、口を『ほ』の字に開き、呆け面で驚いていた。

 学生でエルフ語をマスターしている人間は少ない。そもそもの話で挙げるなら、条約関係で仕事をするような族使官でもなければ、そもそも外種言語は必要としない。なので【ガッコウ】でも必須科目に設けてはおらず、自主的な補講により勉強が可能な程度なのだ。したがって森や山に入る者の大半が、日常会話はおろか言語の聞き取りすら危うい者ばかりなのである。

 それよりもエルフの女性の顏がようやく確認出来たことに安堵する。

 ずっと暗い所に居たり、下を俯いていたりと、ちゃんと顏を見る事が出来なかったので、初めてみるエルフへの期待が無駄に高まっていたのだ。

 髪は焚火に揺れ、金にも朱にも見えるがおそらく精彩なクリーム色かレモンイエロー。

 瞳は水晶の如き碧眼で、潤いをたっぷり含んだふっくら重厚な唇はとても甘美。人間の服とは違い、葉を繋いで造り上げた服装は大自然のワイルドさを感じさせ、健康的な肌の露出を高めている。その露出する肌成分には果実みたく艶を際立たせ、ミルクのような穢れ無き純白の肌を曝け出している。

 見惚れるな、という方が到底無理な話である。

「ん? 学生でエルフ語をマスターしているのが、そんなに珍しいか?」

 呆気に取られていたエルフの女性は、被りを振って今度は下から睨んでくる。

「悪い悪い。それよりもありがとう、君のおかげで助かったよ。あのままじゃ挽き肉にされていたからな」

 ケラケラと笑う俺を見てか、観念した様子でエルフの女性もつられて笑う。

 俺達は人間とエルフ、異種族という間を越えて、ようやく打ち解け始めた気がした。

「私はエレオノーラ。エルフ族防人部隊隊長だ」

 エルフ族部隊隊長。どうりでさっきから外が静かなわけだ。種族間協定の勲章において部隊隊長という格位が存在する。条件は魔獣や聖獣と呼ばれる強獣を狩ること。

 つまり目の前に座るエルフの美女エレオノーラも例外なくその強獣を狩った強者という事になる。

 だとすれば如何に【秘境】の凶獣達と言えども簡単に手を出すことは出来ない、ということだ。もしくは既に粗方倒してしまったか、何れにせよその二通りだろう。

「やっぱり凄いなエルフってのは、こんな綺麗なのに部隊長クラスなんだもんな」

 改めてこの世界の不思議というのを痛感する。腕の太さや外見の筋肉の付き方なら俺やカルディオの方が明らかに逞しい。というより、普通に細い。人間の部類で見ても、エレオノーラの肉付きは間違いなく華奢な方だ。

 俺はその美貌に思わず見惚れ、人語で返答をしてしまった。

「い、今なんと言った!」

 やはりエレオノーラの方は人語を分からないらしい。そうと分かると、途端に悪戯心が沸いてくる。俺は悶々とするエレオノーラに人語で質問をしてみた。

「年齢は幾つだ?」

「え、ネ……ネンレイ?」

「好きな食べ物、嫌いな食べ物はなんだ?」

「スキモノ……? キラモノ……? ……何だそれは(イエ ワルク)?」

 たどたどしい人語を懸命に話すエレオノーラが、面白可笑しくてたまらない。

久しく忘れていた童心を思い出したように声を上げて笑う。そして冗談としての最期の質問を投げ掛けた。

「好きな人とかいないのか?」

 なぜそんな事を聞いたのか――。その質問に何か意図があったわけでもない。単純に口から出た言葉だった。だが、もしかするとその時の俺はきっと、カルディオ以上に変な虫に毒されていたのかもしれない。

「スキ……ヒト? ンー、サイカ?」

 俺の名を片言でなぞるようにエレオノーラが呟いた。

 人の中で好きな人は誰ですか、と。人外種にその質問をして、その者以外に親しい者が居なければ、消去法以前に一択しかないのは目に見えている。だから聞いた者の名を上げるのは何ら可笑しくない。むしろ当然の回答とも言えよう。

「そうか、ありがとう」

 小首を傾げ、おぼろげに俺の名を呼んでくれたエレオノーラに感謝を述べる。

『深い意味はない』と付け加えると、エレオノーラは綺麗な瞳を純真無垢に輝かせ、キョトンとしていた。そんな姿に愛おしさを感じながら、一転した質問をする。

「そういえばエルフ族の女性が一人こんな所で、一体何をしていたんだ?」

 当然和やかな空気なんかは、ガラスの如く砕け散った。

 しかしこれは俺が聞きたかった本題でもある。探している者がいるというのであれば、それは俺も同じ。まさかとは思うが、エレオノーラが衝動一つでこの【秘境】に来たとも考えにくい。

「ああ、実は仲間を探している……」

 それからエレオノーラが明かしてくれたのは、人間の醜さ極まる内容だった。

 ある日、エレオノーラと愛弟子のポーラという部隊兵が共に〈アルテムフォレスト〉の見回りをしていたらしい。

 しかしそこへ、複数の人間が罠を張って待ち伏せていたのだそうだ。態勢を崩され身柄を拘束されたエレオノーラを助ける為、必死に抵抗したポーラは、なんとかエレオノーラの拘束を解くのと引き換えに、人間達に捕縛されてしまったそうだ。それから〈オルテア〉や〈ルーテ山脈〉を探したものの、結果は見つけ出せず行方不明となった。そして危険と分かっていながらもポーラを探すべく、【秘境エリア】にまで捜索の手を伸ばしたのだそうだ。

「なるほどな、それは見過ごせない問題だ。それにとても大変だったんだな……」

 これは〈人攫い〉と同系の〈異種攫い〉。〈オルテア〉近辺の種族間協定を破る者の中には、主に森の【エルフ】、海の【人魚】、山の【半妖弧】などの女性種を対象にした専門の〈人外攫い〉を行う者達がいる。

 人間の女性と同様の仕打ちを行う他、希少種の個体に対しては莫大な競り値が付けられる事で〈闇商〉でも有名だ。そして人外種の女性にとっては悲報となるが、過去に妊娠した事例も存在する。即ち人外種と人間とのハーフという事になる。そしてその子はより希少種な混合種として新たな超高価で競り売られる。母子関係など一切挟まない、実に卑劣極まる行為だ。

「ああ、だが私の力ではもう……ポーラ……」

 心が折れかけ再び俯く。如何にエレオノーラの力が強くとも、居場所が分からなければどうしようもない。眉間にシワを寄せ、しばし悩む。

 そんな俺の横でエレオノーラはただ伏せ込むしかなかった。

「探せないわけじゃない。それに可能性も低い。それでもやれるか?」

 微かな希望を抱かせるのなら、それを摘み取る責任もまた己が責任。思う所あった俺は、エレオノーラに希望を抱かせた。

 確証無きモノというのは、安易に口走るものじゃない。そう分かっていながらも、今出来る最善の策というのを講じる為、俺は一身にその重責を担ぎ上げる事を約束した。

 すると、エレオノーラが藁にも縋る想いで詰め寄ってくる。その顏からは余裕は見えず、一切の犠牲をも厭わない、そんな心情を滲ませていた。

「頼む、サイカ……どんなことでもする。私の全てをくれても構わない。だから、ポーラを助けてくれ!」

 涙腺の限界に達した美しい瞳から、堪え我慢していた涙が溢れ落ちる。この数日間、きっと誰にも頼れず一人孤高に戦い抜いて来たのだろう。〈オルテア〉で言葉も通じず、右も左も分からない。山を登っても他種族はおろか、動植物すらも見当たらない。精魂尽き果てる寸前にいながらも、決死の思いで【秘境】の脅威と戦い続ける。

 並みの精神ならばとっくに折れているであろう心には、癒しと希望があまりにも枯渇していた。人は誰かに支えられなければ生きていけない。しかしそれは人以外にも当てはまる事で、生き物というのは自然にありふれる者達によって支え生きていられるのだ。

 たとえ強獣を狩れるだけの強者であろうと、そこに例外はない。

「ああ、もちろんだ。と、言いたいが今のエレオノーラに必要なのは、最優先に休息だ」

 俺の言葉に対し、エレオノーラが「しかし」と言い掛けた。だがしばらく間を空け、心の中で咀嚼する。すると今度は緩やかな笑みを見せ「心のどこかでそういって欲しかった(ニンフ セイ イェッダ ホップ)」と、素直に一言呟きゆっくりと瞳を閉じた。

「おやすみ(シーク)」

 暴力的なまでに魅惑の肢体を丸くし、スヤスヤと小さな寝息を立てるエレオノーラを、俺は夜が明けるまで見守っていた。

 

  3


 薄霧立ち込める密林はまだ冷える。肌の露出が多いエレオノーラは一体どんな体の構造をしているのだろうか。震える体を無理繰りにでも温めるべく、体操や腕立て伏せ、モモ上げなんかを息が上がるまで行った。

「よし、温まった。それに良い朝だ。願わくは今夜も野宿は避けたいな」

「おはよう……サイカ」

 草の葉を頬にくっ付け、寝ぼけ眼のエレオノーラが穴ぐらから出てきた。

 所々ピョンとはねた寝グセが、昨日まで根付いていたしっかりとした堅物なイメージのエルフ族――もといエレオノーラ――の印象を大きく変えた。

 不覚にもそんな姿に可愛いとさえ思ってしまう自分がいる事に、感情の変化を感じずにはいられなかった。

「おはよう、エレオノーラ」

 手際良く草葉を紡ぎ、水溜めとした受け皿に霧が水滴となって葉を零れ落ちる。

 寝て起きる頃には皿一杯に貯水されるエルフ特製の葉皿。それに貯められた水で顏を洗ったエレオノーラが、頬を膨らませながらこちらを睨んできた。

 何か物言いたげな唇からは、何も発せられる事はなかったが、顏にその言いたい言葉が書かれている。

『寝グセ見て笑ったでしょ』厳格でストレートな性格は、顏を見れば考えている事が分かる程単純な性格だった。

 時間を掛け、簡素ではあるが長期戦となる今日の準備を整える。食料、武器、目印用の結び合わせた長大な蔦。今出来る準備としては上出来だ。

 十分な睡眠とそれなりの英気を養ったエレオノーラが勇ましい表情で歩み寄ってくる。

「俺達の目標は大きく分けて三つある。まず俺の助けを求めている者がいる。ソイツを助けよう。その後これはかなり危険を伴うが、ある感染者を探す。その感染者が今のポーラにとって、とても貴重な存在になってくるんだ。そしてその感染者を確保次第、至急ポーラ救出に向けて動き出す!」

 俺の言葉を聞いて途端に不安を抱き始めたエレオノーラは、眉をハの字に作り変え顏を近づけてきた。

「だ、大丈夫なのかポーラは、そんな一番後回しなんて……」

 不安になるのも無理はない。一刻を争う事態であることに間違いはなく、最悪取り返しの付かない状態に成りかねない。そういったリスクを孕んだ順序であることは考案した俺自身が一番理解しているのだ。

 しかし裏を返せば、この順序でしか今の最善策を見い出せないとも思えた。

 情報の少ない行方不明者。今いる場所から近い場所にいるはずの救難者。この作戦のカギを握るキーマンの重要人物。全てに確信を得ているわけではないが、その全てに賭けるしかない。

「安心しろ。それに〈異種攫い〉ってのは処女であればあるほど高値が付く。利益順守の奴らがそう易々と純潔を散らせはしないさ」

 すぐにでも駆け出して行きたい衝動をグッと堪え、それでも俺の言葉に耳を傾けてくれ

る。そのエレオノーラの気持ちに少しでも応える為、今俺に出来る事を一つ一つ片づけて

いく。

 右手に握る【想世紀】に力を込めた。

――あの時世界が静止したのは、こうやって【想世紀】に想いを念じた時だったよな。

 目を瞑り、様々な抱える問題を脳内で描く。エレオノーラの頼みと涙、ポーラの無事、俺を呼んだ者の場所、結局喧嘩別れをしたままのカルディオ、約束をしたままのフレア、酷い見解の毒を吐いて出てきてしまったダレンとヴェルナ、俺はいつの間にかこの身に莫大な想いや責任というのを背負っていたらしい。

 ――いい加減、肩荷を降ろさないと皆に悪いな。

『助けて、下さい』

 刹那、聞こえてきた。俺をこの【秘境】へと誘った主の声が。

 ハッと目を見開くと、視界に映ったのは、

「ようやく見つけた、探したぞ」

 白き巫女だった。それもまだ子供の。

 一体どこにいたのか。いや、それ以前にどこから現れたのか。何を助ければ良いのか。

 色んな質問が喉の奥まで込み上げてくるが、その全てを飲み込んで、まず何よりも先に聞かなければいけない事があった。

「おま……君は一体何者だ?」

 それは得体の知れない者の手足になって動くのだけはごめんだ、ということ。

 いつもの勢いで「お前」と言い掛けた俺だったが、さすがに小さい子に対してお前呼ばわりは言い方が高圧的だと踏み止まり、なんとか「君」程度に抑える。

 そして、普段よりずっと使い慣れない優しい口調で尋ねた。

『私はキキョウ、父と母と……兄弟を探しています』

 キキョウ。それが俺に助けを求めた者の名だった。

「はぐれたのか? それはいつ頃の話だ?」

 昨日一昨日ならまだ生存の可能性は残されているかもしれない。だが数日ともなると、この【秘境】での生存率は絶望的になる。ましてや人間なんてのはカッコウの餌食だ。

 小さき少女には少々酷な現実を伝えるべきか否か、喉奥で熱い討論が始まる。

すると程なくして開いたキキョウの口からは、驚きの言葉が飛び出した。

『【想世紀】の原初です』

 一瞬、時を忘れるには十分過ぎる発言だった。

【想世紀】の原初、つまり二〇〇年前を意味する。或る者と彼の者が先導者となり、今の人の暮らしたる根幹を創り上げた時代だ。それは同時に『自分は二〇〇歳の人間です』と言っている事にもなる。

 そんな馬鹿げた話があってたまるか。俺はその考えを即座に唾棄した。が、冷静さを取り戻すと、嘘か真か目の前にいるキキョウという少女の身なりをもう一度精査してみた。

 巫女装束は白く、実に清らかな印象。まだ大人びた風貌もないその顔立ちからは、とても二〇〇歳などと言えたものではない。しっかりとした発言力と丁寧な言葉使いを加味しても、いいとこ十歳前後だろう。

「なあ、こんなこと言いたくはないが、前世と何か記憶障害が起こって――げふっ!」

 言い掛けている途中で、腹に頭突きをお見舞いされた。特に怒った様子もなく無愛想な表情のまま、当たり前のように再び口を開くキキョウに、俺はどこか複雑な感情を抱いてしまった。

『記憶障害は起こっていません。ただ、はぐれてしまったのには私自身に責任があります』

「どういうことだ?」

『一言で言うなら、私は奇跡の一つ【封絶】をされていたのですよ』

【封絶】儀式や礼拝によって、その身を対象物に封印する一種の祈祷術である。しかし、これは【想世紀】を築いたとされる或る者と彼の者、二人が起こす『年齢・外見その他全てを質量保存した状態で時を止める』という奇跡の一つでもあった。

 そしてこの次元の話になると、話半分に聞き流したくなる。神秘や未知など、探求に興味を持つ俺とあれど、超理論や次元跳躍といった『奇跡』や『超常現象』に関してはあまり詳しくない。

 仕組みや原理を求める俺にとっては、大変頭の痛くなる分野なのだ。

 それにキキョウの言う話が本当ならば、それこそどうする事も出来ない話である。何せ今は【想世紀】二〇〇年。人の寿命は長くても一〇〇年がせいぜいなのだ。その当時の人間が、普通の人の倍生きているなんてのは物理的に不可能と言える。

「そういう事ならすまない……。どうやら期待には応えられそうもない……」

 やんわりと現状を認識させ、それから諦めるよう誘導していく。

「まず現在の【想世紀】だが、二〇〇年だ」

 俺の言葉にキキョウの眉がピクリと動く。

 ただ、それだけだった。だがそれだけでも俺が言いたい内容というのを、おそらくキキョウは既に把握した事だろう。

「【想世紀】の年数で考えれば、その……会う事は難しいかもしれな――ごふっ!」

 二度目の頭突きが再び同じ個所を強打する。たまらず腹部を抱える俺に、キキョウが見下ろしながらも断言した。

『失礼ですが、あまり侮られぬよう。父と母は当然ですが、兄弟含め皆生きております』

「っつう……。何を根拠に言っている。二〇〇年だぞ? 二〇〇歳だぞ? 人間が生きていられるわけないだ――っぐふ!」

 三度目の頭突きが再三腹部を叩き上げる。分かっていても気付いた頃には頭突きを当てられている。

――もしやこれも奇跡の一種なのか?

『しつこくどいです。きもちわるいです。えもえもいです。生きているったら生きている。絶対に生きているのです』

 腹痛になりかけの腹を撫で、キキョウを見上げる。

 ――怒っているのかスキンシップなのか全然分からない。それに、えもえもいとは何だろうか?

 瞳を覗くと、チラリと見える双眸はいたって変わらず。袖から見える小さい指先も、拳を固める事はない。とりあえずこれ以上は刺激しないように細心の注意を払う。

「分かった。だが生きているとしても、おそらく風貌も何もかも変わっている可能性が高い。実際のところ顏や特徴なんかが分からなければ、探してみようもないんじゃないか?」

 俺の的を射た正論に、キキョウからは返す言葉が出てこない。

 どうにも出来ない話だが、問題としてキキョウが眠っていた時間が長過ぎたのだ。

 二〇〇年前からずっと生きている人間が居るのなら〈オルテア〉では間違いなく最高齢となり、国の有名人だろう。それなら誰だって分かるし、事実俺の耳に入っていても不思議ではない。逆にその噂が俺の耳に入っていないとして、それでいて生きているというのであれば考えられるのはただ一つ――。

「もしかすると『旅』に出たのかもな」

 こういう結論に至るのだ。その動機も手段も不明慮、実に身勝手な俺個人の憶測でのみ物事を言ってはいるのだが。

『旅、ですか……』

 意外にも『旅』という言葉に対し、何かを回顧するようにしばらく沈黙していた。

 ――心当たりが何かあるのだろうか。

『旅……私も旅に出ていた気がします。まだ【封絶】される前のお話ではありますが……』

 ポツリポツリとたどたどしく言葉を絞り出すキキョウ。自らの記憶を必死に呼び起こす姿はかなり辛そうだ。だがそのおかげで、とても大きな要因を得る事が出来た。

「それはキキョウの言う全員でか?」

『はい……私達は、色々な所に行きました。〈メギドバレー〉〈イアンデッド〉〈宝麗仙山(ほうれいせんざん)〉その他にもたくさんの色々な所に、行った気がします』

 聞いたことのない地名が次々と出てくる。そこからキキョウの家族という人物像が、薄々とだが見えてきた。

 家族の死というリスクを冒してまで旅をするのは、安らげる地が無かったから。というのが真の理由かもしれない。そもそもの話で、その当時に〈オルテア〉の基盤が造られ始めていたのなら、少なくとも幼きキキョウ達は置いて旅に出るというのが普通だ。つまり【想世紀】の原初たる人が、今の国を作り上げる前の人物だった可能性が高い。

 地に固執しない者達、という意味合いを込めて移牧原民と呼ばれる人間達だったか。

 だが、その人物像よりもずっと不思議に思っていたことがある。

「それはそうとキキョウ。【封絶】をされていたのなら、君は何に封印されていたんだ?」

たしか【封絶】には対象物が存在するはずだ。しかし、目の前に立っているキキョウからは、その対象物が確認出来ない。第三通りの武器をヴォングから受け取った時も然り、一体どこにいたのか、ずっと疑問を抱いてしょうがなかったのだ。

『私の【封絶】直前の記憶では、【(そう)(せき)】という石に封印されたのが最後です』

【想石】。また聞いたことのない固有名詞をキキョウが発する。

 ――キキョウ、この子は一体何者なんだ……。幼さに反してあの豊富な知識の広さ、はっきり言って子供のそれじゃない。

 ある種の不気味さを抱く俺に、キキョウが歩み寄ってきた。身長で言えば俺の胸元より若干下。なのにその存在感はとても大きく感じた。

 次第に恐怖が足元を絡め取り、徐々に足の爪先から動かなくなる現象に駆られ、体の硬直を余儀なくされる。

「その【想石】ってのは一体どこにある」

『どこに、というのは無用な質問です』

「な、なぜだ!」

『それは既に、あなたの手の中にあるからです。サイカ・エクリプス』

 キキョウの一言が、俺の頭を掻き回した――俺の手に握るのは【想世紀】ヴォングが創り上げた未知の武器だ。鍛冶屋が言うのだから、今までに見た事があるとは到底思えない。  

 物理的な表現ではなく、精神的な意味での『手の中にある』という発言なのか。それ以前になぜ俺の名を知っているのだろうか。

 様々な考えがその一瞬の内、脳という小さな細胞体機能を駆け巡った。

『あなたは今、なぜ俺の名や【想世紀】のことを知っている。そう思っているはずです。ですが、知らないわけがないのですよ。あなたの右手に握る得物に私はいるのですから』

「なっ、そんな馬鹿げた話があるわけ――」

 自分で言っておきながら、先日のヴォングの言葉が脳裏に甦る。

 

 渡された資材の石が見た事もねえんで正直悩んだぜ――


 見た事もない石。それは俺が渡した石だった。なぜ、どうやって、その石を俺が手にしたのかはとても遠い過去で、思い出そうにも思い出せない。だが、それが本当ならばキキョウはその石の中に【封絶】されていたことになる。

 ――だが、そんな都合のいい話。

『あってたまるか、ですか?』

 ふいに言葉を紡がれ、度肝を抜かれた。が、平静は崩さず余裕を見せキキョウを凝視した。

「読心術か?」

 通常有り得ない事を常識の範囲外と捉えるのを止める。人間の心の内を表情・動作から読むことが読心術だというのなら、それを超える心透術・心視術とでも言うべきか。

 俺が読心術で見られたというのは極めて低い。過信するわけではないが、単純に何を考えているかよく分からないと言われたり、心の内を悟られぬようその手の類には警戒心が人一倍強い方だと自負しているからだ。

『はい、これを私は【心写(シンシャ)】と呼びます。あなたがさっきまでずっと抱いていた事の全ても全部丸見えでした。誠に、えもえもいです』

 こう言われてしまっては手も足も出ない。キキョウの前では如何なる発言を以ってしても会話という行為そのものが無意味ならしい。

『なので言ってしまえばですよ、サイカ・エクリプス。あなたは喋らなくて結構です。私が一方的にあなたを見て、一方的に会話をしますから』

 淡々と言ってはいるが、あまりにもシュールな話だ。

『ですから、助けて下さい。家族を探して下さい』

【秘境】に来た時から薄々は感じていた。この声の主がただの人間じゃないという事に。

 だから巻き込まれたくはなかった。未知というのが死の危険と隣合わせで、常に『奇跡』がありふれているのなら、俺は死の及ばない安全な地で神秘というのを、未知というのを感じていたかった。

 魅せられた奇跡に出会わなければ、無謀な冒険などきっと望みはしなかっただろうに。

「キキョウ……」

 必死に助けを求める表情は変わらず、しかしとても苦しそうで。手を離せばすぐにどこかに消えてしまいそうな。それはきっと俺とカルディオがフレアを気に掛けるように、ダレンとヴェルナがフローラを愛するように、エレオノーラがポーラを想うように、種族などは関係なく、生命が共通に抱く感情なのだろう。

「俺はとても醜い人間だ。親友を突き離し、良くしてもらってる人には酷な話を平気で話し、感謝や恩を仇で返すのが得意な人間だ」

『でもそのことを後悔し、今という現状を打開しようとしている』

「手に抱えきれないだけの責任を背負い、いつ逃げたくなるかもわからない無責任な考えすら持っている」

『それでも他人が困っているのを傍観することは出来ず、渦中へと飛び込んでいく』

 俺が言うことに対してことごとく真っ向から否定していく。

「何故だ? そこまで俺に執着する理由が、俺には見えないし理解出来ない」

 別に助けを求めるのなら俺以外にもザラにいる。こんな探求心と好奇心で生きるような人間の、どこに求めものがあると言うのか。

『遥か夜の、人が願いし奇跡には、散り際にこそ、つづきはべりぬ』

 答えを求めた俺に、キキョウが句を読む。

 その句は俺の童心の引き出しをこじ開けた。失っていた記憶を無理やり再起させたのだ。

 あれは子供の頃に俺が両親と喧嘩をした日の夜の事――



 当時九才だった俺は、統治外協定内エリアの〈アルテムフォレスト〉へ行こうと、家で準備をしていた。理由は『或る者と彼の者に会う為』だ。

 幼い俺にとって、英雄的存在だった或る者と彼の者。二人は今も、この世界のどこかで生きて、多くの者を正しく導いている。そう思っていたのだ。

 子供ながらに小生意気な俺は、それを両親に話し嬉々としていた。

 だがそんな俺に、二人は冷たくこう言った。

『或る者と彼の者、二人は死んでいる』『人間がそんなに長生き出来たら、それはただの化け物だ』。そこまで言った親に、俺は完全に腹を立てた。

 そして家を出た俺は、普段遊びに行っていた大講堂や広場に目もくれず、ただ無心で走り続けた。

 目的は当然二人に会う為。俺は縋る想いとやけっぱちな衝動を胸に抱え、闇夜に沈む万物の森〈アルテムフォレスト〉へと踏み入った。しかし今にして思えば、現実はとても残酷で厳しい。

それは種族がどうとかではなく、それ以前の問題を絡めての話だった。

「そんな……真っ暗で何も見えない。図書館で見た森は、夜でも湖に月が映って辺り一面を照らし――――」

 グオオオオアアアアアア!

「うああああああああああああああ!」

 獣、いやもっと危険な生き物の唸り声がする。暗闇の中、前後左右の判断が付かなかった当時の俺は、それでも駆られるようにとにかく走った。

 切り傷を作って、何度も転んで、ぶつかって、精魂尽き果てながら、ボロボロになって、それでも無我夢中で走り続けた。

 初めての地に戸惑いを感じながら、一つ分かる明確な『死の恐怖』から逃げる為。

「逃げなきゃ、殺される……っ!」

 掠れ声を漏らし、口の水分が抜けきった後であっても、我が身大切さから全力で逃げる事しか頭になかった。気付けば鳴き声は失せ、なんとか逃げおおせた事にホッと胸を撫で下ろす。

 狩人は思いの外、諦めが良かった。だが、状況が悪化したのは間違いなかった。

 ――ここは、どこ……。

 逃げる事に集中する余り、完全に森の中で迷子になってしまったのだ。立ち入った時点で視界が暗闇に包まれていたのにも関わらず、来た道はおろか左右・方位その一切が分からなくなった。

 これでは『或る者と彼の者』を探す前に、俺が森から出られなくなってしまう。

「どうすれば……」

 立ち止まり悩み続けた結果、導き出した答えは『進み続ける』という選択だった。

 どうせ親は俺の心配なんてしちゃいない。息子の妄言に耳を傾けるほど暇じゃない。そう思っているだろうと、内心で勝手に決めつけていた。だからこそ『進む』という選択が出来たのだろう――。

「……引き返しても道が無いなら、いっそ進むしかないんだ」

 歩みを止める事だけはしてはいけない。その一心で進んでいた。

 それから何度も木の根に足を取られ、暗闇にそびえる大樹に正面からぶつかり、満身創痍の中で〈アルテムフォレスト〉を彷徨った。そうこうしていると、次第に景色や雰囲気が変わっていくのを、俺は肌で感じた。

 それは良い方向へと行っているようで、その安心感が逆に怖い。

 徐々に暗闇の中でも平然と歩けるようになっていった。おそらく森を抜けたのだろう。

 心地良い風が一吹き舞起こると、俺の全身を駆けて行った。

 その風はとても強くて、それでいて優しく、温かい。一陣の風の後、瞳を閉じて大きく深呼吸を繰り返す。何故かこの時、言いようのない自信が俺の体に満ちていた。

「なんだろう、この気持ち……」

 少年ながらに期待や興奮よりも、ある種の無我の境地に似た感覚。どこか傍観的で、客観的。その当時の自分の事じゃないのではないかと、錯覚さえ引き起こしてしまいそうな。

そんな感覚だった。

 薄く、薄く、開かれる瞼の先に広がっていたのは、一面を覆い尽くす光輝な花畑。暗黒を照らす光のカーペットは、夜の帳が下りた世界を煌びやかに映し出す。

 俺は目線の先に見える、花が取り囲んだ中央部――人為的に造られたであろう祭壇――に歩み近づくと、そこで光る石を見つけた。

 祭壇の真ん中で暗明を繰り返す手の平サイズの質量ある石は、古字か何かの文字が刻まれ神秘性を感じさせる。

 ここでようやく記憶が繋がる。ヴォングに渡した素材の石は、確かにここで入手した物だ。罰が当たらないか、誰かの供え物ではないか、色々な考えを働かせてはみたものの、最終的に至った結果。俺自身何かをした、という証明が欲しかったのだ。

そしてその証明たる物として、石を手にしてしまった。

だが問題はその後で、手にした石が一層の光輝を放った。それから、どうやって帰ったかという記憶が一切無く、気付いたら家だったのだ。

既に夜は明け、朝方。鳥の鳴き声で覚醒し、いつの間にか寝室で横になっていた俺は先日の記憶のピースが抜け落ちた感覚に見舞われながら、それでも自らに、一部は夢だったと認識させて納得させた。だが事実は変わらず、俺の旅は十八歳成り立てなんかではなく、胸に押し隠しただけで、もっともっと早かったらしい。

 記憶に映るその時の石に刻まれていた文字。それこそが、おそらくはキキョウが今しがた読んだ句なのかもしれない。


 

 ――キキョウ、もしかしてお前はあの時からずっと……。

『はい、その通りです。私はあの場でサイカ・エクリプスに拾っていただいた。何気なく置かれていたあの石こそ、私が【封絶】されていた石。【想石】だったのですよ』

 辛苦何年のことか。気が遠くなる考えを放棄し、目の前の少女を見やる。

――幼き頃に見た夢は、夢ではなかった。起きた時にポケットに石が入っていたことには多少なりとも違和感は感じたものの、しかし何かの拍子に入っただけだと、勝手にそう思っていた。でも本当は違っていて、たまたま向かった〈アルテムフォレスト〉で、俺はキキョウに会っていたのだ。

『ええ、そして今こうしてお願いしているのは、サイカ・エクリプスがまた私を救ってくれると信じているから。遥か夜の、人が願いし奇跡には、散り際にこそ、つづきはべりぬ。古人は言った、人が願う奇跡はやがて散り落ちていく。しかしその想いは途絶える事はない、と』

 俺をしっかりと捉え、キキョウの双眸が訴える。

それは、昔の俺が「二人は生きている」と必死に訴えた時の姿に、被って見えた。

 否定されることを考えず、信じる道のみを貫こうとする綺麗な眼だ。もしもキキョウに肉体があったなら、俺が非協力的だったとしても一人で探しに出るというだろう。

 その心が余計にキキョウの瞳を通じて、俺に強く訴え掛けてくる。

「なあ……或る者と彼の者。二人は二〇〇年経った今でも、生きていると思うか?」

 俺の質問は本当に馬鹿げている。どんな阿呆でも「生きている」とは決して言わない。

 しかし、目の前の少女は事実二〇〇年を生きた。つまり、「生きていない」という証明もまた存在しないのだ。俺はその『奇跡』を、今ある現実として感じている。

 ずっと枷を掛け続け、暗い闇に置いてきた『夢』。二人の英雄に会うという望みが、キキョウの存在により、心の施錠を一つ、また一つと外れていく。

「今もなお、この世界で多くの者を正しく導いていると思うか? 〈オルテア〉のような平和な国を造るため、生きていると思うか?」

 喉まで出掛かった言葉を必死に抑え込む。それは俺が断言すべき言葉ではないから。

【封絶】を受けた本人だからこそ説得力に足り、また信憑性に富むもの。心の中で必死に求めた言葉を、聞きたかった、待ち焦がれた言葉を待つ。目の前の少女が言うまで。

『キキョウは思うのです。私を想い、その当時基盤の無かった闘争の時代より、後世築かれた平和の時代の方がより安全で楽しいはず。その思いから、二人は私に【封絶】を掛けたのだと。【封絶】を外せるのは【封絶】を掛けた者だけ、私を【想石】に入れたまま死ぬような英雄はこの世におりません。つまり……』

 一拍を置き、それまで鉄仮面を貫いてきた少女の瞳が、ゆっくりと細まっていく。初めて見せる表情。初対面なのだから当然なのだが、少しばかり背中が痒くなる。

 キキョウが微笑み言った。

『二人は生きております』

 胸の中に潤いが浸透していく。鎖で雁字搦めにした希望を、夢語りで終わらせていた夢を、こうして誰かに肯定してもらったのは初めてだったから。

 否定され続ける度、サイカ・エクリプスは消えて行った。それは一重に感情の意として。

 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、否定をされる度に徐々に振り幅は失われ、何を言われても、何をされても、動じる事なく、たじろぐ事なく、毅然とした個として存在してしまっていたのだ。いつからかそんな人間に成り変っていたのだ。

 少年から大人に成長したのではない。そんなリアストな考えなどではなく、ただの無感情な廃人として、壊れたのだった。

『漁師になりたい』『国騎士になりたい』そんな他人の身近な夢は肯定され、称賛される。

 なぜか。そんなに万人の敷いた道を辿る事が素晴らしいというのであれば、世界に成長は存在しないのではなかろうか。

 夢というのは現実を見ることではなく、不透明な存在に対しても必死に手を伸ばし続ける事だ。非現実的であっても、この世に不可能なんて存在しないと、二人が証明したのだから。

「ありがとう」

 胸に込み上げてくるこの十八年間最大の想い――俺の夢は『或る者と彼の者』二人に会う事。そしてこの世界にいるまだ見ぬ生物、まだ見ぬ未知に触れ、その神秘や謎、全てを解き明かす事だ。

 言葉に表すのが勿体無く、価値を下げてしまいたくなくて、俺はこの時の止まった世界の中で生まれて初めて涙した。


  4


 声を上げて叫んだ。溢れ出す涙がこんなにもしょっぱいとは知らなかった。たまに咽る瞬間が想像以上に呼吸をし辛くさせる事も初めて知った。

『思う存分泣きましたか?』

「ああ、おかげ様で初めて泣かせてもらった」

 眼を擦り過ぎたのか、若干痛い。しかし少し童心とキキョウから、忘れていた心を取り戻せた気がする。その点に関しては感謝の言葉しかない。

「俺はキキョウに協力する。それはおそらく俺自身の為でもあるし、これからの成長にも繋がると確信が得られたからだ、ありがとう」

 すると俺の周りをトコトコと一周りし、不快そうな表情を浮かべ身震い一つした。

『なんか、気持ち悪いです。えもえもいです』

「またか、その『えもえもい』って何なんだ?」

 感情の波が読めないが、謎の言葉を発するのにはきっと何か意図があっての事。

 いや、もしかすると二〇〇年前の流行りの比喩かもしれない。キキョウの答えを聞くまでに様々な憶測を展開する。

 しかし、二〇〇年築き上げた思考はとても単純だった。

『えもえもいというのは、エモーションの略称。感情的という意味で私なりの呼称です。エモーションとはどこか角ばった言い方なので、こちらの方が可愛らしいでしょう?』

 フェードアウトしそうな思考が、サーっという砂城が崩壊するが如き音を脳で再生する。

 一瞬意識が遠退いた事に危機感を抱き、被りを振ってキキョウに賛を唱えた。

「ああ、確かに丸みがあってとても好印象だ。うん、いいんじゃないか?」

 取って付けた言い方に、不満を漏らすことなくキキョウが背を向ける。怒った様子が無いことに、気取られる事なく安堵の息を漏らした。

『ともあれ、私は少し疲れました。おやすみを所望します。呼ぶ時は【想世紀】を強く握ってキキョウに会いたいと念じて下さい』

 呆けた声になっているあたり、欠伸でもしているのだろうか。

「ああ、悪かった。こっちは目的の一つでもある、助けを求めている者の存在というのを確認出来た。それだけで十分過ぎるさ。ゆっくり休んで――」

 俺の声を最後まで聞くことなく、キキョウは力無く霧散した。

 おそらく時を停止する事で、【封絶】の干渉を受ける事なく具現化が出来るのだろう。

 まあ実際の所、原理を知っているのは【封絶】を掛けた本人と、肉体を具現化している本人しか分からないのだろうが――。

「サイカ、 大丈夫か?」

 エレオノーラの声で我に返る。気付けば世界の時が、再び動き出していたらしい。

「大丈夫だ、それよりも吉報がある。一つ目の目標、俺に助けを求める者の身柄が確認出来た。残りは二つだ」

 三つの内、最初のやるべき事が達成された。その事にエレオノーラは戸惑いと動揺を隠せずにいるが、訝しむのも無理はない。

 何せ今のやり取りというのは三つのやるべき任務の内容を説明した直後の出来事なのだ。

 世界が停止している中で俺とキキョウだけはその一瞬の内に、幾折りもの会話を交わし、意志の疎通を図った。それは他人には理解しきれぬ範囲の話である。

「時間が惜しい。次の目標に移るぞ」

 俺の言葉に小さく頷き、理解より先に行動を優先させる。さすがと言うべきか、エレオノーラは状況に対しての順応性が高い。自らが理解していなくとも、俺が理解してれば後でも話を聞ける。しかし、歩を止めてしまっては時間のロスに繋がる事を心得ている。

 それから密林のかなり奥地へとやって来た。新緑というより神聖な地に近く、ジッと目を凝らすと所々空気が裂けているのに気付いた。

「あれは何だ? 真空波か?」

 俺の問いに応答がない。異変を感じエレオノーラに振り向く。すると、額に大粒の汗を掻いたエレオノーラが、前方に槍を構え立っていた。

 本能的に抱く危機感。部隊長クラスの強さを誇るエレオノーラでさえ抱く恐怖から、俺も咄嗟に後退し、彼女に並び立つ格好で【想世紀】を構える。

「サイカ、この先には恐らく化け物がいる。この重圧は大型の魔獣クラスだ」

 足が竦んだ。魔獣がいる。それも大型の。部隊長のエレオノーラであれば、魔獣を倒した事がある。しかし魔獣というのは、小型種から超大型種まで何種もの個体サイズが存在し、超大型の魔獣は【城壁】を破壊し得る力を持つとまで言われている。

「大型の魔獣クラスだと?」

「ああ、裂け目の正体は魔獣の特質【魔刃】によるものだ。そして強さに比例し、その範囲と威力は上がる……」

 視線を外す事なく会話を行う。その先でこちらに向かって迫りくる【魔刃】が近づくに連れて、次から次へと枝葉を切り刻んでいく。細切れになったそれらは地に落ちる前に、圧倒的な裂波(れっぱ)により視界から消滅していく。

「ちなみにアレくらいの強さのヤツと戦った事は?」

「……ないな。もし遭遇していたなら片腕は失っているだろうよ!」

俺の『なら逃げるぞ!』の一言で、抵抗を放棄し全力で明後日の方へと走り出す。だが人間の俺とエルフのエレオノーラ、逃走の速度は天地がひっくり返らない限りはエルフの方が当然上だ。

「急げサイカ! 殺されるぞ!」

 木々を飛び移って逃げるエレオノーラが上から活を入れる。

そんな事言われても困る。俺の足ではこれが限界だ。

 迫りくる歯切れの良いスパスパという快音が耳を打ち始めた。すぐそこまで迫ってきている合図だ。このままでは切り刻まれ、数十秒後にはこの世から消えてしまうだろう。

 いよいよ俺もここまでか、と思われた矢先、ギュラアアアアという咆哮が聞こえた。

 その直後、俺の真後ろを切り刻んでいた【魔刃】が横へと逸れたのだった。

 ――何が起きた。

 何事かと思い、ふと後ろを振り返る。

「ギュラララララ……」

 魔獣が弱まった事で、真空波による裂け目の範囲が狭まったのだろう。大型魔獣の姿が視界に微かに映り込む。黒光りする光沢の外装、赤き血色の眼光、禍々しく捻じれ曲がったこめかみ付近から生える二本の角。二足歩行の大型魔獣は、異常に発達し突き出た顎をぶるぶると震わし、横っ腹を貫かれた衝撃で盛大に倒れ込んでいた。

 対して、エレオノーラの言う【魔刃】の真空波を物ともせず、勇猛果敢に奇襲を仕掛けたのは鼻先が異常に尖っている巨獣。全身を鎧のような重そうな皮膚でコーティングし、猛進する硬質な生き物だった。

「あの鼻の長い生き物、どこから出てきた」

「どこからでもない」

 木の上から身軽に飛び下りてくるエレオノーラが言った。どうやら横槍を挟んできた鼻長の生き物の事が分かるらしい。

「勝負はついた、アイツは【ピラーズ・ボルティック】。槍のような鼻を敵の体に突き刺す。その速さは時速五〇〇キロを超え、貫かれた者はその痛みが遅れてやって来る為、七日後に急死すると言われている。ここに居ては危険だ、いったん身を隠そう」

 エレオノーラが指示を促す。二頭の獣がぶつかり合い、暴れ回る姿はまるで天災。

 どちらかが倒れ込む度に地鳴りが足を震わせ、咆哮が耳をつんざく。

 たまらず少し離れた大木に逃げ隠れると、エレオノーラに質問を繰り返した。

「エレオノーラ、アレくらいのヤツと戦った事は?」

「だからないと言っているだろう! あんな狂獣と戦ってこの身、五体が失われなかったら、それはただの奇跡だ!」

 違いない。【魔刃】の脅威がすぐそこまで差し迫った時、俺は明確な死を確信した。

 横槍を挟んだ【ピラーズ・ボルティック】が乱入しなければ、確実に今やあの世に行っていただろう。

「じゃあ、それを踏まえて聞かせてくれ。なんで槍を構えた?」

 俺の言葉がエレオノーラの口をわなつかせた。

 そう、あの時だ。

 俺が振り向いた時点でエレオノーラは『逃げる』という選択ではなく、『戦う』という選択を取っていた。事実、槍を構えていたのだ。それは勝ち目がないが、散って終わるという意味ではないはず。

 何故なら俺達は一蓮托生の仲であり、どちらも消えてはいけないそ存在だからだ。

 俺はポーラの居場所を探せる。エレオノーラはこの【秘境】を無事切り抜けられる。故に、勝てる見込みのない戦いはせず、その考えを捨て逃げの一手に回るべきだった。

 しかし槍を構えたということは『戦って勝てる』その可能性が極小であれ、少しはあったと見解しても、可笑しくはないだろう。

「勝てなくは、ないんだよな?」

 きつく目を瞑る。手がカタカタと震え、怯えている。トラウマに近い何かを思い出しているのか、はたまた生物的な恐怖が全身を慄かせるのか。

 そんなエレオノーラを俺はそっと抱き締めた。純粋な強さは間違いなく備えている。華奢でこの体のどこにそんな力が存在するのか、と聞きたくなる程の細見ではあるが。

「きっと大丈夫、俺達ならやれる。なにより、ここを進めなければ俺達に先はない」

 優しく頭を撫で、落ち着ける。それは子供をあやすというより愛しい者に向けて、というべきなのか。 そういった心理に関しては疎い為、よく分からないが。

 体からは徐々に震えが静まっていき、触れ合う肌の熱、筋肉の動きから、力が戻ってきたのを感じる。 俯いたままのエレオノーラが、今度はこちらに抱き締め返してきた。

「ありがとう。サイカ、私はな……部隊長などど名誉ある肩書きを所持しているが、実の所は魔獣を倒した事はない。まして聖獣なんてのは遭遇したことすらない。ただ種族間協定の際に設けられた称号。それを活かしての他種族に対する森の抑止力として、どういう訳か私にその白羽の矢が立ってしまったのだ。私達エルフ族は知っている。木の武器で鉄には勝てないという事を、葉の皿なんかよりもっと優れた皿がある事を。だが、産まれ育まれてきた森と仲間を裏切る事、それだけは然として許してはいけない。それが私達の尊厳であり全てなのだ」

 想いが全身に伝わってくる。これがエレオノーラの――いや、エルフ族の――気持ち。

 彼女の胸に沸き立つ勇ましき心が俺の胸にも伝染する。それは目に見えない感情の結晶。

 毅然とした表情で顏を上げたエレオノーラと視線が合う。とても近い距離だった。

 エレオノーラの顏が薄く赤らみを帯びると、強い瞳を一瞬輝かせて軽やかに立ち上がる。

 微笑んだ口角は上がっていた。

「さあ、始まりだ。見ててくれ、これがエルフの戦い方だ」

【魔刃】によって裂かれ、切り敷かれた一帯に、朝霜の晴れきった空が差し込む。

 そんな大木の根に仁王立ちするエレオノーラは、とても眩しく勇敢に見えた。大音響を立てて【ピラーズ・ボルティック】が地に伏せる。ついに巨獣対決に終止符が打たれたのだった。

 その勝者。大型魔獣に向け、エレオノーラがハイトーンボイスで高らかに宣戦布告する。

「エルフ族防人部隊隊長、エレオノーラ・ポーリュシカ。いざ、参る!」

 黒き巨大な魔獣の【魔刃】を軽やかなステップで流麗に回避、次々と迫り来る合間を掻い潜っていく。 また、右から来れば左へ飛び退き、左から来れば右へ飛び退く。

 上から来たらテイクバックで強引に踏み留まり、四方八方にアンテナというアンテナ、センサーというセンサーを張り巡らし、ただの一撃も当たらない。

 その動きこそ、まさしく俊英・鋭敏なエルフの戦いだった。


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