9.交渉
18
「じゃあね、これからフェアな交渉といくよ」
アルが木剣をクライツさんの首筋に突き付けたままそう言った。
それに対してクライツさんは、現状が不服であるとアルに申し立てる。
「剣を突き付けられたままでは、フェアも何もないと思うのだけどね」
それでもアルの木剣の位置は変わらない。
そしてアルはその位置を変えるつもりはないのであろう。
「いやだな、それも含めてフェアにという事だからね。それに、少し悲しいすれ違いもあると思うんだよ」
アルは当然だと言わんばかりにクライツさんの申し立てを跳ね除ける。
どうやらクライツさんの生死はこの交渉かかっているようだ。
ただ、クライツさんにはそのアルの台詞に、引っかかる部分があったのだろう。
「悲しいすれ違い、というのはどういうことだ?」
クライツさんは申し立ての失敗に名残惜しむ様子もなく、アルの言葉に疑問を浮かべた。
アルはそのに声に対してにこやかな笑顔を作り、優しい声色で答える。
「それはね。ボクの憶測でしかないんだけど、君の狙い――というか下された命令としてはその子の捕縛と、あわよくば指環の奪還というところなんだよね?」
そう言いながら、アルはこちらを、というよりもリリアの方向を一瞥した。
それにつられて僕とクライツさんもそちらの方向を見る。
なんとそこには手や足、そして口を蔓で縛られた涙目のリリアが転がっていたのだ。
戦闘に夢中で気が付かなかったが、まさかリリアがこんな状態になっていたとは。
よく考えてみれば、リリアは全然喋っていなかった気がする。
というか戦闘の片手間にこんなことをやってしまうアルに、いろんな意味で戦慄してしまう。
それはともかく、あわよくばの指環の奪還。
指環とはあの僕に押し付けてきた指環のことだろうか。おそらく今はクライツさんは十中八九、指環はアルが持っていると思っている。
ちなみに僕は指環をはめていない。現在は懐に入っているところだった。用心をして人目につかないようにしていて切実によかった。
そういうわけで、つい緊張してしまうが、クライツさんはそれに気づかず、アルとの話を続けていった。
「確かに概ね間違ってはいない。それに、街に現れた反教会の勢力の調査も加わっているのだが。ああ、それと、そこのリリアに関しては随分前の命令なんだけどね」
クライツさんは、アルの憶測を訂正する。憶測は憶測で、完全に正解とはいかなかったようだった。
相変わらず、木剣を突き付けられたままなのだが、何故かクライツさんは焦っていない。それどころか、とても冷静のように見える。
それにしても随分前から、リリアの捕縛は命令されていたのか。
一体、何をしたらこんな危ない人から追いかけられるんだ。
そこからアルは、クライツさんとの話をまとめていく。
「反教会の勢力の調査は……まあ、それは今は別にいいかな。その子に関しては、後は好きにするといいよ。ただ、指環に関しては諦めてもらうけどね」
アルからの要求が告げられた。どうやら、リリアの身柄は引き渡されるよう。
それに対してリリアは声なき声をあげ、必死に反論しようとしているのは間違いない。けれど、それも虚しく理不尽にも交渉は進んでいく。
「どうやら、非常に残念ではあるが指環に関しては諦めるしかなさそうだな」
クライツさんはその要求をのむようだ。
けれど、いままでのどの台詞とも違い、言葉に反して全く残念そうではない。
そこに違和感を感じずにはいられない。
さらにアルは思い出したように付け足していく。
「ああ、それと今回の件、コーキは無関係だから。街で会ったとしても拘束とかしないんだよ」
それはどこか、子どもにでも言い聞かせるような物言いで、アルは僕の擁護までしてくれていた。
僕としてはありがたい限りだが、何故こうも僕なんかに肩入れをしているのか不思議でならない。
傷を負ったアルを戦わせてしまった負い目も相まって、こうも気遣ってくれるアルに、罪悪感さえ覚えてしまう。
その注文にもクライツさんは応じてしまうようだ。
「分かっている。一般人には危害を加えない。騎士としては当然のことだ」
何の躊躇もない快諾。けれど、騎士としてという言葉がやけに白々しく聞こえてしまっても仕方ない。
もう、アルからの無理な要望はなく、アルはクライツさんの首から木剣を離す。
どうやらこれで、交渉は成立したようだ。
アルから解放されたクライツさんは、縛られて抵抗をしているリリアを担ぎ上げた。
そうして、去り際におもむろながら僕の方へと振り向くと、最後に挨拶をしていく。
「じゃあ、コーキ。また会ったときはよろしく頼むよ」
爽やかにそう言い切ると、物凄いスピードで“樹海”を走っていった。
一体時速何キロだろうか。人間って、あんなに速く走れるんだと感心してしまう。
「さて、じゃあボク達も帰るとしようよ」
アルに声でふと我にかえった。
赤から黒に染まりそうな空を見上げ、時間を思い出す。日暮れは間近というところだった。
街までの距離を考えると、いまからでも早く戻らないと危ないのかもしれない。
僕はアルの方へと振り返る。
「わかった。じゃあ僕も帰らせてもらうよ」
そう言い残し、クライツさんのあとを追おうとする。
アルのその痛々しい右腕が、目に入って心が痛いが首を振る。
薄情かもしれない。腕を切られたアルのことは心配だが、僕には医療の知識がない。僕がいたところで、どうしようもないことには変わらない。
それに、アルの腕から流れ出ていた血液は、もう完全に止まっていた。
アルが生きていることからも、血が全て流れ出たわけでもない、あのクレーターのときと同じだ。凄まじい回復力で、きっとアルはすぐに良くなるはずだろう。
そうして僕は、帰るべく足を一歩踏み出したとき――
「ちょっと待ってよ」
アルに呼び止められてしまった。
そのアルの矛盾したような行動に、僕は少し困惑する。
「いや、でも早く帰らないと。暗くなって危ないし」
呼び止めたアルの意図がわからずに、そのまま帰ろうとしている。そんな僕を諭すようにアルは笑って事実を告げる。
「でも、今からじゃもう完全に日が暮れてると思うけどね。それに、今日は頼れる程の月明かりもないと思うよ」
月ってあったんだ。いや、そうじゃない。
確かに日が暮れるまで間に合わない。だからといってあの宿に帰るという以外、他の選択肢は――
「君は、ボクがどこで寝ていると思ってるのかい? ふふっ、今晩は特別に泊めてあげるよ」
楽しそうにこちらの反応をうかがうアル。意外な選択肢がそこにはあった――
19
「ここが、ボクの家だよ」
あの後、喜色満面の笑みのアルに、されるがままについて来た場所がここだ。
その家の前には“あるのいえ”と平仮名で彫られた看板が立っている。
アルにこのことを訊いても、驚いたかい? 頑張ったんだよ。と言うだけでまともに答えてはくれなかった。
立ち止まって考えていると、アルは両手で僕の背中を押してきた。
それは、落ちた右腕を拾って、道中で、案内の片手間にくっ付けていたから。そしてちゃんと動いている。
アルは自分に治癒魔法は使えないと言っていたから、素の回復力と言うべきなのか。
相変わらず、アルの強さは未知数だ。
「さあ、とにかく入ろうよ」
アルに背中を押され、僕は中に入る。家の中に入り、驚かずにはいられなかった。
何故なら、部屋と廊下を隔てる戸が日本家屋風の障子が貼られた戸なのである。
「驚くのはまだ早いよ。さあ、戸を開けてみてよ」
僕はアルに促されるままに戸を開ける。
その部屋にはなんと畳が敷かれていた。そしてご丁寧に、襖で仕切られた押入れなんかまである。
「アル、一つ訊いてもいいか?」
僕の頭には当然のごとく疑問が出てきた。
その問いかけに、アルはどうも浮かれたような笑みを浮かべる。
「ふふふふ……。なんでも訊くといいよ」
アルからは了承を得られたものの、今のアルは側から見ても機嫌がいいように見える。こう言ってはなんだが、少し気味が悪い。
「この知識は何処から?」
アルは木属性のスペシャリストと言っていい程に木属性の魔法を使いこなしている。
植物に関することは大体なんとかなると言っていい。けれどいくらアルだからといって障子や畳までどうにかなるだろうか。
「ごめん、教えられないことになっているんだよ。でもお風呂とかもあるから寛いでいってね。これから、家の案内をするよ」
教えられないことになっている。
一体どういう意味だろう。誰かとの決め事でもあるのだろうか。
アルに関しては不思議な点しかない。
なぜ、僕の世界の知識を持っているのだろうか。
なぜ、リリアを敵視していたのだろうか。
全てはわからないままだ。
アルの案内が終わり、僕は風呂に入ることになった。着替えはなぜかサイズの合ったものを、アルが用意してくれる。
「それじゃあ、ゆっくりしててね。……ふふ、ボクもあとで押しかけようかな……?」
木の戸の向こうから、脱衣所を離れていくアルの不審な呟きが聞こえてしまった。それだけは絶対にまずい。僕とアル以外はこの家にいない状況、完全な二人きりだが、それはいろいろと僕の沽券に関わってくる問題だ。
「長風呂はできないな……」
決意を固めながら服を脱ぐ。
思えば、かなり久しぶりの入浴だった。宿では、こういう浴室はなく、ただお湯で流すだけにとどまっていた。
タオルを持ち、浴室に入って周りを見渡す。木製の浴槽が目に入った。桶に、石けん、数個の椅子らしきものなんかもある。
浴槽には当たり前だが蓋がされている。開ければ白い蒸気が立ち上った後、薄い黄緑色をしたお湯が張られていることがわかる。
濁っているわけではない。なにか入浴剤のようなものを入れたのではないかと推測できる。
香りが漂ってきた。まとわりつくような甘い香りで、一瞬だが平衡感覚を失ってしまいそうになる。
油断してはいけない。縁を手で掴みバランスをとりながら、静かに浴槽に手を入れ、湯加減を確認する。僕にとっては少し熱いくらいの温度だった。
浴槽を開けっ放しにしたまま、桶に水を汲む。石けんを使い、身体を洗う。やはりそれは植物性なのだろう、よく泡立ち使いやすい。
泡を流して、ようやく浴槽に浸かる。お湯加減はさほど変わっていはしないが、入れない温度じゃない。足の先から用心深く入っていく。
温かさが身体に染みる。お湯が筋肉の緊張をほぐしていく。最初はきつく感じた香りだが、そのおかげか思考が緩慢になり、精神的なリラックスをもたらしていた。その心地よさに、時間の感覚さえ失ってしまう。
不意に、浴室の戸を叩く音がした。
「コーキ、どう? お湯加減は?」
その言葉で我に帰った。
まずい。つい、長風呂をしてしまった。アルはわずかに戸を開け、首だけを間から出し、こちらを見た。
「ちょ、ちょうどいい。ちょうどいいよ。というか、アル。本当に入ってくるのか?」
それを聞いたアルは、一つ可愛げに小首を傾げ、疑問をていする。
「ん、入るよ? なにか問題でもあるのかい?」
そう言って、躊躇なく戸を全て開けたアル。その大胆な行動に、驚き呆然としたが、胸から下までを隠すよう巻かれたタオルに一応の安堵感を覚えざるを得ない。
ただ、その安堵感はあるの右腕の痛々しい傷を見て吹き飛んでしまった。治っている、と言うのには無理があり、まだその接合部の表面は赤く血が固まった線が入っている。
「アル……っ!!」
「なんだい、コーキ。そんなにじっくり見られると、さすがのボクでも恥ずかしいよ……」
頬を赤らめ、アルはそんなことを言っているが、もう僕はそれどころではない。怒鳴り声に近い声をあげてアルを強く叱責する。
「そんな傷で風呂なんか入ろうとしたら駄目じゃないかっ!! もっと悪くなったらどうするんだ!?」
どうしてか、アルは理解が追いついていないようで、困惑だけが感じとられる。
まただ。この間、怒ったときもそうだった。アルは僕が何を理由に怒っているのか理解できていない。
「コ、コーキ? ご、ごめん。本当にごめん」
おずおずと僕の名前を呼び、心のこもらない謝罪をするアル。とにかく謝っておけばいいという精神のもとの謝罪だということが如実に伝わってくる。
「はぁ……」
ため息が一つもれた。まるで子どもの相手をしているようだ。いや、本当に、アルは外見と同じく精神も、子どもそのものなのかもしれない。
「コーキ……?」
反省をしたようにうつむきながら、上目づかいでこちらを見て、僕の許しを期待するアル。きっと、ここで僕がなにを言ったって、僕の目の届かないところでは、アルは同じ過ちを繰り返すだろう。
それでも言わないわけにはいかない。
「いいか、もっと自分の身体を大切にするんだ。今日は浴槽には入らずに、身体を洗うだけにとどめておくんだぞ?」
アルは涙目になりながらも一つ頷く。そして、はらりとタオルを自身の身体から剥がした。無遠慮で唐突な行動だったが、なんとか目をそらすことには成功した。
アルの方を見ないように努める。石けんを泡立てる音、肌をこする音が耳に入り落ち着かない。若干の気まずい空気だが、それを打ち消すようにアルは話しかけてくる。
「ねぇ、コーキ。ちょっと、こっち、向いて?」
アルからの無理な要望がなされてしまった。どうするべきかと硬直する。できれば断りたいのだが、それを言ってもいいのだろうか。
その不安を打ち消すように、もう一度アルは僕に声をかけた。
「大丈夫だよ。今は後ろ向いてるからね。少し背中流してほしいなって、思って」
その言葉に嘘はなく、恐る恐るアルの方に顔を向ければ、椅子らしきものに座りながら、首を回しこちらを見るアルの姿がとらえられる。
「ああ、わかった」
僕がそちらを向いて了承すれば、アルは顔を前に向けた。
浴槽を出て、アルの後ろにもう一つの椅子らしきものを置いて座り、アルの背中をタオルでこする。
「ありがとう、コーキ。いろいろと、ごめん。そして、本当にありがとう」
呟くように感謝と謝罪が述べられた。そこまでのことを僕はなにもした記憶はない。むしろ、今日の件で、感謝するべきは僕の方なのに。
そんな思いこそあれど、いざとなって言葉にするのは難しい。そんなアルの呟きには無言のままで、やるせないまま時間だけが過ぎていった。
「じゃあ、ボクはそろそろ上がらないとね。怒られちゃったし……」
身体を流したその後に、悪戯っぽくそう笑って、アルは浴室から退散していく。
残された僕はなんとなく寂しくて、もう長くここにいる気にはなれなかった。
浴槽に軽く浸り、身体を温めなおしてすぐに、脱衣所へ向かう。乾いたタオルで身体をよく吹いた。
置かれていたアルの用意した服に着替える。男ものの浴衣に似たものであり、寸法もぴったり。着心地もいい。
着替え終われば、ころ合いを見計らったかのように、アルの声がかけられた。
「上がったみたいだね。食事は用意してあるよ」
音でわかったのだろう。辺りは静かで、さらに日本家屋であるから、それなりに遠くまで聞くことができる。
アルの案内で、食事の用意してある部屋を目指す。
部屋に入り、用意されている食事が目に付いた。
「やっぱり、米もあるんだ……」
この流れで大体予想は出来ていた為、さほど驚きはしない。木の器に盛られている日本食といったところか。
もう、日が暮れているのだが、天井に取り付けてある謎の灯りが室内を照らしている。
食事の台は、よくわからないがちゃぶ台とでも呼ぶべきものだろう。そして向かい合うようにして、座布団が二つ用意してある。
アルは僕の対面に正座をして、箸を手に取った。
「いただきます」
そう言うと、さっさと食事にありついていく。いただきますって、いつも言っているのだろうか。
そんなささやかな疑問が僕の中でうまれてしまう。
僕も、もう片方の座布団に正座をすると、箸を手に取った。
「いただきます」
アルに習い食事にありつく。食事全てが、野菜で構成されているようだった。
動物が死ぬと光の粒になるダンジョンでは仕方のないことかもしれない。
けれど、どのおかずも手抜きが一切感じられないものばかりだ。
味付けもしっかりしていて美味しい。毎日こんな食事ができていたら幸せだろう。
みるみると箸は進み、すぐに食事はなくなってしまう。
「ごちそうさま」
そう言いながら箸を置く。量に対して、僕としては早く食べ終わった方だと思う。
ただ、アルはそれよりも早く食べ終わって、今は食器を片付けている。
「美味しかったかい?」
食べ終わった空の食器を運びながらも、アルが神妙な表情をしながらきいてきた。
もちろん、その答えは決まっている。
「ああ、美味しかったよ」
その言葉に嘘偽りはない。
そう答えるとアルは安堵したような笑顔になる。
「良かったよ。一から作った甲斐があったものだね。ふふっ、じゃあボクは片付けているから先に休んでてよ」
アルが一からなんて言うと、素材から作ってそうな気がする。いや、実際にそうなのかもしれない。
アルはいったん片付けを中断すると、僕を寝室に案内する。手伝うと申し出たら、お客様にそんなことさせられないよと、断られてしまった。こればかりはどうしても譲ってはくれず、最悪アルは魔法の行使も辞さない構えであるらしい。
仕方なく入った寝室にはもうすでに、布団などが用意してある。おそらくこれもアルお手製である可能性が高い。
こうなってしまえばやることもなく、僕は布団に入り眠りに就くしかない。今日一日よく考えれば色々なことがあった。この世界に来てから、一番大変な日だったかもしれない。明日も無事に生きて行けるだろうか。
そんな思考はまどろみの中に消えていく。
果たしてそれは、入浴をしたせいなのか、いつもより深い眠りに入るのだった――
焦りましたがなんとか書き終わりました。この章が終わったら全体的に、加筆修正をしたいと思っています。