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長いです。
よろしくお願いします。
バイトは十七時に定時で上がった。
休憩後は二人のおかげで落ち着きを取り戻し、業務に集中出来た。
急いで着替えてロッカーの扉を閉める。
目の前には無表情の自分の顔が鏡に映っている。
三年経っても成長しない顔と心に嫌気がする。
これでは前と同じではないか。
バイトのときは一つのに結い上げている髪を解きながら、暗い影に侵されそうになっている自分に気付き首を横にブンブンと振った。
今日は待ち望んでいたCDが手に入る。
楽しみにしていた日だ。
髪型をどうしようか悩んだが、結局は下ろさずに先ほどより少し高いところでポニーテールにした。
今は客も少ないので表から店を出よう。
休憩室を出ると店長と林さんが黙々と仕込みをしていた。
「お疲れさまです。あまり仕込み手伝えなくてすみません」
「ハル、お疲れさま。いいよ。昨日はおサボり店長の代わりに残ってたんだから今日は早く帰らなきゃね。これから買い物するんだっけ?」
「はい。予約していたCDを買いに」
「いつも適当な林に言われたくないな。陸野、雪が降るかもしれないから遅くならないうちに帰るんだぞ」
「自転車で帰りたいので、CDを購入したらすぐに帰ります、今日は本当にすみませんでした、お先に失礼します」
「いいよ。お疲れさま」
「お疲れー」
笑顔の二人に見送られながら、店を後にした。
店の前に停めてある自転車には乗らず、徒歩で駅に向かう。
バイト先と私の家がある駅の東口は、飲食店や小売店などが並ぶ商店街がある。反対の西口は、駅に併設されている駅ビルの入り口とマンションが立ち並んでいるため人の行き来がとても多い。
駅前に自転車を停めるスペースはない。無断で駐輪するとすぐに撤去されてしまう。駅から少し離れた自転車駐輪場は使用料が意外と高いため通学のときもバイト先に停めさせてもらっている。
お金を節約出来るのはもちろん、駅から近い店に駐輪できるのは本当にありがたく、バイト先には頭が上がらない。
階段を登り、改札の前を通り過ぎる。そうすると駅に直通の駅ビルの入り口が見えてくる。
慣れた足取りでエスカレーターに乗り、上を目指す。CDショップは七階にある。六階にある本屋で見たい参考書もあったが、はやる気持ちを抑えられず後回しにした。
店に着くと真っ先にレジに向かった。財布から予約表を取り出し会計を済ませる。
CDケースが二つ入れられた袋を受け取ると、自然と笑みが零れた。
これで一安心。
目的も果たせたし、本屋に向かおうかなと時計を確認する。
急いで店を出てきた為か、店からCDを購入するまでに十分しか経っていない。
どれだけ所望していたんだろ。思わず笑ってしまった。
今日は十九時までには家に着きたい。本屋を見て、帰る時間を引いてもかなり時間がある。
他のCDを覗きに行こうと思いインディーズコーナーに向かった。
いろんなジャンルのレーベルが並ぶ棚のロックコーナーを目指す。ロック以外の他のジャンルはあまり聴かない。
ギターにベース、そしてドラムから奏でられる純粋なロックが好きだ。脳を刺激する高いギターの音、そして心臓に深く届くベース、その音を束ねるドラムのリズミカルな音が私の全身を震わせるのだ。時に音を歪ませて、私の心を鷲掴みにする。
最近はあまり当たりがなかった。ハマったと言うバンドに出逢えていない。
音楽は一つの道だ。
私の世界には沢山の道がある。料理やスポーツなどの無数にある道で音楽の道を選んだ。その道は幾重にも分かれ、その中のロックと言う道を歩いている。
何をしているかというと穴を探す旅をしている。自分が良いと思える穴。
道程の要所要所にはアーティストと言う穴が掘られていて、その穴を避けたり、時には覗いたりしながら心地の良い穴を探す。
そんな時に出逢うのだ。
探していた、自分にしっくりくる心地の良い穴に。
殆どが覗いて試しに入ってみて、あぁいいかもと分かるのだが、小学六年生の時に心を奪われてからずっと聴いているバンドはまさにハマったという感覚だった。
道を歩いていたら、いきなり穴に落ちた。それが心地のよい穴だったからずっと抜け出そうとしない。
他のバンドに浮気をする訳ではないが、またあのような心を震わす衝撃が欲しかった。
一枚一枚、CDを取り出しジャケットや曲名を確認しては元に戻す。
曲を聴かないで何が分かるのかと言われればそれまでなのだが、何故かどれも心を惹かれない。
少し時間は早いが本屋へ向おうとか思ったその時、あるものに目が止まった。
【ついにメジャーデビュー‼︎
爽快感溢れるメロディーに、切なく心に染みる歌詞と低音の声が貴方を魅了する!
メジャーデビュー曲、視聴コーナーで視聴可能‼︎】
背表紙の文字だけが見えるCDが並ぶ中、唯一、面置きされた二枚のCD。それの側にスタッフの手描きと思われるポップが付けられたバンド名には見覚えがある。
ヤエのページに載っていたバンドで気になって覚えていた名前だった。
昨日ヤエが購入したCDは四枚だった。二枚は今日私が購入したもの。もう一枚は来月購入するもの。そしてもう一枚がこのバンドのCD。
何でだろう、心が踊る。
早く早くと急き立てる。
この感覚は前に味わったことがある。
自然と視聴コーナーに足が向かっていた。
視聴コーナーに並んでいたCDは全部で八枚。
耳に響く動悸に少し息苦しくなる心臓を落ち着かせる為に、ゆっくりと深呼吸をする。機械の三番目のボタンを押し、再生させる。
耳に届いたのは私が求めていた音。
ハマった。
やられた。
足を踏み外して、穴に全身を持っていかれた感覚だった。
耳を刺激する音に自然と瞼が降り、頭が小さく上下してしまう。
いいな、この音。
それにしても一曲目からこれはズルくない?
ベースだけで静かにフェードインしてきたと思ったら、一瞬の無音後に鼓膜いっぱいに広がり響く音の洪水。それが最後まで衰えることなく、終わりも突然途切れる。そして次の曲の音に繋がるのだ。
曲の構成がすごい、うまい。この一曲目はどストライクだった。
もう一回聴きたい。でも一曲だけを堪能していては他の曲が聴けないし、視聴になってないのではないだろうか。
でももう一回だけと決めて戻るボタンを押し、曲名を知るためにCDに手を伸ばした。
CDまであと少しというところで暖かいものが手の甲に触れた。
人の指。
それに気付き慌てて、手を引っ込めて隣を見る。
ワインカラーの上着が視界いっぱいに入ってくる。難しい色を着こなすなと感心しながら目線をかなり上げると、長身と目が合った。
「すみません!」
慌てて謝罪を口にして、耳に付けていたヘッドホンを外す。
CDに夢中になり過ぎていて目も瞑っていたため隣に人が来たことに気が付かなかったようだ。そういえばこの視聴機は二人用だ。
「こっちこそゴメンね。引っ掻いたりしてないと思うけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です…」
首を傾げながら長身が尋ねてきたで、慌てて答える。手が触れてしまったのはお互い様なのに。
でも、あれ、この人見たことが…
「そのアルバム、いいよね」
「えっ、あっ、はい。すごくいいです」
「特に一曲目がヤバイ。世界観に一気に引き込まれる」
点灯しているアルバムの番号を見ながら微笑んで男性が話しかけてきた。
まだ再生されたままであることに気付き、慌てて停止ボタンを押してヘッドホンを首から外す。
「もしかして、邪魔してましたか? もう聴き終わったのでどうぞ」
「いや、もう持ってるから大丈夫。あまりにも真剣に聴いてたから、どんなの入ってたか確認したかっただけだから」
苦笑しながらその男性は、再びCDに手を伸ばして曲名を確認していた。
長い指に大きな手。その中にあるCDが小さく見える。
目線を上げ頭一つより上にある顔を見上げる。
髪は茶髪。軽くパーマがかけられていて、少し長い前髪は横に流れている。
瞳はくっきり二重のタレ目。鼻筋が通った高い鼻に、口角を上げた口元は実にバランスが取れている。左耳には小ぶりのピアスが一つ付いていた。
愛想の良い、人が良さそうな顔。好感度バツグンの端正な顔だ。
「他に何曲目がいいですか?」
勝手に口が動いた。
普段だったら、知らない人と会話などはしない。今日のような場面があったとしても謝罪をしてそそくさと立ち去っているだろう。
それが今は会話を続けようとしている。
それはこの愛想が良さそうな人柄に安心したからなのか、それともこの顔に見惚れてしまったからなのか自分でも分からなかった。
「そうだな、曲の好みは?」
「激しい感じの曲が好きです。でもアップテンポよりも、少し暗めの感じがいいです」
「俺も同じだなー。だったら六と八がいいよ。他に最後の曲がかなり良かった」
「一曲目、私もいいなって思ったんです。だから他の曲も気になって。購入して早速聴いてみます」
「是非。お役に立てて光栄です」
「ありがとうございました。買って帰ります」
棚に手を伸ばすが、そこには何も並んでいない空欄のスペースがあるのみ。
彼が手に持っているもので最後みたいだ。
「ラスト一枚みたいだね」
「そうみたいですね」
「どうぞ。運が良い君に。外暗いから気をつけて帰ってね」
男性は屈託のない笑顔でCDを渡してきた。CDを受け取りレジを目指す。
会計を済ませて、インディーズコーナーに目を向けると、男性はまだそこに居た。
男性も気が付き目線が合うと、微笑んでヒラヒラと手を振っていた。
軽く会釈をして出口を目指す。
何この気持ち…
早鐘を打つ胸を押さえる。顔が紅潮しているのが分かる。歩調もかなり速い。
バイト先に着くと、丁度バイトが終わった林さんと鉢合わせた。
「林さん…」
「今、買い物終わったの? 俺も今から人と買い物に…ハル、顔赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です。お疲れさまでした!」
逃げるように自転車を漕いだ。
冬の夜風が頬を撫でる。火照った顔を今すぐに冷やしたかった。
きっとまた林さんに心配をかけてしまった。
でも今は落ち着いて話せそうにない。
嬉しくて堪らない。高揚している気持ちを沈める術が分からない。
何にドキドキしていて、何に喜んでいるのかは分からないけど、この気持ちを分かち合いたい。
あの男性とのことはずっと誰にも言えないかもしれないが、音楽の喜びなら分かち合える人がいた。
分かち合いたい人。
その人のことが頭をよぎる。
早く家に帰りたい。
曲を聴きたい。
素敵な音楽と出逢えたことを伝えたかった。
自転車のハンドルを握る手に力が入る。
参考書のことなんて頭の片隅にも無かった。
・・・
「ハル、また何かあったな。次のバイトの時に問い詰めるか…」
「昌広」
「おー、待たせた。ん、何かいいことあった?」
「なんで?」
「ニヤつきに更に磨きがかかって、キモい」
「ちょ、それひどい。ちょっとね。ロック好きな子がいて」
「何それ。ナンパ?」
「そんな事しないよ」
「まず飯でも食いに言って詳しく聴かせてもらいますかー? 最近いい事が多いようですからねー誰かさん」
「誰かさん?」
「そう、誰かさん。で、何食べる?」
「………ラーメンか」
「ふーん。ラーメン食べたいの? うちの店で食べる? ビールもあるけど」
「車だから呑まないけど、ラーメンはまた今度にする」
「あっそ。じぁ、そのときラーメン屋行くの付き合ってやるよ」
私が家路を急いでいたころ、ほくそ笑む林さんが更なる思惑を企て、私たちを手の上で転がしていたことを後で知らされることになる。
グッジョブ、林。
君はいい仕事してるよ。