娘が邪魔になったので、三十四歳の私が王太子妃になります
「娘の婚約を、破棄していただきたく参りました」
謁見の間が、静まり返った。
玉座の前に立つ女侯爵は、表情ひとつ変えなかった。
夫を亡くして十五年。
ひとりで侯爵家を守ってきた女だ。
今年で三十四になるはずだが、とてもそうは見えない。
十八の娘と並べば姉妹にしか見えない、と社交界でも評判だった。
「……王太子との婚約を、か」
国王が低く問う。
「はい」
「理由は」
「娘が、邪魔になりました」
ざわり、と廷臣たちが揺れた。
「邪魔……? 実の娘がか」
「はい」
「では、王太子妃はどうする。婚礼は半年後だぞ」
「ご心配なく」
女侯爵は、胸に手を当てた。
「代わりは、私が務めます」
今度こそ、謁見の間がどよめいた。
「正気か……」
「三十四だぞ」
「いや、あの若さなら……」
「娘の婚約者を、母親が奪うというのか」
女侯爵は、どの声にも振り向かなかった。
「夫人!」
声を上げたのは、国王の隣に控えていた王太子だった。
「自分が何を言っているのか、分かっているのですか!」
「分かっております、殿下」
「彼女はあなたの娘だ! この十年、王太子妃になるために、どれだけ努力してきたか――」
「ええ」
女侯爵は、静かに微笑んだ。
「十年、よく働いてくれました」
王太子が、言葉を失った。
「……認めん」
国王が吐き捨てた。
「王家が命じた婚約だ。そのような戯言、聞くに値せん。下がれ」
「承知いたしました」
女侯爵は、あっさりと頭を下げた。
「では次は、書類を揃えて参ります」
去っていく背中を、廷臣たちは汚いものでも見るように見送った。
「父上」
王太子が、拳を握りしめた。
「あの女は危険です。彼女は、私が守ります」
国王は、頼もしげに息子を見てうなずいた。
◇
噂は、その日のうちに屋敷まで届いた。
帰ってきた母を、エマは玄関で待ち構えていた。
「お母様! お城で、殿下と結婚するって言い出したの!?」
「本当よ」
母は手袋を外しながら、あっさり答えた。
「どうして……」
「あなたが邪魔になったから」
エマの呼吸が止まった。
「……私、何かした?」
「いいえ、何も」
「じゃあ、どうして!」
「何もしなくていいのよ。もう、あなたは」
母は侍女を呼んだ。
「エマの部屋の本を、全部運び出して」
「お母様!?」
「外交史も、法律書も、儀礼の本も。もう要らないでしょう」
「待って、あれは――」
十年分だった。
眠い目をこすって読んだ本。
指が痛くなるまで書き写した帳面。
全部、殿下の隣に立つためのものだった。
「お願い、それだけは……!」
母は、振り返らなかった。
◇
それからの屋敷は、日に日に空っぽになっていった。
馬車が売られた。
銀食器が売られた。
客間の家具が、商人に運び出されていった。
父の形見の懐中時計まで、なくなった。
その代わりに、仕立て屋が毎日のようにやってきた。
「まあ、奥様。本当にお若い」
鏡の前で、仕立て屋がため息をつく。
「王太子妃の婚礼衣装も、きっとお似合いですわ。十八と言っても通ります」
「そう」
白いドレスを体に当てる母を、エマは廊下の陰から見ていた。
「……旦那様との婚礼衣装を、仕立て直させるんですって」
「形見は売るのに、ご自分のドレスは……」
「お嬢様がお可哀想……」
侍女たちの囁きが、胸に刺さった。
ある日。
エマは、居間の壁が空いていることに気づいた。
家族の肖像画がない。
父と、母と、幼い自分を描かせた、たった一枚の絵。
「お母様! お父様の絵は!?」
母は、布に包んだ額縁を抱えていた。
「売るの!? お父様まで!?」
「売らないわ」
母は、額縁をエマに押しつけた。
「あなたが持っていなさい」
「……え?」
「私はもう、この家の人間じゃなくなるから」
エマは、額縁を抱えたまま立ち尽くした。
「……お母様なんか」
声が震えた。
「お母様なんか、大っ嫌い!」
エマは階段を駆け上がった。
だから、気づかなかった。
空になった壁の前で、母がいつまでも立ち尽くしていたことを。
◇
三日後。
母の留守に、王太子が屋敷を訪ねてきた。
「エマ。聞いたよ、本のこと……」
「……はい」
「ひどいことをする。君の母上は、どうかしている」
殿下は、エマの手を取った。
「心配いらない。私は、あの人とは結婚しない。婚礼は予定通りだ」
「殿下……」
「私には、君が必要なんだ。王太子妃の務めは、君にしか果たせない」
涙がこぼれた。
「……はい。私、頑張ります」
「ああ。頼りにしている」
殿下が帰ったあと、エマは運び出されずに残っていた帳面を一冊、胸に抱いた。
殿下は、一度も「好きだ」とは言わなかった。
でも、必要だと言ってくれた。
それで、十分だった。
◇
ひと月後。
侯爵は、再び謁見の間に現れた。
今度は、三通の書類を携えて。
「まだ懲りぬか」
国王は、あからさまに顔をしかめた。
「本日は、書類を揃えて参りました」
一通目。
「屋敷の家財を売却いたしました。その代金で、王家に負担していただいた娘の教育費を、全額お返しいたします」
宰相が目録を確かめ、うなずいた。
「……確かに。十年分、すべてです」
「馬車も家具も、夫の形見まで売ったと聞いたぞ」
国王の声に、軽蔑が滲んだ。
「金で、娘の婚約者を買い取るつもりか」
「そう見えるのでしたら」
二通目。
「侯爵位を、娘に譲ります」
廷臣たちが息をのんだ。
「家まで捨てるのか。……王家に入るために」
「はい」
「恥を知れ!」
どこかから声が飛んだ。
女侯爵は、眉ひとつ動かさなかった。
三通目。
「私と、王太子殿下との婚姻の申し立てです」
「いい加減にせよ!」
国王が肘掛けを叩いた。
「王太子は二十だ! 十四も年の違う女を妃にできるか!」
「年、でございますか」
女侯爵は、首をかしげた。
「では殿下は、妃に何をお求めなのでしょう」
視線が、王太子に向いた。
「……何を、とは」
「お聞かせください。皆様の前で」
王太子は、ちらりと国王を見てから、胸を張った。
「無論、愛と信頼だ。私と彼女は、十年かけてそれを――」
「三か月前」
女侯爵が、言葉を遮った。
「殿下は、我が家へいらっしゃいました」
王太子の顔が、固まった。
「娘には会わず、私にだけ。そして、こうおっしゃいました」
謁見の間が、しんと静まる。
「『私には、愛する女性がいる』」
「……っ」
「『結婚後も、そばに置く。王太子妃には、仕事だけしてもらう』」
「でたらめだ!」
「『あなたの娘は優秀だ。外交も法律も任せられる。私は愛する人と過ごせて、あなたの娘は地位を得る。誰も損をしない』」
「父上! この女の虚言です!」
「『彼女にも伝えてある。了承済みだ』」
「でたらめだ!」
「では、娘に直接お尋ねになればよろしいでしょう」
「必要ない! エマは家のためなら断らない!」
言ったあとで、王太子は口をつぐんだ。
謁見の間が、冷えた。
「……今、ご自分でお認めになりましたね」
「違う。私は――」
王太子は、背後の侍女を見た。
侍女は青ざめていた。
王太子は、とっさに一歩、彼女の前へ出た。
「彼女を巻き込むな!」
女侯爵は、静かに王太子を見た。
「私はまだ、その方が誰とは申し上げておりませんが」
廷臣たちの視線が、一斉に侍女へ向いた。
王太子は、答えられなかった。
「……まことか」
国王の声が、低くなった。
王太子は、答えなかった。
「陛下」
女侯爵が、国王へ向き直った。
「殿下が妃に求めておられるのは、愛ではございません。仕事です」
「……」
「ならば、年は関係ございませんでしょう」
「……何?」
「外交も、税も、領地の差配も。夫を亡くしてから十五年、侯爵家を回してきたのは私です。娘にそれを教えたのも、私です」
女侯爵は、ほんの少しだけ笑った。
「仕事でしたら、娘より私のほうが上手くやれます。幸い、姉に間違われる程度には若く見えますので。お飾りの妃としても、見苦しくはないかと」
国王が、机の書類を見た。
教育費の返済。
爵位の譲渡。
自分との婚姻。
もう一度、侯爵を見た。
「……お前」
声が、かすれた。
「娘の代わりに、自分が行くつもりか」
「はい」
「愛のない結婚に」
「はい」
「仕事だけを求められる場所へ」
「はい」
国王はしばらく黙った。
「……娘が邪魔になった、というのは」
初めて。
女侯爵の返事が遅れた。
「……それでもあの子は、行くと言うのです」
「何?」
「殿下の心が、自分にないと知っていても」
女侯爵は、少しだけ目を伏せた。
「家のために」
国王が黙った。
「だから」
女侯爵は笑った。
「邪魔なのです」
「お母様!」
◇
扉のところに、エマが立っていた。
髪は乱れ、息は切れ、ドレスの裾は泥だらけだった。
「……どうして、ここに」
「馬車、ないから……走ってきた……!」
誰かが、思わず吹き出しかけて口を押さえた。
「セバスチャンが、全部話してくれた……」
エマは、ふらふらと母の前まで歩いてきた。
「お母様の、馬鹿」
「……そうね」
「馬鹿! 大馬鹿! 大っ嫌いって言ったのに!」
「ええ。言われたわ」
「なんで、言ってくれないの!」
「言ったら、来たでしょう」
「当たり前でしょ!」
「だから」
侯爵は、困ったように笑った。
「邪魔だったのよ」
エマの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……私、邪魔だった?」
「ええ」
女侯爵は、娘を抱きしめた。
「とっても」
エマが見た母の泣き顔は、父の葬儀の日以来だった。
◇
国王は、長い息を吐いた。
「……婚約は、破棄する」
エマが顔を上げた。
「王家の都合で結んだ婚約だ。王家の非で、白紙に戻す」
「父上!」
「黙れ」
国王は、息子を見なかった。
「そして侯爵。婚姻の申し立ては却下だ」
「承知いたしました」
「爵位の譲渡も却下だ。お前が持っていろ」
「ですが、もう娘の名で――」
「却下だと言っている! 教育費も持って帰れ! 王家の過ちの代金など受け取れるか!」
エマが、泣きながら少しだけ笑った。
国王は、ようやく息子を見た。
「お前は、妃に仕事を押しつけ、愛する女を侍女として王宮に置き、それを了承済みと言った」
「……」
「その上、この場で、愛と信頼だと嘘をついた」
「……っ」
「……王太子を辞めろ」
王太子が止まった。
「……はい?」
「お前でなければならない理由がなくなった」
「父上!」
「愛する女がいるのだろう」
「それは」
「結婚すればいい」
「ですが!」
「王太子でなくなれば好きにできる」
「お待ちください!」
「何が不満だ」
「私は王太子です!」
国王が息子を見た。
「その仕事をするために必要な女を愛さず」
王太子が黙った。
「愛する女にはその仕事をさせず」
「……」
「必要な女だけ確保しようとした男が?」
王太子は何も言えなかった。
「ですが、私を外せば誰が――」
「あやつがおるではないか」
王太子の顔から、血の気が引いた。
「お前も捨ててみろ」
国王が言った。
「何を」
「地位を」
「……」
「愛する女のためなら、できるだろう?」
返事はなかった。
王太子は、侍女を振り返った。
侍女はもう、彼を見ていなかった。
エマが、涙を拭いて前へ出た。
「殿下」
「エマ……君なら分かってくれるだろう、私は――」
「私、殿下のお役に立ちたかったです」
「なら!」
「でも」
エマは、母の手を握った。
「母が、もう何もしなくていいと言うので」
エマは、深く頭を下げた。
十年かけて身につけた、完璧なお辞儀だった。
「失礼いたします」
◇
半年後。
侯爵家の食堂には、見慣れない椅子が並んでいる。
売った家具を買い戻そうとしたら、倍の値がついていたらしい。
「腹が立ったから、別のを買ったわ」
と母は言った。
居間の壁には、家族の肖像画が戻っている。
「お母様。話があります」
「どうしたの、エマ?」
「結婚したい人がいます!」
母の手が止まった。
「……誰?」
「やっぱりそうなるの?」
「名前は?」
「待って」
「家は?」
「お母様!?」
「借金は?」
「ない!」
「女は?」
「いない!」
「本当に?」
「たぶん!」
「たぶん?」
「そこだけ拾わないで!」
母は、紅茶を一口飲んだ。
「その人、あなたに何て言ったの」
エマは、少し赤くなった。
「……何もできなくても、好きだって」
母は、しばらく黙っていた。
「そう」
「それだけ?」
「十分よ」
エマが、テーブル越しに母の手を握った。
「お母様。今度は、何も捨てないでね」
「ええ」
母は笑った。
「今度は、祝うだけにするわ」
玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、来ちゃった! 外で待っててって言ったのに!」
通されてきた青年は、母を見るなり、深々と頭を下げた。
「はじめまして! お姉様でいらっしゃいますか!」
「うん、合格!」
「お母様!?」
真っ赤になって叫ぶ娘の隣で、青年がおろおろしている。
女侯爵は、声を上げて笑った。




