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遂げる

作者: 一条ゆり
掲載日:2026/08/03

私の大切な娘

「よし」

そう言って私は玄関を出た。玄関脇に止めてある自転車に乗って私は駅に向かっている。駅前にある図書館で本を借りようと思っていたのだ。駅につき、自転車を停めて図書館に入る。外は蒸し暑かったが、図書館は冷房が効いているためか涼しい。夏休みなので結構人がいる。勉強している人、椅子に座って本を読んでいる人、子供連れの人で賑わっている。私はティーン向けの本がおいてあるところに向かった。そこで一冊本を選び図書館を出て、また自転車にまたがって駅を離れた。今は7月、太陽が肌を温め、水色の空に厚みのある白い雲、きれいな景色だった。そんな景色に見とれているその時、車道から歩道に戻ろうとしてハンドルを左に切った。すると車輪が段差に巻き込まれ大きく左に傾いた。転けると確信した瞬間、スローモーションになったがどうにも出来なかった。体と自転車が熱いアスファルトに打ち付けられ、左膝に大きな痛みを感じた。そのまま動けないでいると「大丈夫ですか?」上から声が降ってきた。私が顔を上げると中年女性が心配そうに腰を曲げて私の様子を伺っていた。私はとても恥ずかしくなって慌てて「すみません、大丈夫です」と言って起き上がり速やかにその場をあとにした。しかし、自転車を漕ぐ左足に力が入らない。ここから家に帰るまであと20分はこがないといけない。長ズボンを履いていて左膝の様子は確認できていないが、感覚的に結構な血が出ているだろうと予想された。家に帰って汗ばんだ額の汗を拭い、ソファに座ってズボンを膝上までめくりあげる。すると膝に怪我なんてなかったのだ。触って確認してみても血なんて流れていない。ただの肌色しかそこにはなかった。「おかしいな…」思わず声が漏れる。しかしないものはない。気にすることはないなと思い、二階の自室で勉強をした。そうしている内夕方になり母が仕事から帰ってきた。夕飯時になり私は帰り道のことを話した。

「自転車であそこの道の段差でこけて痛かったんだよね」

「え〜、ほんと?ちょっと膝見せて」

私がズボンをめくってなんともない膝を見せた。

「あれ、血出てないね」

「結構痛かったんだけど…」

と言ったが「お大事に、気をつけてよね」という母の一言で話が別の方向へと流れてしまった。

次の日、自転車で転けたことなんて忘れていた。そんな事より「今日は勉強の一日だ」ということの方が頭にあった。今日はいつもより憂鬱な朝だった。母が部屋までやってきてようやく目が覚めたのだ。昨日は久しぶりに外出できたがすぐに現実に引き戻される。やる気なんて沸かない。しかし、受験生だから仕方がない。そう言い聞かせ早めに支度を済ませ、最低限の荷物を持って家を出た。

勉強場所は家から近い商業施設に良い場所があるのを最近見つけた。田舎なので使っている人は見たところ私以外に2,3人ほど。最近までその場所に店舗が入っていたが撤退してしまい、自習場所となったようだった。15分ほど自転車を走らせたあと、駐輪場に自転車を止めた。そして正面入口とは別の入口から中に入った。中の様子はまだ開店準備をしている店舗が多い、というか空き店舗になっている所が多い。あたりは静まり返っており自習室まで歩く私の足音しか聞こえなかった。タイルの上を歩く規則的なコツコツとした音。天井には蛍光灯が広い間隔で並んでいた。蛍光灯は壊れていないのに全体が暗く天井と床に影が映っている。窓も所々にしかなく外からの光はほぼ入ってきていない。天井と床は少し黄ばんでおり、長年の劣化を感じさせる。壁の所々にカビも生えていて汚れも目立つ。隅の壁は真っ暗で何かが潜んでいそうな気にさせる。何故かこの場所に私しか居ないと錯覚してしまいそうだった。古びた施設に私一人が外の世界から取り残されたみたいに。いい場所ではあるが前からどこか不気味に感じる場所でもあった。そんなことを考えているとだんだん怖くなってきてしまい、その思考を頭からすぐさま排除してリュックの持ち手をギュッと握りしめ、自習場所まで速歩きで歩く。場所に着いて椅子に腰を下ろす。周りを見渡しても誰もいない。早めに来てしまったせいだろうか。でも一人で気を使わずに勉強できるいい環境だと思った。ワークを広げ、長い髪を耳にかけて勉強を始めた。一時間だった頃だろうか。左膝の痛みが気になってきた。キリキリとした痛み。しかし、少しの痛みだったので我慢してワークの問題を解き続けた。もうすぐキリがいいので少し休憩しようかと思ったその瞬間ギリッとした痛みが左膝に走った。思わず右手のシャーペンを落としてしまった。「ふ~っ……ふ〜っ…」という私の荒い息が施設内に響く。膝を撫でてなんとか痛みを抑えようとするが痛みがおさまらない。だんだん痛みが抑えられなくなっていく。「うっ……ううっ…」といううめき声が漏れ、椅子から転げ落ちた。不運なことに周りに誰もいないせいで助けを求めることすらできない。薄暗い場所に私ただ一人だけだった。歯を食いしばってテーブルに手を乗せて膝立ちになる。そしてリュックの中からスマホを震えた手で取り出した。そして母に電話をかけた。繋がることを祈って。なかなか繋がらず諦めかけた瞬間に電話が繋がった。

「もしもし、どうした?」と母の声が聞こえて少し安堵する。

「ちょっと…膝…痛くて…」と苦しそうに話した私の一言にただならぬ事態を察したようだった。

「大丈夫?今から行ったほうがいい?」

「…お願い出来る?忙しいのにごめん…」「気にしないでいいの!今行くから」と言われ電話を切られた。

電話をした数十秒後にだんだん足の痛みが引いてきていた。LINEで今自分がどこにいるのかを伝え、そして数十分後に母が迎えに来てくれた。母が机の上のものをまとめてリュックを背負い、私のこともおんぶしてくれて助手席におろしてくれた。その後に自転車を車の後ろに乗せた。運転席に座った母がエンジンを入れて車を走らせる。

「ありがとう来てくれて、もしかしてパート抜けてきたの?」

「そんなこと気にしないでいいよ、それより痛みはどのくらい?」

「さっき激痛だったんだけど、今はちょっと収まってる」

「ほんと?良かった〜、ていうか電話越しで歩美死にそうじゃなかった?」

「え?」

「アァ〜アァ〜って、こんな感じ。」

そういって母は片手をゾンビのように伸ばし、口を縦にわざとらしく大きく開けた。

「そんなんじゃなかったでしょ〜」

「えぇ〜?そんなんだったよ〜」

私が冗談交じりで怒り、母がさらにふざけていた。

急に静かになって母がポツリと言った。

「そういえば、前にも歩美が体調悪くなって迎えに行ったことあったよね」

「え〜あったけ?」

「あったあった、小学生の時覚えてない?」

「あ〜、あの時か」

「そう、学校から呼び出しがあった時」

小学生の時、何年生だったか詳しく覚えていない。授業中ずっと頭がぼんやりして体がだるくて、喉も痛かった記憶がある。そんな中、私は気がつくとベットの上にいた。話を聞くとどうやら倒れたらしかった。保健室の先生が「体温を測ったら熱があってね、もうすぐお母さん来てくれるから」と説明してくれた。その10分後くらいに母が息を切らして保健室にやって来て私を連れて帰った。その日は夜勤も休んでずっと付きっきりで看病してくれた。真夜中、母が私のそばで椅子に座って、私がベッドで母に背を向けて寝ているときに「私が代わってあげたい」と心配そうに言ってくれたことが強く思い出に残っている。なんでそんなこと言ったんだろう。私には分からなかった。しんどくて苦しいだけなのに。そんな記憶が一瞬のうちに頭を駆け巡った。

「あれ懐かしいね」の母の一言で現実に引き戻される。

「てかあの時大げさで恥ずかしかったんだよ、あんなに過保護にしなくていいし」

「そうかな?歩美に何かあったら嫌だし、痛い思いして生んだ子だよ?」

「それも大げさ!」

なんて話をしていたら家に着いた。痛みはもう収まっていたので自分で玄関まで歩いた。

「念の為明日病院行くよ」

と母が私に向かって言った。

「え〜、大丈夫だよ」

「念のためって言ったでしょ、行かないで不安になるより、行って何もなかったほうがマシ!」

と、母に説得された後、今日は安静にしとくように言われて、自室にこもって軽く勉強をした。

次の朝、母は朝早くから病院に予約を入れ、病院に行ったが「何も異常はない」と言われて早々に返された。

「ほら〜、大丈夫って言ったじゃん」

「でも何もないってわかってよかったでしょ」

「まあ、それはそうだけど」なんて会話を交わしながら車で家に帰った。その後私は受験に向けて夜遅くまで勉強をしていた。そして誰もが寝静まった夜12時、そろそろ終わろうかなと思いながら、ぼんやりとした目をこすり勉強をしていた。とその時、またあの感覚が襲ってきた。左膝に僅かな痛みを感じだしてきたのだ。体が少し強張ったが、気にしまいと冷や汗をかきながらシャーペンを走らせる。部屋の空気が異質なものに変わるのが分かった。その時は机の上の電気しかつけていなかった。その電気が届いていない真っ暗な空間になにかがいる気配がして、鳥肌が一斉に立つ。何かがおかしいと頭から信号が送られてくるのも分かっていた。慌てて今日はもう終わろうとシャーペンを置いた瞬間、またギリギリギリッという激痛が左膝から稲妻のように突き抜ける。「ぃたっ…いたいっ!」と私の苦しげな叫びが家に響くが、母は夜勤で家には居ない。「っ…はっ…ううっ…」と痛みに悶え苦しむ。まるで地獄のようだった。なにか私が悪い事でもしたのか。神に縋るような思いだった。この痛みから解放してくれるなら何でも甘んじて受け入れると必死に願った。痛み始めて30分くらい経ったと思って時計を見ても10分しか経っていない。痛みが収まるのを待ちながら一歩も動けない時間が何時間も続いた。

気がつくと机の上で目を覚まして朝になっていた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。額も体も汗でぐっちょりしていた。私は呆然とした気持ちで階段を降りた。するとキッチンの方に母の姿が見えた。

「おはよう、今日早いね。何?汗かいてない?もう、冷房つけていいのに」

「う、うん」

冷房をつけて勉強していたことをこの時は何故か母に言えなかった。言ってはいけないような気がした。 母がキッチンで作業しているのを横目に見ながら、私はインターネットで狂ったように検索をしていた。「左膝 激痛」「左膝 珍しい病気」などと検索したがぴったり私に当てはまるような症状の病気はなかった。しかも、昨日異常はないと医者に言われたばっかりだ。今日も行っても結果が変わらなかったら恥ずかしいだけだし、母に心配もかけたくない。でもまたあの感覚が襲ってくるかもという恐怖が私を包んでいた。少し考えてスマホから目を離し、白い壁をまっすぐ見つめながら

「ちょっと…今日図書館行ってくるから」と母に言った。

「そうなの?勉強?」

「うん、勉強…」

「そう、あんまり無理しないでね、私もすぐ仕事行くから」

会話を終えて準備をして、焦点の定まらない目で家を出た。自転車に乗っている時に激痛が来たら困るので、歩いて向かった。気温は30度超え。髪が額に張り付き、汗がたれてきても気に止めることはなかった。トボトボとおぼつかない足取りで歩き続けた。確実に自分がおかしくなっていっているのが分かっていた。一時間くらい歩くと図書館着いて中に入る。涼しくて頭の意識がはっきりしてきて、そこでようやく自分の喉がカラカラに乾いているのに気がついてお茶を飲んだ。そして今日図書館に来たのは勉強するためではなかった。左膝の激痛の原因を突き止めるためだ。インターネットに載っていない病気が本に載っている可能性にかけて。借りていた本を返したあと、「医学」と書いてある棚の一番上の段から一番下の段まで一冊ずつ指を指しながら探してみた。本を選んで読んでの作業を何回も繰り返した。しかし、これだと思う症状が見つけられなかった。半ば諦め気味に棚を少し離れたところからぼーっと眺めていると、ある一冊の本に目が吸い寄せられた。その本の背表紙には「膝の解術について」と書いてあった。手を伸ばしてその本を手に取る。表紙は真っ黒で題名がさらに濃い黒色で書かれている。その本を抱え端のほうの席に座った。本をを開き1ページずつ目を通していく。字体がよく使われている明朝体ではなく筆で書いてあるような字体だったので少し気持ち悪かった。頑張って読み進めてみるがなかなか見つからず心のなかで「見つかってくれ…」と祈っていた。そしてもう読み終える寸前のところで気になる文章の見出しを見つけた。見出しには「転げた日から左膝の謎の激痛に悩まされているあなたへ、これを行えばもう安心です」だった。これだ、まさに私の事を言っているかのようだ。よくよく思い返してみると転けた日から激痛が始まっていた。見出しを見ただけで大興奮して、早速借りようとカウンターまで行き、本を差し出した。

「この本、貸出お願いします」

「はい、かしこまりました」

事務員の方が本にバーコードリーダーをかざす。すると、眉をひそめた。

「えっと、少々お待ちいただけますか」

「はい」

何やらパソコンを凝視している。そして数十秒経った時、私に向き直って

「蔵書検索をしてみたんですが、どうやらこの本はこの図書館に登録されていないみたいで」

「そう、なんですか」

「すぐにこちらで仮登録をさせていただいて貸出いたします」

「ありがとうございます」

仮登録をしたあと、本を受け取り図書館を後にした。太陽で熱せられたアスファルトの道をスキップしながら歩いた。さっきまで吹いていなかった風が吹いていて、木がざわざわと音を立てて揺れている。無意識に口角が上がっている。この本を読めば何とかなるかもしれない。そんな予感で嬉しくなった。家につくと早々に二階に上がり自室の勉強机で本を開く。見出しの下に「手順」と書かれていた。左から右へと目を動かしていく。


1 まず家族の誰か一人を選びましょう

2 その人の遺灰の粉を手元に用意しましょう

3 ワセリンに遺灰を混ぜてクリーム状にしましょう。

4遺灰のクリームを左膝に塗りましょう

これでもう安心です


頭がここに書いてある内容の理解を拒み、反射的に本をバンっと音を立てて閉じた。誰がこんなイタズラをしたのだろう。読む人を怖がらせるために書いた悪趣味な本?明らかに創作で書いたものじゃないか。間違って医学の場所に置かれていたのかもしれない。こんな本すぐ返しに行こう。書かれていたことは冗談だと言い聞かせながらも、胸に手を当て早い鼓動を抑えようとしていた。本を棚の奥にしまい、本の事を忘れるように勉強に没頭した。

勉強に集中していると夕方になり、下から「ご飯出来たよー」という母親の声が聞こえてきた。シャーペンを置いて背伸びをしたあと、部屋を出て階段を降り、ダイニングテーブルに母と向かいあって座った。今日の晩御飯は唐揚げだった。私は下を向いてご飯を食べ始めた。

「ねえ、歩美大丈夫?」

いきなり話しかけられびっくりして顔を上げると、母が眉毛を困ったように下げて私のことを見ていた。

「え、何が?」

私はキョトンとした顔で母を見つめた。

「いや勉強のストレス溜まってるんじゃないかな〜って思って、朝元気なかったでしょ」

「え、なんで分かったの?」

「歩美の母ですよ?わかって当然。で、勉強のストレス溜まってない?」

「ああ大丈夫、今が頑張り時だし」

「心配だよ、ほら私最近歩美のことあんまり見てあげれてないじゃない。」

「朝も夜も仕事で忙しいんでしょ、一人で家のこと支えてくれてるし、すごく感謝してる」

「ごめんね、無理させてるよね、私が離婚しちゃったもんだから」

少し気まずそうに笑いながら母は言った。

「いいってばその話」

私が冷たく言うと母を俯いた。強く言い過ぎたかと心配していると、母は静かに顔を上げて微笑んだ。

「…ねえ今度どっか旅行行かない?来月あたり」

「えぇ?急にどうしたの?」

「たまにはいいじゃない、何年か前から私たちでどこにも遊びに行けてないし」

「でもお金は?」

「良いの気にしなくて、経験ってすごく価値があるから」

最近ずっと勉強ばかりだったし、お金の事も気にして節約してたし、たまには良いのかな。

「…行こうかな」

と私は照れくさそうに言った。

「良かった!じゃあ行く場所は歩美が決めて良いよ、遠慮しないで行きたい場所にするのよ」

と母は笑顔を弾けさせて言った。

「わかった、じゃあ神社とかにしようかな〜」

「あ、もしかして受験合格するために神頼みする気?」

「フフッ、バレた?」

二人きりの寂しい食卓が親子の温かい笑い声に包まれていた。

その夜、私はスマホで観光スポットを調べていた。行きたい場所に行けばいいと言っていたがなるべく母に負担はかけたくないから安い所にして母が好きそうなところにしようと思う。だって母が弱音を吐かず毎日働いてくれているのを知っているから。私のことを心配してくれていたけど、私なんかより母のほうがずっと疲れているはず。母はそういう人だ。いつも人のために自分を犠牲にする。前、母が近所の人と話している所を通りすがりに偶然聞いたことがある。「歩美がどんな道に進んでも応援出来るようにお金を貯めている」と笑いながら言っていたのだ。その言葉を聞いてからというもの、私はより一層努力して勉強していた。そんなことを思い出しながらジーンとして、スマホを操作しているとヒヤリとした感覚が全身を駆け巡り、体がブルッと震えた。エアコン強くしすぎたかな?と思ったがすぐに違うと分かった。心臓が飛び出そうなくらい動いている。耳元に心臓を押し付けられているのかと思うくらい鼓動の音がはっきり聞こえる。「だめ、やば…い」と言った瞬間左膝にガリガリガリッという激痛が走った。スプーンで膝をえぐられているような感覚。服の布を噛んで必死に耐えていた。

「あぁ…もうこれ無理だ」

地面に寝転び意識が朦朧とする中、勝手に笑いが込み上げてくる。涙もボロボロと垂れ流しになっていた。なぜ大勢いる人の内の私だけがこんなにも苦しめられなければならないのか。痛みで何も考えられない脳裏には、何故かあの本のことだけが浮かんでいた。あれしか方法はないのではないか?いやいや何を考えてるんだ。あんなおかしな物。

朝になっても痛みは続いていた。前よりも増して酷くなっていた。涙は乾ききっていて、声も出さず無言でただ耐えていた。その時玄関のドアの開く音がした。母が夜勤から帰ってきたのだろう。下から階段を上がってくる音が聞こえた。私を起こしに来たのだ。部屋の前で足音が止まり、母はノックもせずに扉を開けた。床に寝転んでいる私を見て一瞬言葉を失った後「どうしたの?」と言った。私は天井を見つめ何も答えなかった。母は私のそばにしゃがんで私の頬を伝った涙の跡をスーッと撫でた。

「何があったの?」

「なんでもない」

「私には言えない?」

「そうじゃなくて…」

言っても無駄だと思った。これは病気じゃない。呪いだ。

少し間を開けて「何でもないから」と言った。

母は黙って私のことを抱きしめた。自然とまた涙が溢れてきた。

「それじゃあ、朝だし、朝ごはん食へよっか?」

しばらくしたあと母が明るくしようと笑顔で言った。

「…うん」

「ね、そうしよう、じゃあ私作り始めるから一緒に下降りよう?」

そう言って母が部屋の外に出た。私もその後ろに続いて部屋を出た。そして母が階段を降りようと足を一歩踏み出したとき、多分魔が差したんだと思う。頭がぼーっとしてて。膝が痛くて痛くて、あの方法を試したくて。いつの間にか自分の両手を母の背中に当てて、そのまま強く押した。

すぐにドンッて音がした。数秒間両手を伸ばした状態で立ち尽くしたあと、私は真っ直ぐ前を見て、とぼとぼと階段を降始めた。そして母の姿を見て自分が何をしたかに気付いた。母はピクリとも動かなかった。私は母の傍らに崩れ落ちた。

その後私は救急車を呼んで、母は運ばれていった。その間も母の心配ではなくて自分の心配をしていた。私が突き落としたことがバレたらどうなるんだろう、もしそれで捕まったら…。なんて最低なやつなんだ私は。この場に及んで自分の保身ばかり考えている。心臓がバクバク飛び出しそうになりながら病院の待合室で座っていた。その間ずっと誰の目も見れなくてうつむきながら服の裾を掴んでいた。しばらくしたら白衣の人が処置室から出てきて険しい顔で私の前に立った。私が顔を上げると、その人は私を落ち着かせるように「お母様が先程息を引き取りました。頸髄の損傷で首を強く打っており…力が及ばず大変申し訳ございません」と丁寧に言って頭を下げた。私は全身に冷や汗をかいたと同時に少しだけ安心していた。もしお母さんが回復したら合わせる顔がないから。「あ…そうですか…」と小さな声で答えて、だんだん目頭が熱くなってきて涙がボロボロと溢れ出してきた。それを見た白衣の人が私の隣に座って背中を擦ってくれた。多分母親を亡くして悲しくて泣いたんだろうと思ったんだと思う。でも私は自分の犯した罪を悔やんで泣いていた。

その後警察からの事情聴取も受けた。取調室で目の前に警察の人がどっしり座っていた。優しい喋り方なのに威圧感があった。「お母さんと最後に話した内容は?」「お母さんは何か悩んでいたか?」「事故があった時間何をしていたか?」などの質問をされた。私は咄嗟に嘘が出てきて、玄関で会話を交わしたのが最後の会話だとか、母は仕事にとても疲れていたとか、私は事件が起きた時刻は家にいなくて、帰ってきて母が倒れているのに気がついたとか、そんな事をペラペラと淀みなく喋った。この場に及んで嘘をつける自分に吐き気がした。それから警察は、母がシングルマザーで夜も朝も夜勤をしていて、母の遺体を調べても抵抗したあとが無く、親子仲も良好だったことから、不注意による事故か、それとも仕事に疲れての自殺だと判断し、事件性はなしと決定づけたらしい。防犯カメラでバレるかもしれないと思ったが、田舎なのでほぼ置いていなかった。

その後数日経って、母の親戚の女の人が喪主になって葬儀の手続きをしてくれた。私はその人に会ったことも無かった。そして葬儀の日が来て喪服を着て、喪主の親戚の女の人と会場に入った。母の仕事仲間の人や知らない親戚の人が座っている。しばらくして葬儀が始まり、住職の人が入ってきて読経が始まると、母は死んでしまったんだという実感が湧いてきた。あ〜、お母さんと一緒に旅行行きたかったな。楽しみだったな。馬鹿だ、ほんとに馬鹿だ私。今までの母の優しかった思い出が走馬灯のように頭を駆け巡って後悔が募っていく。お母さんごめんなさい。こんな娘でごめんなさい。

火葬が終わった後、骨上げをする事になった。二人一組で骨を箸で挟んで骨壺に入れていく。私はそれを目の前で見ていた。そして誰も見ていない事を入念に確認して、覚悟を決めて、小さい骨をポケットに隠し入れた。周りの人が私の行動に気づいた様子はない。その後も幸い誰にも気づかれることなく骨上げは終わった。

葬儀が終わり、私は「一人の時間が欲しい」と言って、親戚の女の人とはわかれて一人で家に帰った。帰る途中も足が痛くて左足に力を加えないように歩いた。あれからずっと痛みは続いていたが、何日も経っていたので耐える精神力はギリギリ持っていた。葬儀の時の後悔とは一転して私の心は落ち着いていた。靴を脱ぎ、一直線に二階の自室に入る。そして棚の奥に置いた本をおそるおそる取り出して机の上に置き、手に持っていたレジ袋も机の上に置いた。袋の中身は葬儀の帰り道でドラッグストアで買ったワセリンだ。さらにキッチンから持ってきたすり鉢も机の上に置いた。そして本のページをめくり、あのページを開きっぱなしにして、隅のほうに置いた。そしてすり鉢の中に盗んできた小さな骨を入れる。手順2に沿うために、すりこぎ棒を手に持つ。ガッガッと上から棒を振り下ろすと端のほうが欠けていった。何度もやっていると突然パキッと真ん中から割れて、すりやすくなった。途中で指に力が入らなくなったけど、歯を食いしばって耐えた。骨が崩れていく時の音が音が悲鳴みたいだった。しばらくすると粉状になった。次にワセリンと遺灰を小皿の上で指で揉むようにして混ぜた。指先にワセリンがベタベタと付いて、そこから神経を通って染み込んでくる。混ぜれば混ぜるほどワセリンが熱くなってくる。生きているみたいに。なんとか混ぜ終わって左膝にぬろうかと思ったが出来なかった。ぬろうとしてもどうしても葛藤してしまい、寸前の所で躊躇してしまう。仕方なく小さな瓶にクリームを移し、その日はもう眠ろうとしたが、足が痛くて目を瞑っているだけで過ごした。

朝起きて階段を降りる。キッチンに母の姿はない。ああ、死んだんだった。そうだ、もう居ない。居ないのなら別に躊躇する必要なんてない。居ないのなら叱ってくれないし、何も干渉してこない。そう思い直して2階の自室に戻った。セミが鳴いていてとても蒸し暑く、机の奥にある窓を開けた。そして机に置いてあった瓶を手に取り蓋を開けた。右手の人差し指でクリームをすくう。少しだけ、少しだけ。目を閉じて呼吸を整える。目を開けた瞬間左膝に人差し指を置く。クルクルと塗り拡げていくとじんわり温かくなり、またたく間に痛みが和らいでいった。「はあ…はあ…」クリームを塗るだけなのに息が切れていた。あの本は本当の事を書いていたのだ。創作ではない。普通だったらあんなの信じないが、目の前であんなことが起こっているのだ。信じる他ない。興奮しているといきなり目の前に景色が見えた。キッチンで母が料理をしているのを、私はキッチンのすぐそばにある椅子に座って眺めていた。揚げ物を揚げながら、こっちを振り向いて優しい顔で笑いかけて揚げ物のコツを教えてくれる。そういえば母は私に料理をよく教えてくれた。私は料理があまり好きではなかったが、母が私に料理を教えるのが好きだったようで、母の笑う顔が見たくて私はそこでただじっと座っていた。笑いかけてくれる母に応じるように私も少しだけ笑い返した。そうやって母が揚げ物から目を離している隙に、油が跳ねて母の腕に直撃した。「熱っ」と言った母のリアクションに私は声を出して笑った。そんな懐かしい思い出に浸っているといきなり目の前が真っ暗になった。そこには母がぽつんと怖い顔をして立っていた。全体がやつれていて、鋭い目で私を睨んでいた。

私はすぐさま地面に膝をつき「ごめんなさい!こんなつもりなくて…」と涙ながらに言った。

「こんなつもりなくて?お前はまた逃げるんだ?」と母は冷たい声で嘲笑うように私に言った。

「え…?」

「私を殺した責任から逃げて、今度は言い訳して逃げて!」と私を強い声で怒鳴った。

「ごめんな…本当にごめんなさい…」と私は母のそんな声を聞いたことがなくて萎縮した。

「お前なんて産まなきゃよかった。今までの思い出全部忘れて。お前は私の子じゃないから。」

「なんで、嫌だ!お母さん!」

「そうやって呼ぶな!」

「待ってよお母さん!」

声が潰れそうになりながら、必死で叫び、母のいる方へと手を伸ばして身を大きく乗り出した。その時だった。一瞬意識が現実に戻り、自分が窓から体を大きくはみ出ししていることに気づいた。慌てて体勢を後ろに戻そうとしたが遅かった。そのまま前に倒れ頭から真っ逆さまに地面に落ちた。ゴンッという衝撃音とともに家の前の階段の角に頭を打ち付けた。まだ自分に起こった状況も分からないまま、また目の前が真っ暗になった。そこにはまた母がいて不敵な笑みを浮かべながら私を見ていた。私はそれを地面に倒れて下から見上げていた。

「今度は死んで逃げたか」と母は笑いながら言った。

その瞬間母の姿が跡形もなく消えたかと思えば、本に姿を変えた。「膝の解術について」と書いてある。そしてその本は宙に浮かび、パラパラと音をたてながらページが次々にめくられていく。それと同時に本の内容すべてが書き換わっていった。ようやく本が閉じられ、最後に本の題名も全く別のものに書き換わった。場面が変わり、そしてその本は図書館の棚に入れられ、今まさに誰かがその本を手に取ろうとしている――。そんな景色をモヤがかかりゆく意識の中で見ていた。ハッと目が覚めたとき、私は俯瞰で自分が倒れている所を見ていた。周りの人が悲鳴を上げながら電話をかけている様子も見えた。ふと視線を感じて、右横を見るとそばに母が立っていた。いつもの優しい顔だった。「歩美は私の大切な娘よ」と言ってくれているように感じた。母は微笑みながら私の肩に手を置き、そのまま二人で私の死体を見ていた。

読んでいただきありがとうございました。

歩美の名前の由来は「美しい道を歩んでほしい」です。

作者は母親との仲は、いたって良好です。

よかったら感想とアドバイスを一言でも良いのでよろしくお願いします。

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