1.チーム矢野VSチーム海野のオープン戦(ダイヤモンド) Ⅰ.小学生時代―始球式と初球先頭打者ホームラン―
「アメリカのロサンゼルスから来ました。」
毅然とした目をした彼女は、朗々とそう述べた。
夏休みが終わって一週間が経ちまだ騒々しい教室に、転校生のニュースが舞い降り、ざわめきは頂点に達していた。
だが、本人の登場で一気に静まり返り、彼女の気の強い性格を全面に表した、自己紹介が教室に響き渡る。
「フルネームは、海野結。あだ名はない。四人家族の次女。姉は二歳上の小学六年生。好きな教科は算数。好きなスポーツは野球。」と彼女は、さも機械的にプロフィールを羅列し続けた。
「野球をするなら二番打者を務めたい。」と、二十一個目のプロフィールが挙げられたときに、顔の前で手を揃えた担任は「はい、色々話してくれてありがとう。皆、結ちゃんに拍手。」と述べ、未だ続きそうな自己紹介を妨げた。
遮られた当の本人は凛々しい眼を一瞬揺らがせたものの、おとなしく指定された右端の席へと移動し、私の左隣りに着席した。
何だか気が強くて面倒くさい人が隣の席になってしまったと思った。
一時間目の社会で伝統工芸についての説明をやり過ごした多くのクラスメイトは、五分休みにたちまち教室の右側へと向かっていく。
その中でもグラスのマドンナである、山田美奈さんが、
「ロサンゼルスの何処に住んでいたの?」と第一の質問を投げかける。
ショートカットの髪を全く揺らさずに、山田さんへ顔を向けると彼女は、
「カリフォルニア州トーランス」と冷徹に答える。
これまでお嬢様気取りで、高いプライドを持ち振舞っていた山田さんは、あたかも雑にあしらってくるような、帰国子女を前にも躊躇いを見せず、気丈に対応して、。
「それなら英語を話せるの?」と続けて質問する。
「話せる。」と静かに即答されている。
「じゃあ話してみてよ。」と、山田さんは、上の立場に立ったつもりで、小学生にとっての無理難題を強いてみせる。
「The words and grammar is a little. But I think my pronunciation is great.」
と、小学校の教室に縁遠いネイティブな発音が響いた。
「すごーい。」と表面は褒めつつも、自らより上の存在を認めない、山田さんは嫉妬に満ちた気持ちを抱え、取り巻き二人を連れて自席へと帰還した。
クラスのマドンナが去ったことで、他のクラスメイトもちらちらと視線を送りつつも、定位置でいつものグループに固まっていった。
二時間目の算数で割り算の筆算を教わると、十五分間の中休みに突入した。退屈な授業からの一時的な開放にクラスはざわめきを見せる。一部の男子は消しバトやバトエンなど机で出来るバトルゲームに興じている。
そんな中、「図書室に案内して?」と決して大きくはないものの、しかしはっきりと通る低い声が左側から聞こえた。
左側に目を向けると、かなり短い髪と、凛々しい眼を抱えた海野が立っている。
私は茫然とした頭で、「いいよ」と反射的に答え、椅子をキーっと鳴らし、席から立ちあがった。
「私達は同じマンションに住んでいる。」と、図書館を目的に廊下を歩いていると、彼女hが言った。
「本当に?」と疑念をもって返答すると、「あなたは、デュオヒルズの七〇一号室に住んでいる。違う?」とその低い声が返って来る。
私は驚き、三階の廊下の左側に立ち尽くす。
「なぜあなたの個人情報を私が知っているかというと、私が七〇二号室に住んでいるからよ」と、つやのある短い黒髪を右手で掻きながら、彼女はちょっと微笑んだ。
「日曜日あなたとエレベーターで一緒になったわ。あなたはお母さんといたし、私もお姉ちゃんといたから会釈程度で、話してはいないけど」
海野が言うようにピアノの教室に通う最中のエレベーターで、同年齢の少女と鉢合わせた気がする。
「ねえ、下であっているの?」と、階段を前に海野が言う。
私はあわてて、「うん、一階にあるよ」と応答し、小走りで階段に向かった。その後は二人とも無言で歩いた。
私たちの小学校、白石小学校の図書室は一階の左側にあり、お話の部屋と生活の部屋の二つの部屋で構成されている。
階段を降り、一階の廊下を左に曲がると、海野は真っ直ぐ前方にある、お話の部屋の扉を開いた。
「あら、矢野ちゃんいらっしゃい」
と、カウンターに座っている、司書の西村萌奈美先生が朗らかな声で迎え入れてくれる。
「今日はお友達と一緒?」
と、私の右側にいる海野に、西村先生は視線を向けつつ言う。
三十代前半と若いものの、明るく、包容力がある西村先生は誰にでも話しかけてくれる。そのため友達が少なく学校に居づらい私に取って、図書室は心休まる場所になった。
「ううん。海野ちゃんは転校生だから、図書室に案内してあげているの」と、私は先生に喋ると、
「なら、先生も案内してあげよう」と西村先生は、明るく提案した
「いや、悪いが断らせてもらう。貸出カードを作らせてもらえればそれでよい。」
と冷静な声が、右側から聞こえた。
「あら、そう」と落ち着いて先生は返す。
「矢野に案内してもらえればよい。見渡した感じ、来室者が多く、図書委員の子もいなさそうな今に、貴方の手を煩わせるのは申し訳ない」
と海野は大人びた口調で喋る。
彼女の優しさに私は驚くとともに、自分が付き添わなければならないことにめんどくさいなと感じていた。
貸出カードを発行する作業は私がぼーっとしている最中に終わると、学習の部屋に行くぞと、海野がアイコンタクトしてきた。無言で頷いて私は彼女の背中についていく。
ふと、私の肩に誰かの手が触れた。振り向くと、西村先生が右目でウインクをして、微笑んでいた。
茶色がかった髪に向かって、友達ができたとかそういうのではないですと表情を向けるが、先生は気にしないで微笑んでいる。
首を振って心を静め、学習の部屋へと向かう。
この部屋の扉を開けると、右側の本棚には全小学生が大好きなヒミツシリーズが詰められている。左側の本棚にも、全小学生男子が表紙を擦りきれさせるほど読んでいる、サバイバルシリーズが置かれている。正面の本棚には、これまた全小学生女子が一度はハマる宿命にある占いのコーナーがある。
しかし、そんな児童の読書傾向に逆らうように、短いが、つやがある黒髪を少し揺らして彼女は、偉人伝のコーナーへと向かう。
想像よりも白く、柔らかい指先は、歳月の経過と日焼けによって、茶色くなった『ガリレオ・ガリレイ』へと伸びた。かなり昔に出版された伝記のようで、もちろん漫画ではなく、挿絵もほとんどない。
「好きなの?」と声が出た。
「何が?」と彼女は返してくる。
「ガリレオ・ガリレイ」と、彼女が手にしている本を指さしながら応答すると、
「そうだな。彼の信念を貫く姿勢は魅力的だ。好きなのかもしれない。」
と呟く彼女のもつキラキラした眼は、吸い込まれそうになるほど魅力的だった。
その後は、お互いに尊敬する偉人を挙げていった。
「石川啄木」や「夏目漱石」など文学者が好きな私に対して、海野は「ダーウィン」や「キューリ夫人」など科学者が好きだった。
だけど、海野との会話はなぜか安心して、ざっくばらんにできた。そのせいなのか、中休みの終了をチャイムが鳴るまで気づけなかった。
私達はお互い急いで教室に向かった。前を走る海野が、一瞬後ろを振り向いて笑いかけてきた。そのひたむきな笑顔に、私も自然と笑顔を見せた。
いつもよりも短く感じた三、四時間目の理科と音楽が終わり給食となった。
今週の給食当番である私は給食着を身にまとい、おかず缶を食缶置き場へ取りに行く。
唐揚げが中に入った、グレーの缶を両手で抱え、四年三組の教室に向かう。
階段を上り、三階の廊下に入ると、今週の給食当番ではなく、配膳を待っているクラスメイトのざわめきが伝わってくる。教室のドアを開け、布巾で消毒された教卓の上に角ばった食缶を置く。
続々と当番が揃い、配膳が始まった。坦々と事務的に、唐揚げを白くて丸い皿にのせていく。その際に、山田さんと目が合った。一瞬の出来事であったが、クラス一の美女が携えた釣りあがった眼が、瞼へと焼き付けられた。
配膳が終わり、四人一組での食事の時間となった。海野が入ったことで、三人から四人体制となった私たちのグループはやや戸惑いを抱え、無言で咀嚼を繰り返していた。
一人の男子は食事を早めに切り上げ、昼休みに新しく空気が満タンなボールをゲットしようと目論見、一方の女子は大人しく食事を味わっていた。
しかし、そのように無言なグループは、会話を弾ませて楽しく給食を味わう教室で、期せずして浮いてしまう。
先生用の事務用の机で食事をする担任も不安に思ったのか、トレーに容器を載せて私たちの机へと向かってきた。
男子が、「あだっちーどうしたのー?」と礼儀を弁えず、尋ねる。
「みんなと食べたくなったの」と柔和な表情で返しつつ、「足立先生でしょ」と優しく怒る。
「ふーん。海野がいるからかと思ったー」と、男子が余計なことを加えて喋りだす。
「それもあるわよ。結ちゃんについて、色々知りたいと思って」と丁寧な返答がなされた。
流石、保護者・児童から絶大な人気がある新進気鋭の若手女性教師、足立先生だと思いつつ、私は見つめていた。
すると、「真子ちゃんは、結ちゃんと仲が良いの?中休みに一緒に図書室に行ってたみたいだけど」と突然話題を振られた。
なかなか両親以外に、下の名前で呼ばれないため、一時呼び掛けに気付けず、食事に集中していたが、その暖かい眼差しと目が合い「そうですね」と雑な返答をしていた。
でも内心では、絶対西村先生が足立先生に中休みのこと漏らしたなと怨みを募らせていた。
「そうなんだ。結ちゃんはどんな小説が好きなの?」
と、私を気にせず明るいトーンで足立先生は自然に海野へと話を展開する。
「あまり文学は味わわないが、太宰治の『走れメロス』は好きだ」
と、率直に海野は喋る。
「なるほど。結ちゃんは『メロス』のどのような部分が好きなの?」
「王様が一番メロスを信頼しているような気がするから」
と、独特な感性による主張がされた。
少し戸惑いを抱え、先生は「なぜそのように感じたの?」と述べる。
「最初から信頼してるけど途中で疑いを持つセリヌンティウスより、約束をやり遂げたメロスの姿をみて仲間に入れてほしいと言うことができる王様の方が信用で切ると感じる」
と、小学三年生とは思えない発言がくっつけた四つの学習机の上に響く。
当の会話の傍観者の一人として私は、その主張の斬新さに驚かされた。確かに、あの小説の主人公はもしかしたらメロスではなく王様なのかもしれない。
そうして思索にふけっていると、
「ごちそうさまでした」と、男子が手をあわせて食器を片付けにかかった。
「あら、食べるの早いわね。走らないで、ボール取りに行くのよ」と、優しく先生は語り掛ける。
「分かったー」と、男子は雑に呼びかけに応じた。
「そうなのね。だから結ちゃんはどうしてエジソン本人ではなくエジソンのお母さんである、ナンシー・マシューズ・エリオットを尊敬しているのか」
と、私がメロスの登場人物に思いを巡らせている最中に、かなり高度な対話が繰り広げられていたようだ。
思わず、海野を見詰めると、切れ長の目がにこりと微笑んだ。恥ずかしくなって、目線をそらすと先生と目が合った。
すると、「真子ちゃんは誰を尊敬しているの?」と尋ねられたので、
少し間をおいてから、「えーっと、石川啄木かも」と返す。
「国語が得意な真子ちゃんらしいわね」と理想の教師による回答がされたが、まんざらでもない気持ちになっていた。
その時、「真子は、文学少女だからな」と、低いけどよく通る声が耳に入って来た。
先生は表情を柔らかくしてから、「二人は本当に仲が良いわね」と述べるが、その声は遠く聞こえる。
当の発言を向けられた張本人の私は、嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な気持ちに襲われていた。だけど、これまで忌憚のない意見を述べてきた海野の誉め言葉だから、素直に受け取ることにした。
なので、「そういう海野さんは、科学少女だよね」と言ってみるた。
そしたら、「もちろん私はれっきとした科学少女でもあるが、将来的にはレオナルド・ダ・ヴィンチの様に「万能の天才」でもありたいと思っている」と屈託のない笑顔で言われ、途方もなく嬉しくなった。
「夢が大きくていいね」と述べる足立先生の声がもっと遠のいて聞こえた。
その後も雑談に興を咲かせて、給食をゆっくりと食べ終えた。
食缶置き場に銀のトレーを戻しにいき、給食当番の役目を終えると、またもや図書室へと向かう。
お話の部屋のドアを開くと西村先生がにこやかに児童と話していた。
「先生バイバーイ」一年生が絵本を抱え出ていく一年生に西村先生は、優しく手を振る。
ドアが閉まって少しすると私は直ぐに、「足立先生に話したでしょ」と先生を問い詰めようとした。
「何が?」としらばっくれる先生に向かって、「海野と図書室にいたこと」と不機嫌な調子の声で立て続けに述べる。
が、「別に今日は足立先生と話してないよ」と言う西村先生は、本当に何も知らないみたいだった。まあ、二時間目は担任による算数だったから、一緒に教室から出る姿を見ていてもおかしくないかと思うが、引っ込みがつかない。
だから、「じゃあ、いつもは私のこと喋ってるんだ」と拗ねた私は言う。
「ごめんね。足立先生に聞かれると断れないから」と両手を揃えて謝る姿を見ると、怒りは遠のいていく。
やはり、白石小学校一、あるいは仙台一と形容しても過言ではないおおらかな美女なだけあって、女の私でも許さざるを得ないと感じてしまう。
「そういえば、矢野ちゃんからのリクエストである、井伏鱒二の『山椒魚』が入荷したよ」と快活な声が耳に入って来る。
「本当!」と思わず、明るい声が出てしまい、拗ねた気分も遠のいていく。
差し出された『山椒魚』を慎重に受け取り、表紙を捲ると新品独特のにおいが漂った。
「じゃあ借りる。」と当書と、ポケットに入っていたラミネート加工された貸し出し用のカードを先生に差し出した。
「了解」と言いつつ、慣れた手つきでピッとバーコードを読み取る音が鳴らされた。
「読んだら感想聞かせてね」と言いつつ本を渡してくれる先生に、「もちろん!」と答えて大事に両手で包み込んだ。
そのままお話の部屋にあるソファに腰かけて十ページほど読み進めたころに、チャイムが鳴った。
私は、大急ぎで掃除の担当の場所である、理科室へと向かった。今週は、ほうき登板であるため比較的楽である。
だが、無言清掃を徹底する小学校であるため、やはり退屈ではある。物語の世界に思いを馳せながらほうきを掃き、ゴミをちりとりに集めて捨てると思いのほか早く終わった。
そのまま教室に戻ろうとした際の廊下で、同じ掃除場所を清掃している山田さんから「海野と仲が良いんだよね?」と言われたので頷き返すと、
「私、あだっちーに矢野ちゃんと海野が図書室にいたこと言ったの。」と喋ってくる。
「そうなんだ」としか言えない私に対して、
「あっだちーが海野のこと凄く心配してたから言ったんだよ」と続けざまに山田さんは喋る。その落ち込んだ表情には、憐憫の情を催し得ない。
「実は私昼休みも、図書室にいたから、西村ちゃんを攻めている矢野ちゃんを見かけちゃったの。だから、私があだっちーに中休みのこと言ったのがもしかしたら悪かったかなって思って」としょんぼりとして表情で絶え間なく言われると、フォローを入れないほうがおかしい。
「気にしてないから、大丈夫だよ。海野さんと実際仲良いし」と慰めると、わずかに表情を曇らせつつ、すぐに顔を明るくして「許してくれてありがとう」と言われた。
教室に戻ると、机に教科書、ノート、漢字ドリルを置き五時間目の国語への用意を済ませる。
漢字テストから始める国語の授業は、お願いやお礼の手紙を書こうという少し退屈な内容で、何だか集中できなかった。右に座る海野を眺めてみると、真剣にプリントへ書き込んでいた。
五分休みに入ると国語用の冊子を仕舞い、道徳の教科書と心のノートを机に出す。
命に関する授業を楽しいと思うことは難しいが、自分の思いを言葉に表すのは好きである。前の時間より時間が経つのが早かった気がした。
そして六時間目が終わると、日直による帰りの会が開かれ、ついに放課後に突入である。
習い事の無い月曜日であるため、『山椒魚』を読み進められると喜び勇んで帰ろうとすると、「一緒に帰るか」と左から聞こえた。
声がした方角に顔を向けると、海野がいた。
「どうせ一緒のビルに住んでいるんだ。悪くないだろう」という提案を拒否する必要はなく、どちらかと言えば嬉しかった。
赤と黒のランドセルをそれぞれ背負って階段を降り、一階の下駄箱にたどり着く。
靴箱の一角、三十二番のシールが着いた場所を見つける。すると、上側の仕切りに上履きを挿入し、青色のスニーカーを取り出し、靴ひもを結び直す。
立ち上がって、ふと海野の靴を見ると、ナイキの黒いスニーカーだった。
「よし、帰ろう」と言われ、考えずに頷き黒いランドセルについていく。
校門を抜け右に曲がる。九月も後半になり、仙台の気温は二十度前半とほどよい。
「仙台は涼しいな」と言う海野に対し、
「ロサンゼルスはどうだったの?」と返した。
「うーむ。たしか九月には二十度ぐらいだったような」
「だったらおんなじじゃん」というツッコミに、
「そうだな」とやや赤面しながら、頬を書く海野はえも言われぬ可愛さがあった。
「言い訳させてもらうと、ロサンゼルスには二年ほどしか住んだことがなくてな」
という思いがけない事実に、「そうなんだ」と相槌を打つしかなかった。
「その前はロンドンに住んでいた」
「でも、海野さん日本語スラスラ喋れるよね」と言うと、
「まあ、現地の日本人が通う学校に行ってたからな」
と、やや哀愁を帯びた目で語られた。
暫く無言のまま二人で歩いた。校舎から少し向かった先の大きな交差点に出ると大きなマンションが立ち並んだ、住宅街にでる。駐車場の前の信号を渡り、右に曲がる。
少し歩いた先のコンビニを目印に曲がり、裏道をまっすぐ行く左に榴岡八幡神社の狛犬が姿を現す。
興味津々に狛犬へと近づいていく海野に「行ってみる?」と提案すると、「ぜひ行きたいな」と好反応が返ってきた。
緑に挟まれた階段を、ランドセルを背負いつつ二人で駆け上がり、赤い鳥居をくぐる。すると、開けた境内にでる。周りに高層ビルが立ち並ぶ中の、緑があり、静謐で広い空間に海野は感動しているみたいだった。
そのまままっすぐ参道を歩き、本殿に向かおうとする海野に
「手を清めないと」と言い、神社での作法を説明しようとする。やはりこれまで海外で暮らしていたため、参拝方法が分からないらしい。
二人で手を清めてから赤い門をくぐり、拝殿に向かう。。
「お賽銭持ってる?」と言うと、首を振りながら「持ってない」と言われた。
一応のために母親に持たされている、財布を開け五円玉を渡しつつ、二礼二拍手一礼して願い事を祈ることを伝えた。
賽銭箱に銅色の硬貨が飛び込み、中でからからと音を立てた。二人で太い鈴紐を揺らし、ガラガラと鈴を鳴らす。深く頭を下げ、両手を叩く。静かに思いを固め、また首を垂れる。
永いような一瞬を味わった後、頭を上げて右を向く。海野と目が合い、微笑むと、眩しい笑顔が返ってきた。
参道を歩き元の路地へと戻り、裏道を二人で小走りして、背中のランドセルが大きく揺れた。すると、JRの駅が近くにある、開けた通りに出た。そのまま信号を渡ると、直ぐに自宅にたどり着ける。だけど何だかこの時間が終わるのがもったいなく感じていた。
だから小走りで、車道を駆け抜けて、榴岡公園の広場に向かう。
石畳に着くと、立ち止まって振り返り、少し後ろで息を切らしている海野に「中で散歩してみよ?」と提案した。
「喜んで」と言いながら、なぜか右手のこぶしを指し出された。けれど私も自然にこぶしを重ね合わせた。
並んで広場を歩きながら、階段へと向かう。緩やかな傾斜と成っているが、数十段ある階段を登り、残り八段で梅園へと開くところで
「真子のそのおさげの髪型は、『文学少女』の天野遠子に憧れてなのか?」と海野がボソッと呟いた。
真っ直ぐに触れてはいけない所を刺してくる意見に、かなり恥ずかしくなって何も言えず、立ちすくんでしまった。
すると、階段を駆けあがり、サッと私の前に立ち人差し指を向けて、
「何も恥ずかしいことではないぞ。私も『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門有希に憧れて、この髪型にしている。憧れて、外見を変えることは悪いことではない。現に、川崎宗則もイチローの影響から右打ちから左打ちに変えてるではないか」
と雄弁に語ってくれた。
すっかり日が落ちるのが早くなった仙台市では、もう西の空がオレンジに染まってきている。
そんな風景と腰に手を付け自信満々の姿の海野が重なり合った情景が、私の目に焼き付けられた。
涼しくて、爽やかな九月の風が通り過ぎたあとに、「うん!!」と大きな声で答えた。
そのまま石段を走り上がると、差し出された手を握って、一回転した。
握った手をつないだまま、梅園に入り、右側に曲がると噴水の広場に出る。
結の手は、想像よりも小さくて柔らかかった。だけど、優しくて、まるで私の手が包み込まれてるような感覚がした。
噴水を横目に見つつ、示し合わせたように、隣の広場に向かう。
古びたイーグルスの帽子を身につけ、犬の散歩をしているおじいさんが隣を通った。
ハアハアと、息を切らしながら歩く、老化により痩せ細った秋田犬は、整った茶色い毛並みに、尻尾を立たせ、満足そうな目を抱えていた。
開けた芝生に入ると、少し遠くに三角ベースを制服のまま全力で楽しんでいる、中学生が見える。
低学年の小学生がSwitchに興じているベンチを通り過ぎ、後方の木製のベンチに二人で腰掛ける。
芝生を眺める結の目線は優しく、横から眺めるだけで、心が満ちたりていく。
しばらく凝視していると、目が合ってしまい、私も誤魔化すように前を向いた。
何事もなかったように靴を脱ぎ、両足をぶらぶらさせながら、「今ぐらいの時間を黄昏時って言うんだって」と呟いてみた。
「らしいな。平安時代ぐらいには、人の顔が判別つかなく、『誰ぞ彼』が語源と聞いている」と専門的な返答がなされた。
「本当かな。今は結の顔もはっきり見えるけど」と言い、まじまじと白い肌を見つめてみる。
雪の結晶のように、透き通りながらも明かりを跳ね返す相反性のある肌は、トワイライトのオレンジに包まれていた。
「たしかに、真子の姿もはっきり見えるな。平安時代と今では、街の明るさも違うからかな」という呟きが、局面を破るまで、二人でじっと見つめ合っていた。
小学生のわたしだけでなく、今の私にも、他人の心を完全に理解することなんてできない。
だけど、あのひととき、こころはつながっていたと思う。あくまで私の感情であり、結がどう感じたかは、分からないが。
そのため、これは海野と私の二人ぼっちの物語である。
「だから、ハルヒじみた話し方なんだ」
お互いに芝生を眺めて、少し経ち、気が抜けたのか、ふと思いついたことを言葉にしてしまった。
すると、思いの外図星だったのか、ショートカットからあらわになっている耳は、真っ赤になっていた。
短い髪を人さし指でクルクルと回しながら、拗ねたように何も言わない結はとても愛おしい。
結の誰にも言ってない秘密を知った気がして、とても嬉しかった。
「イギリス生まれ、アメリカ育ちだから物事をストレートに言う傾向があるのだと思ってくれることで、誤魔化せると予測してたのに」と言い訳していたが、なんだか触れ続けるのも、可哀そうになって「さっき結は何をお祈りしたの?」と言った。
「ずっと仙台に入れるようにお願いした。もちろん、真子ともずっと一緒にいたいぞ」
こっぱずかしくなって、「海野ってピッチャーやったら、ストレート以外投げなさそ」と呟くと、「真子は野球を観るのか」と見当違いの回答が返って来る。
「好きだよ。お父さんが楽天ファンだし」と私も海野に乗じて、野球談議に方向転換を試みる。
いつまでたっても喋り足りない私達が、家に帰り着いたのは十九時近くだった。
帰りがとても遅くなり、母から心配されつつ、怒られたのは初めてだった。
これまで、いつも学校が終わって直ぐに帰宅していた私を、懸念していた父は、逆に嬉しがっていたが。
その日の夜『山椒魚』を途中まで読み、少しだけ結のことを思い出して眠ったのだった。
次の日、六時に目を覚まし、顔を洗い、一汁三菜の朝食を食べる。その後、髪を整え、学校に持っていく荷物を確認し、少しだけ読書をする。
いつも通りの朝だ。
七時半に家のドアを開けると、ショートカットに黒色のランドセルを背負った、背の低い女の子がいた。
「おはよう、結!」と手を上げて挨拶する。
彼女は振り返って、ニコっと笑う。秋の始まりを少しだけ感じる風が吹いた中、季節外れの向日葵が一本だけ咲いている。
「おはよう、真子」
私のモーニングルーティーンにも転換期が訪れた。
それから毎日一緒に登下校をするようになり、私達は親友と呼ばれるほどの仲になった。
結が転校してきてから、一年近くほど経ち、五年生に進級してからもクラスは同じで、私はとても喜んだ。ま
そんな十月のある月曜日、私は自分の誕生日パーティー結を誘おうと考えていた。
「ゆいーー、今週の日曜日何をするの?」と尋ね、
「特に何もないような気がする」と返された。
すると、近くに座っていた山田さんが
「あれ、海野ちゃん楽天の日本シリーズ観に行くって言ってなかった?」
と述べた。
「そうだったな。」とにこやかに頷き、ショートカットの髪がゆれた。
何だか、その穏やかな表情を見ると、誘うことができなかった、
中休みになり、結は図書室に向かっていった。
結は誰とでも分け隔てなく喋ることができるだけでなく、一人で生きていく強さを持っていた。
一方、私は海野の一人の友達に過ぎなかった。
山田さんが、「今週の日曜日何をするの?」と、にこやかに尋ねてきた。
一呼吸おいてから、「私の誕生日だから、誕生日会をしようと思って」と返す。
「ふーん。私も行っていい?」と屈託のなさそうな笑顔で言われると、拒否することはできない。
「いいよ」と言ってしまう。
「やったー。私の友達も誘っていい?」と言われ、脊髄反射で、頷く。
「紬―!美緒―!」と山田さんがグループを誘おうとしているなか、私は図書室に向かっていった。
ドアを開くと、一瞬図書室のパステルな桃色のカーテンに、海野が隠された。次の瞬間には、その凛々しい目とつやのあるベリーショートの黒髪が現れた。
その儚さと力強さの相反する姿に衝撃と同時に、母親のような包容力を感じた。
「真子!」と、笑顔で見つめてくる、その目線を逸らしてしまった。
そのまま誘うことはできず、金曜日に突入した。
放課後になり、一緒に帰宅していると、
「楽天に、本当に日本一になって欲しいんだ」と言われた。
「まあね。まだ一回しかなれてないもんね」と返す。
「そうだ。マー君が無敗だった年以来だ」
「というか、結アメリカにいたのに、なんでそんなに楽天に詳しいの?」
日本野球に熱中していることに疑問をもち、問いかけてみた。
「何故と言われても……。世界一の野球大国にいたからかな。地元球団を応援するのは、当たり前だろ?」
かなり偏った意見だとは思うが、熱烈な気持ちが伝わってくる。
だからこそ、日本シリーズではなく、私の誕生日パーティーに来てほしいなんて言えない。
結の野球談義を聞きながら、その日は帰宅した。
そして、日曜日の朝がきた。
ひんやりとした空気には、どこか厳しさがあった。
ベッドから起き上がり、寝ぼけたままリビングへと向かう。
「誕生日、おめでとう!」と満面の笑みで祝福してくれる母に、「ありがとう」と丁寧にお礼をした。
「今年は沢山お友達来るんだね」と嬉しそうに喋る母の言葉に、何か物足りなさを感じたが、それは言葉にならなかった。
「うん、楽しみ!」という言葉は、脊髄反射で溢れたのに。
午後になると、父親はイーグルスの帽子と、FUJIHIRAのユニフォームを身にまとい、楽天モバイルパークへと向かっていった。
「今日こそ勝つ!」と意気込んでいる父の背中は、普段と違いキリッとしていた。
母は少し不機嫌に、見送っていた。
それから、二十分後ぐらいに、山田さん、紬さんと美緒さんの三人が来訪した。
「いらっしゃい!」と率先して母親が迎えに行く。
そんな姿が、恥ずかしかった。
が、知り合い以上友達未満の三人が、家にいることの違和感はもっと強かった。
「おうち、ひろーい。」、「観葉植物あるの、オシャレだねー」と各々、ソファに座りながら、くつろいでいる。
「これ、家の親から」と菓子包みを渡す山田さんは、相変わらず世間体が良い。
「あらあら、ありがとね」と母もニコニコしながら受け取っている。
紅茶をカップに入れ、皆の前に並べ、私も席に着いた。
すると、「今日はお誘いいただきありがとうございます。矢野さんの友達の山田美奈と言います」と、母親への自己紹介が始まった。
「私は、尾崎紬です。矢野さんとは、一緒の読書クラブに入ってて」
「私は、川合美緒と言います。矢野ちゃんとは、去年同じ委員会で仲良かったです」
という、二人の話を、隣の母は穏やかに聞いていた。
「いつも、仲良くしてくれて、ありがとね」と感謝も表明しだした。
だけど、本当のことを言うと、この人たちとの繋がりを、私は忘れていた。
それくらい、軽薄な繋がりしかないクラスメイトだと思っていた。
もしかしたら、自分の世界が狭かったのかもしれない。
いや、きっと、広げたくなかったのだ。
それから、みんなで話をしながら、たこ焼きを作った。三人が通っているダンススタジオ、スイミングスクールであったことなどを聞いた。
彼女たちが仲良くなったのは、小学校三年の夏休みに開かれた、英語サマーキャンプだったことも耳にした。
こうした話を聞いていて、三人の繋がりの強さにあるものが分かるとともに、私のなかにある世界が広まって行っている気がして止まなかった。
たこ焼きも食べ終わり、ジュースを飲みながら話していると、「ちょっとトイレ」と、母親が席をたった。
「ねえ、ねえ。まこっちは、最近何の本を読んでるの?」と、紬さんから聞かれた。
ここは話を合わせて「『五分後に意外な結末』シリーズかなぁ」と答える。
「あー、私も好きー」と話が弾む。
こうして、双方向のコミュニケーションは生まれるのかもしれない。
それから数分後に、突然、部屋が真っ暗になった。。
「え!停電?!」と、驚いていると、フワッとほのかな明かりが灯り、パーン‼とクラッカーが鳴った。
「ハッピーバースデー!真子!」と、前の三人の声が響き、後ろのドアからオレンジに照らされた、ホールケーキが浮かび上がってきた。十一本のろうそくが刺さっている。
両手で抱えている母親は、「ハッピーバースデートゥーユー♪」と、祝祭の歌を響かせている。
ケーキがテーブルに置かれると、笑顔の私は、一息でろうそくの火を消して見せた。
「おめでとう!」と拍手が沸き起こる。
その後、母は綺麗に、五等分に切り分けて見せた。その際の、自慢気な表情は、我が親ながら、可愛らしかった。
ケーキも食べ終え、パーティーが終演に近づくと、記念だと言い、母が写真を撮りたがった。
山田さんと、紬さんに挟まれた私は、「はい、チーズ」の合図に合わせ、人差し指と中指を立てた。
そして、「いやだけど、十八時三十分からダンスのレッスンがあるんですよ」と言いつつ、仲良く三人は帰っていった。
「まこっちー、またねー」と手を振る紬さんに、小さく手元で振ると、ニッコリと笑ってくれた。
お開きになり、片付けも終わった後に、母のスマホにある記念写真を眺めてみた。
JPEG内の矢野真子は、にこやかにピースをしていた。
その後は、自分の部屋で教科書の問題を解くことにした。そうして時間を潰していると、玄関から大きな音が聞こえてきた。
ドアを開け、玄関を眺めてみる。
えんじ色のタオルを首にかけた父が、不機嫌な表情を浮かべていた。
が、片手には不二家の白い箱を持ち、こちらに見せびらかしている。
「Happy Birthday! Mako!」と、球場のビールで赤らめた顔が、大声で叫んでいる。
「ありがとう!」と言い返した。
にこやかに笑った赤い顔は、廊下で倒れるように眠った。
「もーー、着替えて、ベッドまでいきなさいよー」と、母親は愚痴っている。
私は、白い箱を冷蔵庫まで運んだ。
キッチンの水道に向かい、コップの中を満たす。
喉を鳴らすように、水道水を飲み込む。美味しいと、強く感じた。
いつものように、お風呂に入り、歯磨きをして、寝る前の準備を終える。
ベッドに入る前に、『山椒魚』を読み返してみた。
「山椒魚が、もう一度外へ出ようとしたが、失敗して、神に訴えている。」シーンに、栞を挟み、ベッドに倒れ込んだ。
なぜか、夢の中で私は、山椒魚じゃなくて、蛙だった。
翌日の月曜日の朝、珍しく結に出会うことは無かった。
久しぶりに一人で登校するのは寂しいなという思い以上に、別世界の味わいがした。
いつもよりも空が高い気がする。インクを水面に垂らしたときのように、ちぎれそうでちぎれていない雲がぼんやりと浮いていた。
前を向き、青いナイキのスニーカーを一歩踏み出そうとした時に、「まこっちーー!」と、ランドセルを叩かれた。
「紬さん!」と呼ぶと、てへへという顔をされた。朝から元気で、とても愛らしい。
サイドポニーテールの髪型が揺れている。
「おはよう。早いんだね」と並んで、歩きながら言うと、「まこっちこそ、いつも早くて偉いよねー」と言われ、照れ臭かった。
「山田さん、美緒さんとは一緒に登校しないの?」と、話題転換と同時に、少し気になったことを聞いてみる。
「そこまで一緒じゃないよーー」という返答は、かなり意外であった。
「まー、たまに一緒になることはあるけどねー。まこっちーは、ゆいーと一緒に登校しないの?」と言われ、戸惑った。いや、現実を突きつけられた。
私の認識している世界、あるいは共同体が狭小で窮屈なのに対し、彼女たちのそれは広大で、開放的である。
どうやら山椒魚のように、閉じ込もっていたらしい。
「んー、どうしたのー」と紬さんが、横から私の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんですか?」と尋ね返すと、「いやー、だってー、暗い顔してたしー」と言われた。
「そんなことないですよー。今日の体育楽しみですねー。バスケ好きだしー」と話を逸らそうとした。
すると、ギュッと抱き着かれた。
「さっきから、どうしたんです?」と冷静を装う。
が、内心は、何だこの人という気持ちで一杯である。
「んー、何かー元気なさそうだし、お裾分けー。今日、調子良いしー」と言われる。
どうやら、全部お見通しのようだ。
いや、違うだろう。
ただただこの人が、優しいだけだ。その姿が、雰囲気が、語っている。
「ありがとうございます」とお礼が自然に湧き上がってくる。
「どういたしまして!」と、キラキラした笑顔が返ってきた。
何だか、今日は変な日だ。朝日がいつもより、眩しかった。
そのまま二人で、教室に着いた。
「おっはよー」と紬さんは前のドアを開け、クラスの皆に挨拶した。
私はその後ろをついていく。今はそうすることしか、出来ない。
一番左の列の、奥から三番目の席に結が座っている。席替えでは、運がよく、隣の席になることができた。
「ゆーいー、おはよう」と私が挨拶すると、「おはよう」と少し低くて、心地よい声が返って来る。何だか、元気がなさそうだ。
「楽天、負けちゃったねー」というと、「うん…」とやはり威勢がなかった。
「すまないな。朝一緒に行けなくて」と謝罪する、奥手な結では、こちらの調子も狂ってしまう。
今日の朝休みは、静かに、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を読むとしよう。
読み進めているハリーポッターシリーズも、第三巻になった。
隣で、結は、音を立てずに、一心不乱に前を向いている。野球狂だとしても、ここまで重症だとは知らなかった。
朝ごはんを食べる時の父も、落ち込んではいたが、「来年は日本一になるからな」と繰り返し、明るい未来を見据えていた。
次々と教室にクラスメイトが集まる中、山田さんが右斜めの席にランドセルを置いてから、「おはよー。昨日楽しかったねー」と挨拶と同時に話しかけてきた。
「うん、楽しかった」と私が返すと、「何があったの?」とキョトンとした顔で、結から疑問が呈される。
「昨日、まっこちーの家で誕生日パーティーしたのー」と、山田さんが返答する。
結は少し驚いた顔をしてから、「昨日、矢野誕生日だったのか…」と言った。
なんだか、その声は私の耳に遠まわりしてからたどり着いた。
そのとき「みんな席ついてねー」と、五年一組の担任谷村先生が入ってきて、会話が途切れた。
前を向く山田さんの表情はニコニコしている。海野の顔は下を向いていた。
それから一年ほどが経ち、小学校を卒業することになった。
卒業式の前日に、体育館で学年全員が集まり、一人一人の卒業アルバムに、友達同士で寄せ書きをする時間が取られた。
そんな中、海野が近づいてきた。
六年生への進級では別々のクラスになり、次第に一緒に登校することもなくなった。
喧嘩別れだったのだろうか。よりを戻したいという気持ちがないわけではない。
何と話しかけようかと逡巡していると、「書いていい?」と、あの低くて、心地よい声が聞こえた。
「うん」と返してからは、二人の間には、キュッキュッとマッキーと厚紙が擦れる音だけが響く。
マッキーのみではなく、アルバムの厚紙を併せた二つのものが音を奏でているんだと思うと、自然と心は和む。
「はい」と渡され、眺めると、「Take me out to the ballgame by Umino Yui」と書かれていた。
「何、これ?」と言おうとしたら、もうショートカットの黒髪は、体育館の隅へと駆けていった。
その日、寝る前にもう一度意味を考えてみた。
野球観戦に行き、五年生の時の誕生日会を逃した、海野自身への皮肉めいた言葉だと考えることで、思考をなだめようとした。
が、それだけの意味にとどまらない気がして止まない。
何だろう、何を伝えようとしているんだろうと悶々としていたら、いつの間にか眠りについていた。
在校生、教職員、保護者の盛大な拍手で体育館へと入場する。
開式の言葉で卒業式が始まった。
国歌斉唱の後、校歌を斉唱する。
そして、校長先生が一人一人に卒業証書を手渡ししていく。
「六年一組海野結」と、海野の名前が体育館に響いた。
ア行の彼女は、呼ばれるのが早い。
「はい!」と低い声を響かせ、短い黒髪が揺れ、壇上へと上がっていった。
やっぱり、目が離せない。あの言葉の意味は何だったんだろうか。
ヤ行の私が呼ばれるのは、一段と遅いが、熟考している内に、順番が近づいてくる。
全く緊張が無いと言えば、ウソになるだろう。
「六年二組森川駿介」と、三つ前のクラスメイトが呼ばれた。私もパイプ椅子から立ち上がり、壇上へと向かう。
階段の前で少し待ち、一つ前のクラスメイトが呼ばれるタイミングで、壇上へと上がる。
多くの保護者がパイプ椅子に座っている。
彼等の多くが、スマホや、一眼レフで我が子の雄姿を収めようと気合が入っている。
母親の姿は見付けれなかったが、必ず来ているだろう。
朝から化粧台の前で、格闘していた。
「六年二組矢野真子」と名前が響く。
「はい!」とこれまでにない大声を出してみた。
一礼して、卒業証書を受け取る。
もっと泣けるものかと思ったが、これといって感慨はない。
それ以降は、校長先生による式辞や、在校生代表による送辞、卒業生代表による答辞があった。特に、胸に押し寄せる言葉はなかった。
『旅たちの日に』を歌い終え、閉式の言葉によって卒業式も終了となった。
またも、万雷の拍手で見送られながら、退場していく。
教室で、担任による、最後の授業があった。
「七転び八起き」と、黒板にでかでかと板書した谷内先生は、恩師と言っても言い足りない。
委員長が「起立、気を付け、礼」と言った数秒後に、「ありがとうございました!」と息を合わせて全員で言う。
最後のお別れである。
だけども校門で、自然と、記念撮影会が開かれ、多くの人が残っている。
母親も、山田さん、紬さん、美緒さんとだいぶ仲良くなっている。
美緒さんと紬さんに挟まれた、私も笑顔を浮かべて、ピースした。
帰宅した後、母のスマートフォンを借りて、写真フォルダーを見返す。
やっぱり、JPEG内の矢野真子はにこやかにピースをしていた。
尾崎紬の目元は赤かった。
次の日の朝、目覚めると、なぜか目元が濡れていた。




