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#9 神社(最終話)

 ギィ、と古びた木が泣くような音を立てて、拝殿の扉が開いた。

 差し込む光の中に舞うのは、三年前から積もり続けた埃だ。

 カビの匂いはせず、ただ古い木材と、どこか懐かしいお香の匂いが微かに漂っていた。


「何も、いませんね」


 那奈花が呟いた。

 そうだ、神社の中には何もいなかった。

 ゾンビの気配もない。

 ただ、静かな時間だけが、ゆっくりと流れている。


 外側で門を叩く異形たちの爪音さえ、ここでは遠い世界の出来事のように聞こえた。

 凛は吸い込まれるように、一歩、また一歩と拝殿の奥へ進んでいく。

 板張りの床が、彼女の足音を小さく跳ね返した。


「ただいま」


 凛が呟く。

 その声は驚くほど優しく、そしてひどく場違いに響いた。

 天井を見上げれば、かつての色鮮やかさを失った龍の天井画が、剥落しかけた鱗を見せながら僕たちを見下ろしている。

 左右に並ぶ古びた奉納品や、風に揺れることもない真っ白な紙垂(しで)が、この場所が外界の理から切り離されていることを無言で告げていた。


 凛は拝殿の最も奥、御簾(みす)が垂れ下がる暗がりの前で足を止めた。

 彼女の背中が、小刻みに震えている。

 カチャリ、と猟銃を床に置く音が、静寂に波紋を広げた。

 凛は震える手で、その古びた御簾をゆっくりと、慈しむように引き上げた。


「……いた」


 凛の声は、祈りにも似た掠れた響きを帯びていた。

 暗がりの向こう、一段高くなった祭壇のそばに、白骨化した遺体が横たわっていた。

 その小ささから、幼い子供だったことが予想できる。


「聖奈……ごめんね」


 凛は膝をつき、その小さな白骨を見つめていた。

 三年前のあの日、この場所で何が起きたのか。それを物語るように、遺体の側には色あせた子供用のポシェットが転がっていた。


「あの日、逃げ出す時に手を離しちゃったんだ。怖くて……。振り返った時には、もう、聖奈は奴らに飲み込まれてた」

 

 凛の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 

「やっと、戻ってこれたよ」


 凛が遺品のポシェットを持ち上げた時だった。

 

 ――パキン。


 その瞬間、外界と境内を隔てていた最後の「静寂」が、ガラスが割れるような音を立てて崩れ去った。


「……ア、ァ、ガァアアア!!」


 門の向こうから、何百もの喉が同時に鳴らす、地鳴りのような絶叫が立ち上がる。

 凄まじい衝撃が走り、堅牢なはずの神門が、内側へと大きく歪んだ。

 隙間から溢れ出してきたのは、腐敗し、泥にまみれた無数の「手」だった。


 指の骨が剥き出しになった指先が、狂ったように扉を掻きむしる。

 ミリミリと木材が裂ける不気味な音が響き、ついに閂が弾け飛んだ。


――なだれ込んできたのは、漆黒の濁流だった。


 先頭の奴らが地面に倒れ込めば、後続の奴らがその背中を平然と踏みつけ、さらに高く、壁のように積み重なりながら押し寄せてくる。

 月光に照らされた彼らの瞳は、等しく白濁し、知性の欠片も残っていない。

 ただ、僕たちを喰らおうと蠢いていた。


「嘘……こんなの……っ」


 那奈花が絶望に声を震わせる。

 石段を埋め尽くし、境内の隅々までを黒く塗りつぶしていくその数は、もはや数えることすら不可能だった。


 一歩、彼らが踏み出すたびに、乾いた落ち葉の音に混じって、腐った肉が地面にこすれるベチャリという不快な音が周囲を支配していく。


 前衛の数体が、すでに拝殿の階段に手をかけていた。


 剥き出しの歯をガチガチと鳴らし、喉の奥から肺を震わせるような異音を漏らしながら、奴らは生きた肉の匂いを求めて、首を異常な角度で傾ける。



 背後の闇からは、さらに数え切れないほどの気配が、津波のようにこちらへ向かって這い寄ってきていた。


 ◆


 押し寄せる肉の壁を前に、凛は床に転がっていた猟銃を拾い上げると、流れるような動作で肩に担いだ。


「先輩、こっち!」


 拝殿の脇、かつての社務所へと続く細い渡り廊下に逃げ道を見つけた那奈花が、必死の形相で手招きをしている。

 その銃口は、すでに格子戸を破ろうとする異形の群れに向けられている。


「凛、逃げるぞ! 早く!」


 僕が伸ばした指先は、わずかに彼女の服の裾をかすめただけで、届かなかった。

 彼女は振り返ることなく、ただ小さく笑った。


「ありがとう、あんたらのおかげで家に帰る勇気をもらえたよ」

 

 その声には、もう迷いも、悲痛な後悔もなかった。

 

「私が願ったせいで……怖い思いをさせちゃったね、謝るよ」


 凛が横目で一瞬だけ、聖奈の白骨が眠る奥座敷に視線を送った。

 その刹那、拝殿の正面の格子戸が、ゾンビたちの重圧に耐えかねて派手に弾け飛んだ。

 なだれ込んでくる異形の群れ。

 死臭が鼻を突き、数え切れないほどの腕が、生きた肉である彼女を求めて闇から伸びる。


 ――カチリ。


 凛が引き金に指をかけ、鋭い弾丸が最前列の頭蓋を粉砕した。

 火花の光に照らされた彼女の横顔は、この地獄の中で見たどの景色よりも、残酷なほどに美しかった。





 その時、不自然なほどの「浮遊感」が僕を襲った。

 地面を蹴って走っていたはずの足元から、感覚が消える。

 隣を走っていた那奈花の指先が、僕の服を強く掴む。


 視界が急激に歪み、神社の境内の景色が、まるで水面に投げ込まれた石の波紋のように、中心から外側へ向かって溶け出していく。


 耳の奥で、強烈な「風の音」が鳴り響いた。


「――また、いつか」


 凛の声が、頭の中で響いた。


 ◆









 肺が焼けるような、冷たい空気を一気に吸い込んだ。


「……っ!!」


 硬い板張りの床に叩きつけられ、僕は肺の中の空気をすべて吐き出した。

 痛い。けれど、この痛みは生きている痛みだ。


「……はぁ、……はぁ、……せん、ぱい?」


 隣で、那奈花が荒い呼吸を繰り返しながら僕の腕を掴んでいる。

 

「……ここは?」

「神社……みたいです。さっきまでとは随分雰囲気が違いますけど……」


 那奈花が周囲を見渡しながら、震える声で答えた。

 僕は痛む体を無理やり起こし、辺りを見回す。

 そこは、先ほどまで僕たちがいたはずの拝殿の中だった。


 けれど、何かが決定的に違う。

 鼻を突くあの酷い死臭は消え、代わりに清々しいお香と、磨き上げられた古い木の匂いが満ちていた。

 なだれ込んできたゾンビの群れも、飛び散った返り血も、跡形もない。


 窓から差し込む光は、不気味な月光ではなく、穏やかに傾き始めた午後の陽光だった。


「……三脚、壊れてない」


 那奈花が、呆然と自分の手元を見つめた。

 そこには、あの地獄で歪み、地下室に置いてきたはずの三脚があった。

 傷一つない、まっさらな状態だ。


「夢……だったんでしょうか。でも、あんなに怖くて、あんなに痛かったのに……」


 那奈花は僕の腕を掴む力を緩めない。

 その手の震えと、彼女の目にある隠しきれない恐怖が、僕たちがあの地獄が幻ではなかったことを物語っていた。


 僕は確かめるように自分のポケットに手を入れた。

 指先に触れたのは、凛から渡されたナイフだった。


「夢じゃない。僕たちは、一緒にあそこにいたんだ」


 僕がそう断言した瞬間だった。


「あ、いらっしゃい……参拝の方?」


 拝殿の入り口、開け放たれた扉の向こうから、聞き覚えのある凛とした声が響いた。

 逆光の中に立つ、一人の少女。

 ショートカットの黒髪、白い小袖に緋色の袴――巫女姿の凛がそこに立っていた。


「凛……」


 僕は裏がえった声に、唾を飲む。

 凛は竹箒を手にしたまま、不思議そうに僕たちを交互に見つめた。


「え、なんで私の名前知ってるの? ……あ、もしかしてファン?困るなー、可愛いからな、私」


 そう言って彼女は、あははと笑った。

 あっちの世界では、一度も見たことがない満点の笑顔だった。


「ねーね、お客さん?」


 凛の背後から、小さな女の子がひょっこりと顔を出した。


「こら、聖奈。走ったら危ないって言ってるでしょ」


 凛は困ったように笑い、妹の頭を優しく撫でた。

 あの日、凛が手を離してしまった妹が、今は確かにそこにいて、彼女の手を握りしめている。

 その光景を見た瞬間、僕の目からも、那奈花の目からも、堪えていたものが溢れ出した。

 

 あちらの世界で、凛がどれほどの孤独の中で戦い、何を願っていたかを知っているから。


「うわ、泣き出した!聖奈、お母さんのとこ行ってな、この人たちんやばい人かも」


 凛は激しく動揺して箒を放り出し、慌てて僕たちに駆け寄ってくる。


 凛は呆れ半分、心配半分といった様子で僕たちの顔を覗き込む。

 冷たい死体の指先でも、銃を握りしめた冷徹な戦士の掌でもない、生身の、生きている人間の温もりだ。


「……すみません、ちょっと。その、あまりに景色が、綺麗だったから……」


 僕はぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭いながら、なんとか言葉を絞り出した。

 隣では那奈花が「よかった……本当によかった……」と、凛の袴の裾を掴んだまま子供のように泣きじゃくっている。


「いや、感受性豊かすぎでしょ。景色で泣けるってうらやましー」


 凛はそう言いながらも、乱暴に、けれど優しく那奈花の背中をポンポンと叩いた。


「まあいいや。理由はどうあれ、泣いてる人を放り出すほど鬼じゃないしね。……そうだ、ちょうどお茶淹れようと思ってたんだ。あんたたちも飲みなよ」


 彼女はくるりと背を向け、拝殿の奥へと歩き出す。


 ◆


 それから僕たちは、境内の縁側に並んで座り、凛が淹れてくれた温かいお茶を啜った。

 目の前には、平和な午後の陽光に包まれた温泉街が広がっている。


 あちらの世界で見た、死が支配する静寂の街ではない。車が走り、人々が笑い、確かな生活の音が聞こえてくる、僕たちの世界。


「ふぅ……落ち着いた?」


 凛が自分の湯呑みを置き、遠くの景色を眺めながら呟く。


「……はい。ありがとうございました、凛さん」


 那奈花がようやく赤くなった目をこすりながら微笑んだ。

 彼女の手は、もう震えていない。

 凛は「さん付けなんて柄じゃないんだけど」と照れくさそうに頭をかき、ふと思い出したように僕を見た。


「そういえば、あんたの名前、聞いてなかったね」


 僕は、ポケットの中を探った。  そこには、あちらの世界で凛から投げ渡された、あの予備のナイフが入っているはずだった。


 指先に触れたのは、冷たい鉄の感触。

 それは武器としてのナイフではなく、古びたお守りに変わっていた。 

 でも、確信があった。


 あちらの世界で彼女の腰に下がっていたのは、間違いなくこれだ。

 形を変えても、彼女が僕たちを仲間だと認めて託してくれた想いは、今も僕の手の中にあった。


「星音だよ。シノン」


 凛は一瞬、不思議そうに目を丸くした。


 それから、何か遠い記憶の断片に触れたような、懐かしむような眼差しを街の灯りに向けた。


「シノン、ね。……初めて会った気がしないのは、なんでかな」


 彼女は不思議そうな表情で、僕の手の中のお守りを見ている。


「ま、いっか。あんたたち、またいつでも来な。大の大人が泣いちゃうくらい良い景色が自慢なんだ」


 空からは、静かな星の音が聞こえてくるようだった。

 隣で那奈花が、僕の腕をぎゅっと抱きしめる。

 今度は恐怖からではなく、これからの未来を分かち合うための確かな温もりとして。


 


 僕たちの「最初の一日」が、今度こそ本当に、始まったのだ。

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