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#8 最も危険な道

 地下室に戻ると、カビ臭い空気さえも「我が家」のような安堵感を伴って僕たちを迎えた。

 重い背嚢を下ろし、床に座り込む。

 那奈花は疲れ果てたのか、壁に寄りかかって泥のように眠りに落ちていた。


 凛は一人、ランタンの灯りの下で、手に入れたばかりのナイフを研いでいる。

 その規則正しい音が、静かな地下室に響く。


「……凛」


 僕は、道中ずっと気になっていたことを口にした。


「君なら、もっと遠くに逃げることができたんじゃないか?もっと安全な場所や、物資の多い街とか……。どうして、この死んだ街に居座り続けてるんだ?」


 凛の手が、一瞬だけ止まった。

 彼女は顔を上げず、研ぎ石に付いた鉄粉を指で拭った。


「……どこへ行っても同じだよ。この国中、どこもかしこも腐った肉の匂いで満ちてる。だったら、見知らぬ土地で野垂れ死ぬより、マシだと思っただけ」

「それだけか? 君ほどの腕があれば、もっとマシな生活ができる場所を探せるはずだ」


 凛はナイフをランタンの火にかざし、その鋭さを確かめるように目を細めた。


 沈黙が流れる。

 那奈花の寝息だけが、この部屋で唯一の音を感じさせていた。


「……上にあるんだよ」


 ぽつりと、凛が漏らした。


「この温泉街の、一番高いところの神社。……あそこに戻らなきゃいけないんだ」

「さっき、言ってた実家か」


「そう。でも、あそこには数えきれないほどのゾンビが集まってる、パンデミックの時、あそこが避難所になったから……。私でも近づくだけでやっとだよ」


 凛は自嘲気味に笑い、研ぎ終えたナイフを鞘に収めた。


「実家に帰省したいわけじゃない。あそこに……まだ、置いてきたものがあるんだ、それを確かめに行きたい」


 彼女の瞳に、いつもの冷徹な光とは違う、熱を帯びた、けれどひどく脆そうな色が混じったのを僕は見た。


「だから、手伝って欲しい。……あんたらを仲間にしたのは、そういう打算があったのもある」


 凛が何を置いてきたのか。それが物理的な何かなのか、あるいは彼女自身の「時間」なのか。

 それは僕には分からなかった。

 けれど、彼女がこの温泉街に留まっていたのには、そんな理由があったのだ。


「凛が行きたいのなら、手伝うよ」


 凛は一瞬、呆けたように僕を見た。

 それから、いつものにやりとした笑みを口端に浮かべる。


「あんたの名前、藍沢……なんだっけ」

「星音だよ、シノン」

「シノン、ね。そん時までには、もうちょっと使えるようになってよね」

「はいはい」


 凛はランタンの火を吹き消した。

 暗闇の中で、彼女の声だけが微かに震えて聞こえた。


「寝なよ。明日からはもっと、過酷になるから」


 ◆


 凛の言葉通り、翌朝からの空気は一変した。

 地下室に差し込む光は昨日までと同じはずなのに、凛のまとう気配が鋭く、研ぎ澄まされていた。


 那奈花には僕から、凛の手伝いをすることを伝えた。

 最初は不満そうな表情をしていたが、「先輩のやることならついていきます」と、最後には認めてくれた。


「いい? 神社へ行くには、この街のメインストリートを突っ切るのが一番早い。けど、そこは『水明荘』の前を通ることになる」


 凛は床に広げたボロボロの地図を指で叩いた。


「まともに戦えば十秒で囲まれて終わり。だから、あんたたちには隠密行動の極意を叩き込む」

「練習、するんですね」


 目を覚ました那奈花が、不安げに自分の三脚を握りしめる。

 凛はその様子を冷ややかに見つめ、腰から予備のナイフを抜いて僕に投げ渡した。


「星音、あんたはそれ。那奈花、あんた、三脚は地下に置いていきな。あんたの武器は、これ」


 凛は、那奈花に丈夫そうな袋を手渡す。


「……石、ですか?」

「ゾンビは音に敏感なんだ。いざって時に遠くの金属にでも投げれば、音がなって囮になる。非力なあんたでも使える武器だよ」

「……分かりました、やってみます」


 僕は渡されたナイフの重みを確かめる。

 脱出へのカウントダウンが、静かに始まった。


 ◆


 ハッチを開け、再び地上に這い出る。

 朝の空気は昨日よりもさらに冷たく、肺の奥がツンと痛む。

 凛を先頭に、僕たちは身を屈めながら、かつてのメインストリートの影を縫うように進んだ。


 視界の先には、山の中腹に鎮座する巨大な旅館『水明荘』が、霧の中からその不気味な姿を現し始めている。

 

「……止まって」


 凛の低く短い声に、僕と那奈花は石像のように凍りついた。

 前方の交差点、錆びついたガードレールの向こう側を、数体の人影がふらふらと横切っていく。

 衣服はボロボロに裂け、肌は土気色を通り越して黒ずんでいる。

 あいつらは、もう「人間」としての意識は一欠片も残っていない。


 凛は指を唇に当て、「静かに」という合図を送る。

 那奈花は腰の石の袋をぎゅっと握りしめていた。

 僕は彼女の背中にそっと手を置いた。

 僕の手も、本当は震えていた。


 ゾンビたちが物陰に消えるのを待ち、凛が再び合図を出す。

 僕たちは息を殺し、足音一つ立てないよう慎重に移動を再開した。


 やがて、道は急な上り坂に差し掛かった。

 その頂上に見えるのが、凛の実家である神社。そして、その手前には『水明荘』の巨大な正面玄関が、口を開けて待ち構えている。


「あそこの坂は死角がない。一気に駆け抜けるよ。……那奈花。もし私の合図があったら、反対側に石を投げな。一瞬でもあいつらの意識が逸れれば、それでいい」

「……はい」


 那奈花の返事は、風にかき消されそうなほど細かった。

 坂を登り始めた時、最悪のタイミングで風向きが変わった。

 僕たちの「生きた匂い」が、旅館の玄関先に溜まっていたゾンビたちの鼻腔を突いたのだ。


「……ア、ァア……」


 暗がりから、粘ついた唸り声が漏れ出す。

 一体、二体、そして十体。

 暗闇の中で光る濁った瞳が、一斉にこちらを向いた。


「那奈花、投げて」


 凛の鋭い指示に、那奈花が腕を振り抜いた。

 石の入った袋が放物線を描き、遠くの廃バスの窓ガラスを叩き割る。


 ――パリン!


 鋭い破壊音が響き渡る。

 一瞬、ゾンビたちの首がガクンと音の方へ向きを変えた。


「走れ!」


 凛の叫びとともに、僕たちは心臓が破けるほどの勢いで坂を駆け上がった。

 背後から、獲物を逃した飢えた獣たちの絶叫が追いかけてくる。

 僕は那奈花の手を強く引き、ただ前だけを見て走った。


 石段を駆け上がり、朱塗りの鳥居をくぐり抜ける。

 そこは、街の喧騒から切り離された、異様な静寂に包まれた境内だった。

 凛は門の(かんぬき)を力任せに閉めると、その場に崩れ落ちるようにして肩で息をついた。


「……はぁ、……はぁ。……たどり、着いた」


 凛が顔を上げ、本殿の奥を見つめる。

 こには、三年前から時を止めたままの、けれどどこか生きているような気配を漂わせる古びた社が立っていた。


 凛が命を懸けてまで戻りたかった場所。




 その拝殿の扉は、誰かに開けられるのを待っているかのように、わずかに隙間が開いていた。

次話 20:00 投稿 (最終話)

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