#7 賞味期限切れの命
スポーツ用品店を後にした僕たちは、凛の背中を追って、さらに温泉街の奥へと進んだ。
かつては観光客の笑い声で溢れていたであろう参道は、今やひび割れたアスファルトが剥き出しになり、倒れた看板が墓標のように並んでいる。
「……ここ、私の通学路だったんだよね」
凛が、色あせた「温泉まんじゅう」の幟を銃口で払いながら呟いた。
そのすぐ足元には、干からびた肉片がこびりついたロープのようなものが転がっている。
それがかつて誰かの飼い犬だったのか、あるいは――考えるのを止めた。
「凛さん、あそこは……?」
那奈花が、震える指で通りの突き当たりを指差した。
そこには、一際巨大な和風建築が、怪物の死骸のように横たわっていた。
温泉街最大の旅館『水明荘』。
その威容は、崩れ落ちた瓦と、割れた窓ガラスによって、不気味な威圧感へと変貌している。
「あそこには絶対近づいちゃダメ。パンデミック発生時に、数百人規模の客が居たんだ。……自殺志願者にもあそこに近寄るのはおすすめしない」
凛はその建物を避けるように、裏手の細い路地へと足を踏み入れた。
そこには、小さめの旅館と、その倉庫のような建物があった。
湿ったカビの匂いと、何かが腐敗して凝縮されたような悪臭が鼻をつく。
「腐敗臭だけは三年経っても慣れない……。人間の死体は別格に臭いんだよ」
凛はそう言いながら鼻をつまんだ。
「ここは、この旅館の備蓄倉庫。この臭いだから……中にはゾンビがいるかもね」
錆びついた鉄製の扉が、行く手を阻むように建っていた。
凛は腰のベルトから不恰好なバールを取り出した。
「中に入ったら私と先輩くんが警戒、那奈花……あんたが食糧を詰めて。バッグはこれ」
凛が「さん」付けを止めたことに気づいたが、それを指摘する余裕はなかった。
彼女がバールを隙間に差し込み、体重をかける。
ギィ、と耳障りな金属音が静寂を切り裂いた。
その音に反応するように、建物の奥から「……カチッ」という、あの不吉な音が返ってきた。
「……いたね」
凛が低く、楽しむような声で笑う。
彼女は扉をわずかに開け、僕たちを振り返った。
「言ったでしょ。この世界じゃ、ご飯を食べるのにも命がかかるんだよ。……覚悟はいい?」
那奈花が、パーカーの裾をギュッと握りしめる。
新しく履き替えたスニーカーが、砂利を踏んで微かな音を立てた。
「行こう」
暗い倉庫の口が、僕たちを飲み込もうと開いていた。
◆
重い鉄扉の隙間から、冷え切った空気が漏れ出してきた。
凛を先頭に、僕たちは慎重に足を踏み入れる。
懐中電灯の細い光が暗闇を切り裂くと、そこには積み上げられた段ボールの山と、業務用サイズの缶詰が並ぶ棚が浮かび上がった。
――カチッ。カチッ。
やはり、音がする。
だが、どこか力強くない。
光の輪をその音の主に向けると、倉庫の隅、棚と壁の隙間に「それ」がいた。
「……っ」
那奈花が息を呑む。
そこにいたのは、かつてこの旅館の従業員だったであろう、和服の上にエプロンを締めた女の成れの果てだった。
彼女は三年間、この密室に閉じ込められていたのだろう。
その体は極限まで乾燥し、皮は骨に張り付き、眼球は白く濁りきっている。
扉が開いたことには反応しているようだが、立ち上がるだけの筋力すら残っていないのか、ただ床の上で喉を鳴らし、枯れ枝のような指先をこちらへ伸ばして虚空を掻くだけだった。
「人を喰わないとゾンビもそうなるんだよ、ちょっとどいて」
凛は、那奈花をどかすと、思いっきりその頭を踏みつけた。
――ぐしゃり
と腐ったスイカがつぶれるような音。
その、かつて人間だったものは、その瞬間にただの肉塊に変わった。
「殺した方がいいんだ。あんな姿になってまで生きていたくないだろうし」
凛は一瞥しただけで、興味を失ったように棚へ向かった。
那奈花はその死体から目を離せないでいた。
三年前まで、この女性もここでお客さんを迎え、笑っていたはずなのだ。
それが、こんな場所で……。
「那奈花、こっちだ。早く回収して出よう」
僕は彼女の視線を遮るようにして、保存食の棚へと促した。
棚には幸いにも、水煮の缶詰や乾パンの入った一斗缶、それから真空パックされた米が手付かずで残っていた。
僕たちは黙々と背嚢に詰め込んでいく。
驚くほどあっさりと、食料は手に入った。
「……ねえ、先輩」
那奈花が呟いた。
「あたしたちも、いつか、あんな風になるんでしょうか。どこにも帰れなくて、暗いところで、ただ……」
彼女の瞳には、隅にいる異形への恐怖ではなく、自分たちの未来への予感が映っていた。 僕は那奈花の冷え切った手を握りしめる。
こんな時、気の利いた言葉一つ出てこない自分がもどかしかった。
「……させない。あんな風には、絶対。僕が君を連れて帰るから」
根拠のない言葉だった。けれど、そう言わなければ、僕たちの心まであの異形と同じように枯れ果ててしまいそうだった。
「……約束ですよ」
「ロマンチストなのはいんだけど、そういうのは夜やってくれる? 私にとって今は仕事の時間だから」
凛の呆れたような声に、僕たちは慌てて離れた。
背嚢はズシリと重い。
僕たちは、まだピクピクと動いている肉塊を避け、埃っぽい倉庫を後にした。
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